第26話 8月 不審者襲来~先輩の背中で号泣~

文字数 2,368文字

 私は人よりも冷静で落ち着いていると思っていた。こんなに恐怖で震えて体も思考もコントロールできなくなるなんて、思いもしなかった。

 犯人の特徴に確信が無かった。
そんなに背は高くはなかったはず。でも入口のサルスベリの木のどの辺りだったかなんて思い出せない。
黒いナイロンっぽいトレーニングウエアの上下にフードを目深にかぶっていて、長いくせ毛の前髪、黒っぽいタオルで鼻と口を隠していたのは病院入口の照明でわかったけど、痩せ気味の20代から30代前半だったかもしれないと答えてから、「もしかしたら、見間違えているかもしれません……」と付け足した。

 追いかけられているときは、もっと黒く大きく感じたし。あのカラス男みたいに。なんか、頼りない私。
でも、あの独特のくせ毛、見たことあるような気がする……だめ、うかつなことは言っちゃだめ、確証がないとえん罪になっちゃう。

 私がうなだれると、警官は事務局長さんと話を始めた。先輩は私の前にひざまずき、両膝の消毒をしてくれた。
脱脂綿で傷口をそっと拭う度に「しみる?」と先輩は何度も私を見上げた。
私はやっと安心してきて、そして先輩が私の目を何度も見てくれていたので、涙がぽろっとこぼれてしまった。

「痛い? 松岡さん! ちょっと来て」
 年配の看護師さんが呆れたように笑って、
「大丈夫よ、彼女、ホッとしたのよ」
「こんなに動揺している百川君初めて見た、それ、パジャマだよね」
 若い看護師さんが指さしてからかう。廊下から透析の治療が終わったらしい中年の男の人が幽霊のように現れた。
「今日は賑やかだね」
 お水をくれたお婆さんが立ち上がる。患者のお母さんみたい。
「事件があったのよ、さっきね……」二人は話をしながらタクシーで帰っていった。あのお婆さん、息子の治療が終わるのをずっと待っていたのか……

「百川君の彼女って実在したんだ。しかもかわいいタイプ、意外」
 若い看護師さんの言葉に反応して、年配看護師松岡さんは、
「この人、彼女がいるって言い張っているけど、部活で後輩の女の子に寝技かけているうちにつきあっていると勝手に勘違いしちゃったんじゃないかって、みんなで心配していたのよ。これよ、これ、こんな風に」
 ロビーのテレビを指さす。スポーツニュースで女子レスリングの試合が放映されていた。
先輩は画面をチラッと見て
「合気道に寝技は無いです」
 とムスッと答えた。看護師さん達、サバサバしてカッコいいな。
事務局長さん、看護師さん達にお礼を言って、先輩と一緒に病院を出た。


 やっと落ち着いてきて歩けるようになった。道路を渡ろうとすると、
「おんぶか抱っこ、どっちがいい?」
「だ、大丈夫だよ」
「いいから、どっち?」
 また先輩怖い顔。私がビクッとしたのを見て「ごめん。怪我しているから、どっちか選んで」
「あの、おんぶで」
先輩がしゃがんで、私は先輩の背中に覆い被さって胸元に両手を回した。

 先輩の匂い。広い背中。胸板やっぱり厚いなぁ。
背も程よく高くてガッシリしていて、内緒だけど実はタイプなんだよね。
こういうのがタイプなのかと気がついたというか……なんとなく、好きを上回った方が『負け』というか、力関係が弱くなるような気がしてあまり悟られたくないんだけど。
先輩と触れ合うと、この間までしていたセックスを思い出しそうになって、慌てて気をそらした。

 先輩はひょいと立ち上がる。私のトートバッグは肩に掛けた。実はさっきから気になっていたけど、先輩の左頬に二つ引っかいたような傷がある。指でそっと触れて、
「痛そう。どうしたの?」
「くすぐったい。バイトでちょっとぶつけた」
先輩はぬかるみを避けながらゆっくり歩く。雨雲は去って、おぼろ月が種原山を照らしている。私はこの景色を一生忘れないかもしれない。

「少し痩せたよね、髪も伸びた」
「先輩も」
「その服、初めて見た」
「うん」
「ごめん」
「え?」
「ひどいこと言ったよね、ずっと謝りたかった」
「……」
「もう嫌われたかと思って避けちゃった」
「……先輩のバカ」
「はい」
「私を無視しないで」
「ごめん」
「もう、フラれるんだって、思っていた」
「まさか」
「もう絶対に絶対に、冷たくしないで、本当に辛かったんだから」
「わかった」

