第23話 8月 すれ違いの夏休み
文字数 2,804文字
「最近食堂の売り上げ落ちているだろ」
「そうよ! このままじゃ慈善事業どころの話じゃなくなるわよ」
「原因はアレだ、雪女だろ?」
「あなたが来ると夏なのにみんな薄ら寒くなるから出禁ね、とは言えないわよ。さすがに私も」
田所さんは去年旦那さんを亡くして、それからは料理するのが面倒になったらしい。最近食堂の常連さんになった。
雪女と称されている女性は、近くの高橋司法書士事務所のパートをしていると店長さん情報。
雪女は私も知っているが、あれは……暗い。私の高校時代より暗い。
そして寒い。夏なのに寒い。
なぜなら、胸にぽっかり空洞があって、そこから雪混じりの風が吹いているからだ。比喩ではない。ちゃんと見える。大家さんにも確認した。
「そうよ、最初の頃はブリザードだったわよ」
雪女が、食堂の脇のナツツバキの前でぼんやり佇んでいるのを何度か見かけた。亡霊なのか生身なのか迷うほどの影の薄さ。ナツツバキも心なしか凍えているよう。
「あんた、ちょっと来てみな」
食事を終え帰ろうとすると、急に田所さんに手招きされた。
「あんたはね、ちょっと三白眼なのがいけない」
「三白眼?」
「黒目が上に寄り気味で下に白目部分が多いだろ、キツく見えるんだ。人相学的にもよくない、犯罪者に多い人相だよ」
「やだ、どうしたら治るんですか」
「人の顔色をうかがうような上目遣いをやめて、微笑むように、目を細めて、ホラ、顎引かないで、そうじゃない」
「難しい、眩しい顔になっちゃう」
「あんた、夏休みに実家には帰らないのかい?」
「はい。バイトがあるし、それにお正月に帰ったら私の部屋、弟達の物置になっていたんですよ。ここが一番落ち着きます」
「ならよかった、あんたは実家から遠く離れた方が運が向いてくる星を持っているよ」
その時、バイトを終えた百川先輩が食堂に入ってきた。私は
先輩は無言で頭をひょこっと下げて挨拶をして、窓側に座り夕飯を食べ出した。こちらをまったく見ない。
あの日以来、先輩は私が見えなくなったみたいだ。ミュートしている。
もちろん土曜日の夜に、部屋を訪ねて来ることはなくなった。
無視されるダメージがきつくて先輩が怖くなったので、バイトのシフトを入れて食堂で先輩と会わないようにした。
忍者のように行動するのは得意分野。高校生のときに鍛え上げている。
ああ……でも、あのときとは違うキツさだな……胸がギュッとする。
毎日夕方5時頃、田所さんとパート帰りの雪女と一緒に夕食をいただき、そのあとまたバイトに戻った。なにかをしていないと気が滅入ってしまうので。
階段の上り下りの大きな足音とベランダの洗濯物で、一応先輩の生存確認はしていた。
お盆の頃だったか、ずっとシャツやトランクス、タオルが出しっぱなしで雨ざらしになっていたのが気になったけど、どうしようもなかった。
ちょうどその頃、一度だけ先輩と出くわしたことがある。
バイトに行く途中で種原病院の前を通りかかったとき、先輩が駐車場で介護タクシーの運転手さんに声をかけていた。すごい汗だった。
それを見ていたら、目がばっちり合ってしまった。
慌ててペコッと会釈をして通り過ぎたのだが、そのときの先輩の顔。
眼鏡の奥の目が引きつっていた。なんだそのカッコ、とでもいうような
……恋愛しんどいな。
その日は塾の保護者説明会の日だったので、白いブラウスと濃いグレイのタイトスカートを着ていた。
そしてバイト三昧でなかなか美容室に行けなかったため、伸びて邪魔になった前髪は斜めにピンで留めていた。
両手が空いて楽だからショルダーバッグを斜めがけにしていたけど、変だったのかな。どれが変だったのだろう、全部変だったのかもしれない。
暑いし、へこんでいるしで食欲無かったけど、雪女が下を向きながらでもゆっくり丁寧にご飯を味わっているのを見て、私も習って野菜中心にいただいた。
田所さんが雪女に声を掛けた。
「あんた幾つだい?」
「28歳です」
ナチュラルメイクの雪女はもっと若く見えた。
無口だからわからなかったが、とてもかわいらしい声。テンションの似ている雪女と一緒にいると、寒かったけど落ち着いてきて、私は勝手に親近感を覚えていた。
田所さんと雪女の反対側では、
「塩顔カップル、ケンカした?」
「村瀬ちゃん元気ないよね」
「モモちゃんもずーーっと機嫌悪くてさ、まるで腫れ物にさわるよう。肉体労働から事務処理まで色々やってもらっているから辞めてもらったらホント困るし、もう気遣うよ」
「わかるぅ、うちもバイトに気遣ってる、お互い大変だよねぇ」
種原病院事務局長さんと店長さんがひそひそ話。全部聞こえています。
私は天神アカデミー恒例夏休み特訓とお盆特訓全部に出て、塾長に「村瀬さんありがとう、マジで助かる、ほんとに」と感謝され、保護者からの差し入れのお菓子を貰った。そのお菓子は、食堂で自習をしている開ちゃんにあげた。
去年に比べ大山チルドレンは、食堂にご飯だけ食べに来てすぐ帰るようになった。夏休みの宿題なんかしやしない。
少し大人になるとフラフラし出すのかな。常連だったダイヤ君、ミサキ君も見かけない。発情した猫みたいに、どこでなにをしているのやら。
そんな中、開ちゃんだけは違う。毎日しっかり勉強をして帰る。開ちゃんは中学1年生だけど、中学校の数学はもう1周している。
私は実家にあった数学の教科書や参考書を開ちゃんにあげたのだ。お正月に帰省したのはそれが目的だった。塾にも開ちゃんほどやる気と能力のある子はいない。
……実は前までずっと『開君』と呼んでいて、みんなで男の子と思い込んでいた。田所さん以外は。
中学生になって制服のスカートを履いてきたのを見て、食堂は静まりかえった。私達はそのとき初めて開君が女の子だと知ったのだ。
自称が『俺』、スポーツブランドのジャージ上下、ベリーショートと大股を開く座り方、ゴチャゴチャした字、グシャグシャなプリント、プーマの筆箱の中もグシャグシャ、つっけんどんな物言いにがさつな物腰。男の子の中でも男らしいと思っていた。
「あら、女の子だったの。そういえば小っちゃくてカワイイ顔しているわね」
大家さんの軽口を、開ちゃんは険しい顔で思いっきり無視した。
開ちゃんが帰ったあと、田所さんは言った。
「治ちゃん、思春期の子は難しい。刺激しないのが一番さ」
「声変わりしないなとは思っていたのよ。あの子が女の子だってみんな知ってた? 」
大家さんの問いに私と畑中さんは首を横に振った。田所さんは少し得意そうに微笑みながら、
「私はわかっていたよ。職業柄、洞察力は必要だからね」
それから開ちゃんの自称が『俺』から『私』になった。
母親から「スカート履いて ”俺” や ”僕” はイタい子に思われちゃうよ」と諭されて、やむなく変えたらしい。