第14話 2月 バレンタインの作法
文字数 3,146文字
大家さんの何気ない一言に、私と八島は同時にカッと目を見開き窓の外を見た。コーポ種原とたんぽぽ食堂はずっと雪に埋もれている。
月曜日、学期試験のため朝はいつもより早く出て、スノーブーツを履き学校まで黙々と歩く。
雪に慣れていない私は足元に集中しないと転びそうになる。顔を上げると前方に、八島がトロトロ歩いているのが見えた。
急に鳴り響くサイレン。
目の前の種原病院から救急車が飛び出していく。八島が「おおっと」、驚いた後はお決まりのいつものセリフ。
「急変して泉水地域医療センターに転送だな。俺もいい匂いがしそうな福祉医療学部まで連れて行って欲しいよ」
学期試験期間も終わり、長い春休みに突入した。
一方バイト先の天神アカデミーでは、受験シーズン到来によりシフトが増えた。
8時を回りバイトを終え窓の外を見ると、大通り沿いには車がびっしり停まっている。生徒の親が迎えに来ているのだ。暖かで清潔な服を身につけ、礼儀正しくもふて腐れた表情で車に乗り込む子ども達。
勉強のできるできないは、所詮ドングリの背比べ。そんなことより中学生の松岡君と高校生の滝口さんが、パートの久田さんにも礼儀正しく挨拶しているのを私はいつもチェックしているのだよ。
だからあの二人には、「報われて欲しいなぁ」と自然に思えてくる。
「お先に失礼します」と社員さん達に挨拶すると、「お疲れさん、明日もよろしくね」と、疲労困憊した塾長が力なく笑う。塾長、無精ひげくらい剃ればいいのに。ちゃんと寝ているのかな。
大通りを過ぎ大学を道なりに歩いて行くと、種原病院とたんぽぽ食堂の明かりが見えてきた。
雪はやみ、澄み切った夜空に響いた電車の音は、そのまま静かに沈殿する。
食堂の引き戸をそっと空けると、加湿器の前で百川先輩が一人待っていてくれた。テーブルの上には2人分のお箸と取り皿と調味料がセッティングされている。
「お帰り。畑中さんは仕込み終わって帰った。オーナーも2階に上がった」
天井を指さしながら、立ち上がってほうじ茶用のお湯を沸かし始めた。
「待っていてくれたんですか?」
「俺もさっき帰ってきたばかり、病院前の雪かきしていた」
「お疲れ様です」
さっそく2人で、畑中さんが取り分けておいてくれたおかずをレンジで温める。
「あ、サツマイモの炊き込みご飯だ」
「安納さんからサツマイモ貰ったからね。大学芋もあるよ。さっき八島がタッパーに詰め込んでいたから少し取り上げたんだ」
安納さんというのは、定年後、本格的な自家菜園をしている町内のご夫婦。
「よかった、油断も隙もないですね」
「今夜は肉豆腐に、大根とベーコンのスープ。黒胡椒使う? 」
「はい。このタッパーは?」
「試作品の水キムチだって」
「あ、美味しい、メインが優しい味だから締まりますね」
「うまいね」
「本当にここに来てよかったなぁ、寒いしとにかく風は強いし、最初はとんだ田舎に来てしまったと思ったけど」
「芽依ちゃん、お正月に初めて帰省したんだよね」
「親がたまには帰って来いっていうから仕方なく。でも騒々しくて居心地悪くて二泊が限界。私の部屋、弟達の物置になっていたし」
「大宮だよね、お金と時間かけて帰ったのに二泊?」
「うん、耐えられなかった。先輩だって全然帰省しないじゃないですか」
「まあね」
「先輩って東京出身ですよね。東京のどこですか?」
「湾岸エリア、タワマン育ち」
「金持ちですね!」
すると先輩は人差し指を眉間置くいつものポーズで、
「金持ち? 両親の考えはよくわからん。見栄張ってタワマン買ってローンに縛られて、朝早く通勤ラッシュで揉まれて仕事なのかわからないけど遅くに帰ってきて疲れ果てちゃって。どうしてそんな苦行を進んで自分に課しているのか意味わからん。しかもタワマンといっても26階。上層部エリアの下層だから、中ではマウントとれないんだよ」
