第30話 9月 雪女の離婚調停~登記簿謄本の読み方~
文字数 3,872文字
コンディションによっては、辛くなってきてしまうのか、突然、花や種原山の風景の画像が続くときもあった。
宮下さんは旦那さんから離婚を切り出されるまで、はっきり言ってごく普通のツイートだった。フラワーアレンジメント教室の作品とか、きれいな夕焼けとか、家庭菜園で収穫した野菜とか。
丁寧な暮らしをしている良い奥さんという印象が伝わるツイートが、徐々に疑心暗鬼に、ダークになっていく様はスリリングだった。
ずっと遡ってわかったのは、旦那さんとは職場で出会ったということ。
県庁の臨時職員かな? 働いていたとき社内恋愛をしたよう。その頃の旦那さんは仕事人間の真面目な人みたいだな。だから遊びじゃなくて本気になってしまうのか……
きっと先輩も真面目だから二股とか無理そう。嘘とかつけなさそうだし。先輩が浮気とか、想像するだけでダメージくるな。
『夫から連絡があった 調停期日通知書が届いたのだ 大人しいと思っていたけどけっこうやるもんだねって怒っている 本当にこの人と好き合って結婚したのかな』
『慰謝料300万は高いだろと言い出したので それは調停で言ってと返した』
『夫がポエムを語り出した 俺さ 今まで真面目にやってきたけど 自分の人生だもん 自分の好きなように生きていいよね 失敗してもいいんだ 自分で決めたことだから ←よく覚えておくね それフラグだから』
『この人 こんなに頭悪かったかしら もう謝ってもらわなくてもいい』
匿名とはいえこんな風に晒されるなんて、恐怖。
そして今日は調停の当日。きたきた。宮下さんのツイート。
『家庭裁判所入口で夫と鉢合わせしてしまった 入ってから別々の部屋で待機している』
『同じ部屋には弁護士を同行した集団がいた 土地の相続で争っている? ご苦労様』
『そろそろ時間なので いったん離脱』
少し緊張が伝わってくる。あ、宮下さん、フォロワー増えている。
夕方5時になり食堂に行った。大家さん田所さんはいたが、宮下さんはまだ。
「上手くいったんですかね」
私が聞くと田所さんは、
「さあね。いざやってみると、なかなか一回じゃまとまらないものなんだよ、調停ってのは」
「そうなんですか。宮下さん、落ち込んでなければいいけど」
大家さんは、
「宮下さんが来ても、そっとしておいてあげましょうね」
今日のメニューはサンマの塩焼き、水菜とキノコの豆乳鍋、里芋のごま味噌、インゲンの粒マスタードサラダなど。ランチにあったギンナンのかき揚げは完売しちゃったって、残念。
9月終わり頃からまた客足が戻ってきたと、大家さんニヤリとしている。
食堂の引き戸が開き、宮下さんが恥ずかしそうに顔を出した。
「宮下さん! どうだった?」
大家さんの第一声。そっとしないの?
宮下さんは静かに微笑んで、
「あ、はい、まとまりました。調停調書とって、市役所に離婚届出してきました」
「よかったわね、お疲れ様。まあ座って、ご飯食べなさいよ」
「はい」
大家さんは宮下さんがご飯を食べている間も、質問攻め。
「慰謝料はいくらになったの?」
「200万円です、毎月5万円の分割払いになりました」
「相手の提示額は100万円だったから、大成功よ、頑張ったわねえ」
「離婚はお互い合意していたので、あとは金額面での調整でした。アドバイス通りに “相手の不倫という不当行為によりストレスで体調壊しました” ってワンフレーズでシンプルにジャブ打ちました」
宮下さん、清々しい表情。豆乳鍋でホッとしたのかうっすら涙ぐんでいる。そういえば、離婚したから名字はどうなるんだろう。
「名字は変わるんですか?」
「うん、旧姓の小出になるの、小さいに出るの出」
宮下さん改め小出さんは、ササッと食べ終わると、鞄の中から紙を取り出しテーブルに広げた。
細かい字の羅列。私はそれを初めて見たので何のことだかわからなかった。大家さんが眼鏡をずらして、
「不動産の登記簿謄本じゃない、誰の不動産?」
小出さんはその用紙を凝視しながら、
「外池製作所のです。少し前に法務局でとったものです」
「なんだこりゃ、これもう、破綻しているじゃないか」
田所さんが珍しく高めの声を出した。大家さんも、
「ほんと、堅い会社かと思っていたのにねぇ」
どうしてすぐにそれがわかるの?
私は3人から登記簿謄本の見方を教えてもらった。
小出さんの指す先を目で追うと、財務事務所、県税事務所の差し押さえ登記というものがいくつもあって、それは税金を滞納しているということだと。
それから銀行や信用金庫から借り入れした際の担保の設定というものがいくつもされてあって、それが軒並み保証会社に移転している。それは銀行への返済が滞ったということだと。
きっとこの場に先輩や八島がいたら、大喜びしただろうな。
ちょっと待って、旦那さんこんな会社に婿に行ったら、お金無くなっちゃうんじゃない?
