第2話 3月 心理的瑕疵物件コーポ種原
文字数 3,073文字
左手に立派な泉水地域医療センターと福祉医療学部の建物が見えてきた。
バスの停留所から沢山の人が降りていて、活気がある。
それを横目に通り越し進むと、すぐに
あれがずっと憧れていた理工学部だ。
「大学にはとっても近いです。大学の近くに種原山自然公園っていう山があって、ハイキングコースとかもあるんですけど、そのふもとにあります。大通り沿いにはドラッグストアとスーパー、見えますか? そう、ちょっと庶民的なスーパー。山の裏手には道の駅もあるんですよ」
右折してから右側、すぐに理工学部の正面門に到着した。そのまま通り越し大学沿いを徐行する。
予想していたよりずっと大学の敷地が広く、建物が何棟も連なっている。
私ももうすぐ念願の仲間入りができるんだ!
大学の北側にはやや大きな病院があった。
「種原病院だって」
お母さんのささやきを聞いた高橋さんは、
「病院が近いのも安心ですよね」
古い病院で看板には、透析センター、高齢者医療、一般外来とある。泉水市は風が強く、3月の木々の枝ぶりが寒々しい。
1階の窓から、患者らしいお婆さんがこちらを見ている。
道路を挟んだ左側には『種原山自然公園遊歩道入口』という雨に打たれた古い看板。
看板の奥に『たんぽぽ食堂』と目的の『コーポ種原』が並んでいた。
食堂の脇のコブシが満開で白い花をつけている。
「ここです」
高橋さんが食堂の駐車場に車を停めると、店の中からクリーム色のエプロンを着けた30代くらいの女の人が出て来た。
私達が車から降りると、「二宮さん、すぐ戻ると思います」と、微笑みながら丁寧なお辞儀をした。
清潔感があって優しそうな人だな。大家さんは二宮さんというのか。
コーポ種原を見上げる。
確かに大学に近い。大学の正面門まで自転車で5,6分ってとこか。
山頂へとなだらかに迂回する遊歩道が見える。タヌキやキツネが出てきそう。
視界の先には清らかな小川が流れていて、木製ベンチもある。
小川の向こうには、木漏れ日の雑木林。枯れ葉の中に芽吹く雑草と、紫色はカタクリの花だろうか。
小学3年生の時、家族で行った最後のキャンプを思い出す。
きれいで新しいアパートだった。
南向きで日当たりも良い。2階建て、全部で6世帯のアパート。
お母さんが露骨に警戒する。
「あの、家賃はいくらなんですか?」
「共益費込みで3万5千円、ネット完備で、あ、失礼します」
高橋さんは電話を受けながら、
「ちょうど大家さんがお戻りになって、これから中を案内してくれるそうです」
小川のせせらぎと鳥のさえずり。
今住んでいるアパートは道路に面していて車の通りが激しいので、静けさが染み込んでくる。
5分ほどで、60代くらいの背の低い少し派手なおばさんがやって来た。赤いバックを手に赤いショールを巻いて、指人形みたいなコミカルな歩き方。
少し甲高い声で、
「こんにちは、大家の二宮です。泉工医大の新入生?」
「はい! 近藤優名といいます、よろしくお願いします」
思いっきり頭を下げると、
「ハキハキしていて気持ちいいわねぇ。泉工医大の先輩二人いるわよ、学科は?」
「理工学部バイオ化学システムです」
「めずらしいわね。女の子はたいてい福祉医療学部にいくから」
おしゃべりしながら鍵を開け、部屋の中を見せてくれた。
中もきれいだ。洗濯機と
「前に住んでいた子がね、実家に戻るからいらないって言うから、そのまま置いていってもらったのよ。小さい冷蔵庫は使う? 今、食堂の倉庫に有るんだけど、使うなら運ぶわよ」
「ありがとうございます!」
バストイレ別でオール電化でネット完備。