「26階って眺めはどうですか?」
「飽きるよ。それに不気味」
「不気味?」
「ここみたいに、風が吹いたり鳥が鳴いたり虫が鳴いたり、一切無いの。なんにも無い。ただ生霊が集まってくる。それから判別できないモノも」
「また始まった」
「芽依ちゃん、バカにするけど本当。生きている人間の念の方が怖い」
「それはわかりますけど」
「それから、2人の時は『先輩』じゃなくて名前で呼ぶようにとあれほど」
急に突風が吹き、窓のペア硝子が音をたてた。窓に目を向けると、テーブルの上の籠が目に入る。ユメト君お気に入りの石たち。
「今週はいろいろありましたね、諒、君」
「だね」
ユメト君のお父さんは5日の深夜、アルコール性肝硬変の背部痛により動けなくなり、泉水地域医療センターへ救急搬送された。アル中の禁断症状で錯乱状態となりそのまま入院することに。
「ユメト君って頼る人のいない父子家庭だから、治療する間はね、大山さんの手引きで児童養護施設へ入所することになったのよ」
と大家さんが説明してくれた。
最後にユメト君がたんぽぽ食堂にご飯を食べにきたとき、私は思わず声をかけた。
「ユメト君、お守り代わりに石を持っていく?」
ユメト君の返事は、
「大丈夫。今までもこういうことあったし、石も仲間と一緒がいいだろうし」
「ユメト君てば、大人な受け答えしちゃって。まだまだ小僧でいいのに」
「あいつ、独特の感性があって面白い奴だよね」
「キララちゃんも養護施設に入ったし」
「ネグレクトされていたんだってね」
このところ大山チルドレンメンバーの入れ替わりが激しい。
「アル中で暴れたり、虐待したり、生きている人間の方が怖いですね」
「だろ? それに比べて元拓さんやベンチの爺さんなんて無害……そういえば最近見ないな」
翌週の14日には世間一般のバレンタインのお作法にのっとって、百川先輩にチョコレートを渡した。
すごく緊張した。事前にスーパーヤオシンで買ったのだが、その時店長さんに見つかってしまった。遠くから店長さんニヤニヤしながら小走りで近寄ってきて、
「誰にあげるか、当ててみようか?」
「当てないでください」
「えー当てさせてよ」
「絶対誰にも言わないでください」
「えーいいじゃん」
不覚だった。見られてはいけない上位ランクの人間に見られてしまった。
近場で済ませないで、ショッピングモールまで行けばよかったかも。でも、ショッピングモールは福祉医療学部とナチュカビルが近くにあるから、何となく行きたくなかったんだよね……
バレンタインの日から、百川先輩の顔をあんまり見られない。
今日は食堂のカウンターで畑中さんのお手伝い。
メニューはみぞれ鍋と聞いて、張り切って大根をゴリゴリすりおろしている。
大家さんと百川先輩がまったり会話しているのを、背中で聞きながら。西向きの小窓から外を見ているみたい。
「弟はやっと成仏したみたいだわ」
「そうですね、オーナー。爺さんの気配も消えました」
「あっけないわね、あんなに絡んできたのに。逝くとき私に挨拶が無かったわ」
「ははっ、無断でオーナーの土地に居座っていたのに、失礼な爺さんですね。これでコーポ種原は心理的瑕疵物件では無くなりましたか」
「そうよ! 家賃上げようかしら」
それまで聞き流していた麦倉先輩と八島が振り向き、無効だと騒ぎ出した。
そんなことはどうでもいい。私はおとといから落ち着かなかった。何かしていないと耐えられない。
何故なら、バレンタインのチョコレートをあげたとき、先輩はこう言ったのだ。
「今度の土曜日の夜8時頃、芽依ちゃんの部屋に行くから予定しておいて」
あまりにもサラリと事務的に告げられたので、つい自動的に、
「あ、はい」
と答えてしまった。それが今夜なのだ。