 途中で私は、恥ずかしいくらいしゃっくり上げて泣いてしまった。
理詰めで考え感情を抑え込んで、ずっと我慢してきたものが堰を切ったように溢れてしまったのだ。

 先輩の代わりなんていないし、他の男の子で代用なんてできない。他の女の子に取られるなんて冗談じゃない。
泣きじゃくりながら、これじゃあ、いままでバカにしていた感情的な女そのものだと思った。先輩が泣いている私を見て、嬉しそうにしているのも少しシャクに障った。


 部屋の前に着き、先輩の背中から降りる。先輩がバッグを肩から外したので、
「バックに、誕生日プレゼントが入っているの」
先輩がひどく驚いた顔で、「見ていい?」
リボンのシールのついた箱は、転んだときに潰れてしまっていた。
「スポーツタオル?」
「うん、部活やバイトで使うかなって思って」
先輩はよく企業が配っている年賀タオルを首にかけている。それがヘビロテでクタクタなのだ。『税理士法人よしの』『泉水信用金庫』『高橋司法書士・土地家屋調査士事務所』の3パターン。種原病院でもらったみたい。
「ありがとう、芽依」

 あ、パワーバランスがおかしい。
私の方が、先輩を好きな熱量が大きいって雰囲気になっている。だって先輩の得意そうな顔。
「これからバイトの帰りは迎えに行くから、一人でウロウロするなよ。返事は?」
「……はい」
「芽依は替えがきかない」
「?」
「他の女はみんな量産型だけど、芽依はスペアが無い。今度からもっと大切にするから」
「もう一回言って?」
「もう言わない」 

 またあの甘くヒリヒリした日々がやってくる。

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登場人物紹介

近藤 優名(こんどう ゆうな)


2018年泉水工業医療大学(理工学部)合格。それまでは母と叔母(母の妹)の近藤彩と3人暮らし。明るく前向き。胸キュンの少女マンガが好き。


「彩ちゃんは工場の技術職でカッコいいの。私も早く就職して一人前になって2人に楽をさせたい」


村瀬 芽依(むらせ めい)


バイオ化学システム1年 103号室 華奢で童顔。やや三白眼な瞳が猫っぽい。理知的で控え目な女の子。

「高校時代はガリ勉陰キャで試験しかイベントが無かったな……大学ではとにかく出来事を起こしたい」


百川 諒(ももかわ りょう)


環境工学システム2年 201号室 合気道部。ガッシリとしていて一見強面で老けている。チャラい女が嫌い。霊感があり、見える人。

二宮 治子(にのみや はるこ) 


コーポ種原とたんぽぽ食堂のオーナーで資産家。たんぽぽ食堂の2階に住んでいる。霊感があり、見える人。噂話が好きで少々おせっかい。

畑中 麻美(はたなか あさみ) 


たんぽぽ食堂の調理師 203号室 野菜中心のヘルシー献立が得意。優しく穏やかでオアシス的存在。

北里 聖子(きたざと せいこ) 


芽依と同じ学科 色白で美肌、おっとりとした性格で頼まれると嫌と言えない。最近妙な噂が……

坂入 碧(さかいり みどり) 


芽依と同じ学科 見た目はゆるふわだが、潔癖症ではっきりした性格。BL好き。「最初につき合う人は慎重に選びなさい」というお祖母ちゃんの教えを守り、恋愛には臆病。

仲野 紫織(なかの しおり) 


芽依と同じ学科 恋愛にはアクティブ、サッパリしていて明るい性格。

麦倉 宗太(むぎくら そうた)


電子工学システム3年 202号室 彼女募集中のちょっぴり挙動不審なオタク。ぼんやり霊が見える人。

八島 柊人(やしま しゅうと)


機械工学システム1年 102号室 長身でルックスはいいが、いつも一言余計で金にうるさい。霊感ゼロ。

大山 仁市(おおやま じんいち) 


もと校長先生の民生委員 101号室 虐待児童や貧困児童救出に日夜奔走している。物腰は謙虚で上品。あの世から定期的に視察が来る。

服部 司


村瀬芽依マニア 泉工医大バイオ化学システム 浪人しているため芽依とは同い年だが学年が1つ下


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