なによりも今日見てきたアパートみたいな、すえたような嫌な匂いがしない。
「お母さん、ここがいい、絶対ここにする」
お母さんはまだ表情を硬くしたまま、
「あの、大家さん、その、霊が出るって聞いたんですけど、それってどんな風なんですか」
大家さんは「説明して」と高橋さんを肘でつつく。
高橋さんは身振り手振り一生懸命話し出した。
「あのですね、お母様、あくまで噂、噂なんですけど、霊感が強いとうっすら感じるかもしれないっていうレベルですよ。見え方は人それぞれなんですけど、噂ではですね、おじさん? お爺さん? 年配の男性の霊らしいんですけど、生前と変わらない姿で公園をたまにちょっと通るくらいで、霊って気がつかないみたいです。私も何回か来ていますけど、全然わからないですね」
高橋さん必死だ。
大家さんはあっけらかんと、
「ぜーんぜん怖くないのよ、害は無いし。もし見たとしても無視していいから」
と付け加えた。
霊がいるという前提としても、実態のある新興宗教の勧誘と、実態の無い霊の徘徊なら、霊の方が実害が無さそうだ。
ん? 公園を徘徊?
「あの、アパートの部屋の中には出るんですか? その、霊って」
「え? まさか! あの人達、部屋には入ってこないわよ、ねえ畑中さん?」
何故か大家さんは笑いながら、背後にいたクリーム色エプロンの女性に話を振る。畑中さんと呼ばれたその女性は、
「私もここに住んでいますけど、アパートには入ってきませんよ。他の住民の方からも、そういったことは聞きませんし。ただ種原山が好きで散歩しているだけみたいですね」
ゆっくりとした穏やかな口調で、嘘を言っている感じはしない。
「アパートに出ないということは、心理的瑕疵物件では無いのでは」
私が思わず呟くと、大家さんは手を叩きはしゃいで、
「そう、そうなのよ! 泉工医大の子はやっぱり賢いわね。関係ないのに種原山で見た人が変な噂を広めてしまって、不動産価値ダダ下がりで怒り心頭よぉ」
盛り上がって話している私達を疲れた顔で眺めていたお母さんは、大家さんに最後の質問をした。
「前の入居者はどうして出て行ったんですか?」
「前に入っていた斉藤君はね、北斗大学の大学院に編入したんですよ」
旧帝大の難関国立北斗大学。お母さんの顔から力が抜けた。
「ああ、そうなんですか。娘も気に入っているようですし、お世話になります」
「大家さん、よろしくお願いします!」
私はまた頭を下げた。大家さんは笑顔で、
「泉工医大生は真面目だから安心なのよ、近藤さん、こちらこそよろしくね。明るくて元気なお嬢さんで嬉しいわ」
こうしてなんとか住むところが決まった。
心理的瑕疵物件コーポ種原。
こんな条件のいい物件に住めるなんて、私は本当にツイている。
大家の二宮さんと賃貸借契約というものを結び、家賃、敷金、礼金、仲介手数料を振り込むことになった。
家賃3万5千円とはいえ、最初はまとまると手強い金額になったが、彩ちゃんが工面してくれた。
「大丈夫、大丈夫、まかせて優ちゃん。そのかわり大学がいくら楽しくても、夏休み冬休み春休みは帰ってくるのよ」
私が大学進学できたのは、お母さんと彩ちゃんのおかげ。大学院までは望まない。早く就職して楽させるんだ。
今日は引っ越し当日。
引越し業者は人手不足だしあまりにも高額なので、お母さんの軽自動車に荷物を詰め込み、自宅とコーポ種原を二往復することにした。たいした荷物もなかったし。
片道200キロで3時間。北に向かうと、季節外れの残雪が残っていた。
彩ちゃんが用意してくれたポットのお茶とおにぎりの入ったバックを膝に抱え、母さんの安全運転で出発した。