第7話 6月 種明かし②~近藤優名の帰還~
文字数 2,469文字
小雨の降る昼下がり、たんぽぽ食堂に彩ちゃんがやって来た。駅からタクシーに乗って。
彩ちゃんは化粧品工場の技術職。いつもラフな私服で出勤するから、こんな黒いスーツ姿の彩ちゃんは珍しい。
大家さんは前もって連絡を受けていたのか、来ることがわかっていたみたい。
大家さんと畑中さんが出迎え、彩ちゃんを傘に入れて案内する。
「足下がぬかるんでいるので気をつけてくださいね」と。
食堂入り口には、ナツツバキの白い花が雨に打たれて幾つも落ちている。
彩ちゃんは持参した花束を小川の近くに添えると、水面に向かってしばらく手を合わせていた。
大きな花束が珍しかったらしく、タヌキの子が出てきた。
たんぽぽ食堂には準備中の札が下がっている。
大家さんは彩ちゃんを食堂に招き入れ、窓側のテーブルに案内した。
彩ちゃんの前に、畑中さんがほうじ茶と青梅の和菓子を出す。
「いきなり訪ねてきてすみません、頭がおかしいって思いますよね」
「いいえ、いいえ、そんなことはありませんよ」
大家さんと畑中さんは、彩ちゃんの前に座った。彩ちゃんはほうじ茶を一口いただき、深呼吸したあと、
「姪の優ちゃん、優名がまだ成仏していないように感じるんです。もう四十九日も過ぎたのに」
大家さんと畑中さんは頷いている。
「一緒に事故で亡くなった姉さんは、成仏しているってわかるんです。でも、優ちゃんは」
彩ちゃんはハンカチで目を押さえている。
「泉工医大に進学するのを本当に本当に楽しみにしていて、とってもいいアパートが見つかったんだよって何度も話して……あの、優ちゃんて、辛いことがあっても不平不満を言わない子で、いつも私や姉さんは励まされていて、本当にどうして、なんで」
大家さんと畑中さんも鼻を
「本当に痛ましい事故でした。前向きでしっかりしたお嬢さんという印象でした。無念でしたでしょうね」
私はゆっくり彩ちゃんの隣に座った。
畑中さんは私を見ながら、
「私も優名さんにお会いしたことがあるので、なんとなくわかります。優名さんはまだほんの少しだけ未練があるのかもしれませんね」
みんなが私を思って泣いている。
彩ちゃんの帰って行く後ろ姿を見届けたあと、気がつくといつものベンチに来ていた。
雨は上がっていた。
ハチ割れ猫が私を見ている。
赤い着物女子とタヌキの子も、私を心配しているみたい。木の陰からそっと見ている。
私は、自分がとうに死んでいることは気がついていた。
あの軽自動車での引っ越しの最中、雪道で大型トラックのスリップ事故に巻き込まれ、一瞬だった。上から眺めていたので知っている。
パトカー、救急車で騒然とする中、お母さんは先に逝った。やり切ったのだと思う。お母さんの人生を。
お父さんは私が小学5年生の時に出て行った。
お母さんは理由を必死に隠していたけど、なんとなくわかっていた。不倫だって。相手に子どもができたって。
「なに? 新人の子に手を出したの?」
怒りを押し殺し震えるお母さんの声。両親の会話を盗み聞きした。
最初謝っていたお父さんだったが、最後は開き直っていた。お母さんのしゃっくり上げる声。
その時、私とお母さんは捨てられるんだとぼんやり思った。
養育費が途絶えた中学1年生のとき、独身の彩ちゃんが同居しようと提案してくれて、3DKのアパートに3人で引っ越しした。
彩ちゃんが実家を出た理由は、
「実家の弟にお嫁さんがくるから肩身が狭い」というものだった。
彩ちゃんは気っぷがよく、恩着せがましくないのだ。仕事で疲れていても、威張ったりしたことは一度もなかった。
最初は些細なマイルールがぶつかったけど、すぐに慣れて賑やかになった。
彩ちゃんの収入のお陰で息がつけたという感触があったから、感謝しかない。
彩ちゃんがお給料日に買ってきてくれたプリンやエクレア、美味しかったなぁ。
死んでから一度だけ、お父さんの家を見に行った。
小学校に上がったくらいの女の子がいた。私の異母姉妹か。
おでこが広くて眉毛が太くて私によく似ている。私はお父さん似なのだ。
娘に笑いかけながら、ふと小骨が喉に刺さったような表情のお父さんを見た。
お父さんはこれからも感情に振り回されながら右往左往して生きていくのだろう。
私は今まで、すぐに落ち込んで心配ばかりしているお母さんを支えてきたという自負がある。
私も短いなりに人生をやり切ったと思うが、大学生活や恋愛というものに少しばかり未練があった。そして気がつくと、コーポ種原にたどり着いていたのだ。
彩ちゃんが持ってきた百合の花束。
雲間から覗く陽の光を集め、白く反射している。
「お前はそろそろ帰れ、みんなが心配する」
いつの間にかゴッホ爺さんがベンチに座っていた。
「うん、わかっている。私にも向こうで仕事があるみたいだし、もう逝きます。この世でやり残したことは、そうだな、誰かにバトンタッチしようかな」
「それなら丁度いい、あの子にしたらどうだ」
ゴッホ爺さんの杖に先に村瀬さんがいて、百合の花束に手を合わせていた。
「うん、そうする。お爺さんはいつ帰るの?」
「モトムラさんの願いが成就するのを見届けたら、逝くとするか。それまでは憎まれ口を叩いているよ」
「ここは居心地が良すぎるね」
「ああ、確かに」
その時、1階に住む大山さんが自転車を押して帰ってきた。
いつものクタクタ紺色Tシャツ。自転車のカゴにはスーパーの袋に入ったバナナがある。大山さんはバナナを持ってパトロールするのだ。
コーポ種原にたどり着いて一番に驚いたことは、大山さんの徳の高さだった。
彩ちゃんが持ってきた百合の花のように、大山さんは淡く暖かく発光している。
そしてたまに、仕立ての良いスーツや着物をまとった複数の男女が、かたわらで大山さんの行動を観察していることがあった。
それは例えて言うなら、視察というか。視察の方々がこの世の人でないことは一目瞭然だ。
羽が生えているから。
大山さんの仕事のお手伝いをしたかったな、というのがこの世でやり残したことだ。
村瀬さん、バトンタッチします。