「もしかして、慰謝料の支払いできなくなっちゃうんじゃないですか? あ、でもそんな時のために調停調書があるのか」
田所さんと大家さんも、
「これを知ったらいくらなんでも旦那は100年の恋も冷めるだろうよ、わざわざ火の車に乗り込むようなもんだ」
「これじゃ慰謝料滞りそうね、よかったわね調停しておいて。延滞したら即強制執行よ。給料がとろける前に天引きしちゃいなさい」
小出さんは登記簿謄本を見つめたまま、
「雅士はすぐに外池恵美と再婚するはずです。何度も早く離婚届を出せ出せと督促してきたので。私は外池製作所が、実質破綻状態であることはこれでわかっていたので、雅士に教えるかどうかずっと迷っていました」
小出さんの胸の穴からまた氷雪が漏れてきそう。
そのとき、厨房から畑中さんがお盆を持ってきた。フワッとシナモンのいい香り。
「これ、もし嫌いじゃなかったらどうぞ」
「あ! 焼きりんご」
私は思わずテンションが上がった。
甘いものはあんまり興味無いけど、畑中さんのスイーツだけは別。
りんごがうっとりするような深みのある色に仕上がっている。宝石のべっ甲みたい。
田所さんが焼きりんごを食べながら、
「私があんたの立場なら、教えないね、旦那と外池はあんたを舐めすぎた」
「私も教えない、自業自得よ」大家さんも頷く。
下を向いて焼きりんごをボソボソ食べていた小出さんは、小さい声で話し出した。
「今日、裁判所で雅士はずっと態度が悪かったんです。なんでこんなことをしなけりゃならないんだってふて腐れて横柄で、調停委員のおじいさんとおばあさんも呆れてしまったくらいで。でも一緒に外に出たときここが最後のチャンスだ、教えなかったら私、ずっと引きずるかもしれないと思って、思い切って雅士に言ったんです」
小出さん、涙声だ。
「外池製作所は倒産するよ、再婚する前によく考えた方がいいって。そうしたら、バカなこと言うな、今度はこっちが名誉毀損で訴えてやるって訳のわからないこと言い出して、最後まで私の話は聞いてくれなかった」
とうとう泣き出した。
「ひどい、小出さんの善意を踏みにじって、絶対後悔する」
「あとで気がついたときには、全部取り返しがつかないことになっているのよね、バカな男だわね」
「再婚したあと、あんたの良さに気がつくだろうよ。復縁しようって言われても断るんだよ」
畑中さんの希少価値スイーツにはバリアを解く不思議な力があるのだ。
その証拠に、ほら、小出さんの胸から温かな雪解け水が伝っている。
年が明けた頃小出さんから、元旦那さんと外池恵美が再婚したと聞いた。
小出さんは3月に、泉水駅東地区にある弁護士事務所の正社員に採用が決まり、もう食堂で会うことは無くなった。
後日談。
開ちゃんが言った。
「私の家も工場だった、倒産しちゃったけど」
私達がしきりに外池製作所の噂話をしていたせいかもしれない。
なかなか倒産しないわね、借入れが多すぎて銀行がリスケしてくれるのよ、もしするとしたら民事再生手続きかね、民事再生と倒産って違うんですか? などなど。
「何の工場だったの?」
私が聞くと開ちゃんは、
「高機能不織布」
こうきのう、ふしょくふ……
「あ! 紙オムツのこと?」
すると開ちゃんは笑いながら、少し得意そうに
「お父さんが作っていたのは、高機能不織布を使った農業資材。それを電子部品とかに応用する研究をしてた。株式会社アマミヤ繊維っていう会社だよ。東京繊維工業大学と共同開発していたんだ」
前期で玉砕した高嶺の花、東京繊維工業大学か。アマミヤ繊維をスマホで調べる。あった、あった。
「本当だ、独自の技術やノウハウにより、技術革新の承認業者の認定を受けていたって」
倒産の理由は、あ……なるほど。
「なんで倒産したの?」
大家さんはっきり聞くなあ。開ちゃんは、
「色々タイミングが悪かったみたい。村瀬さん、言っていいよ」
開ちゃん、中身は本当に中学1年生かな。八島より大人な気がする。
「えっと、ですね、革新素材として期待されていたが、研究開発費の負担が重く……近年では補助金の減少……により、今回の措置となったと。ね、開ちゃんの両親は今は何の仕事をしているの?」
「両親は今2人とも会社勤めだよ。会社とお父さんは破産したけど、従業員さん達にちゃんと給料は払ったよ」
ふと開ちゃんはなにかを思い出したように、顔を曇らせた。
「あらまぁ、世が世ならあなた、お嬢様だったのね」
またまた大家さんの雑な発言。開ちゃんはムッとした顔をして、さっき浮かんだ微かな違和感は煙のように消えた。