第19話 5月 成田君の父親が学資ローンを借りて失踪しました
文字数 3,748文字
いつも疲れたようにぼんやりとしている印象だが、何かの拍子に眼光鋭くなるときがあった。
八島が「謎のジジイみたいなババア」と言ったとき、百川先輩は
「田所さんはただ者じゃない、そういうこと言うとバチがあたる」
と珍しく常識的にたしなめた。百川先輩には何か見えているのかな。
その日は朝から雨だった。
ゴールデンウィークが終わり通常運転に戻ってからの、やっと金曜日。
バイトが終わり、少し開放的な気分で夕飯をいただいていた。
グリンピースが色鮮やかな天津丼を半分と、
食べながら隣のテーブルの会話が耳に入ってきた。
大山さんの前に、
成田君は高校1年生になったばかり。
中学3年生の夏休みから食堂にきて自習をしていた。たまに遠慮がちに質問してくる真面目な子。不思議なことに成田君が勉強しているときだけは、大山チルドレンが気を遣って静かにしていた。
「旦那は職が定まらず、出稼ぎに行くと言っては家を出てふらふらしていて、3月に戻ってきたとき、宗也が受験なのに何やってんのよって喧嘩になって、そしたら1か月くらいしてまたなんにも言わずに出て行って行方不明ですよ、今。連絡もとれない」
白髪混じりの髪をゴムでまとめて、やけに老けて見える母親だった。
「旦那の鞄に学資ローンのパンフレットがあったから、警戒していたんですよ。使われないように境川高専の合格通知は二人で隠しておいたのよね」
成田君が頷く。成田君は努力の甲斐あって念願の第一志望、境川高専に合格していたのだ。
「本当にうっかりしていました。アイツは滑り止めに受けた私立の合格通知を見つけ出してコピーして、学資ローンの借り入れをしていたんです」
大山さんは成田君と母親にお茶を勧めながら、
「旦那さんは教育費という名目で、いくら借り入れをしたんですか?」
母親はバッグから封筒を出し、三つ折りになっていた紙を広げた。
「これが銀行から送られてきた返済予定表です」
そのとき、食堂にいた全員が集まって返済予定表を覗き込んだ。
「50万、元金据え置き無しの5年払いか、予想よりえらく堅実な返済計画。意外だ。」
百川先輩、急に現れたな。
「これ結局、旦那さん持ち逃げですか。学資ローンなのに、失踪資金に使っちゃったんだ、ひでぇな!」
八島の言葉で母親はヒートアップ。
「そうなのよ! こっちは奨学資金申し込んだり仕事掛け持ちしたりしているっていうのに、アイツは好き勝手なことばかりしているのよ、昔から! 宗也の制服代教科書代だって実家に頭下げてやっと工面したのよ」
「これ、旦那さんが払わなかったら奥さんに請求が来るんですか?」
私が恐る恐る尋ねると、
「保証会社が入っているから大丈夫みたい。でもね、いちいち使ってもいないローンの郵便物が私に届くのがもう癪にさわる! アイツ、どうやって借りたのかしら、今収入無いのに。去年の所得証明書? なるほどね、去年は割と仕事していたのよ。アイツなんかに貸した銀行もどうかしている、ブラックじゃなかったのかしら。時効? 5年くらいで消えるの? ずるくない? そういえば3月はやけに家に居るなと思っていたのよ。借り入れの書類作ったり、郵便物を受け取ったりしていたのね、今思うと。本当に、本当に……昔から」
母親が涙ぐみながら心情を爆発させると、それまで黙っていた成田君が口を開いた。
「母さんもういいよ、もう離婚してよ、俺、高専出たらすぐ働くから、これ以上あいつと関わりたくない」
食堂が静まりかえった。
「お母さんだって離婚したいのよ、今回で本当に愛想が尽きた。でもどこにいるのかわからないし連絡もとれないし、大山さん、こういう場合どうすればいいんですか?」
一呼吸おいて、大山さんは、
「この場合、離婚訴訟を提起することができると思いますが」
「訴訟って裁判ですか? そんな面倒なこと忙しくて無理ですよ……」
母親は大きなため息をついた。
そのとき、聞いたことの無い低いしゃがれ声。
「アンタの亭主、今回は本気のようだね」
一瞬、誰がしゃべったのかと思い、私と八島は周りを見渡した。
「見つけられたら離婚はスムーズだよ」
カウンター、大家さんの隣に座る田所さんだった。体を半分こちらに向けて、いつもと違う眼光鋭いモードに入っている。
母親は思い当たる節があったらしく、
「女がいるってことですか」
はっきりと言った。大山さんは両手を挙げて、
「ちょっと待ってください、宗也君の前ですよ」
なだめるように制したが、田所さんは躊躇せずに、
「この坊ちゃんはみんなが思っているよりずっと大人だよ。周りをよーく見ている」
このお婆さん何者? と言う空気が食堂に蔓延した頃合いで、大家さんが解説してくれた。
「田所さんはね、拝み屋さんなのよ」
みんながキョトンとした。
「やだ、占い師のことよ」
あ、そうなんだ。
なんだろう。田所さんの背後に、なにか白く発光して揺らめいている。カゲロウのような……いや、滝? 嫌な感じはしないけど、言葉で表せない。
「坊ちゃん、大事なことだからよくお聞き。養育費はね、
言い終わると田所さんはニヤッとした。
成田君の母親は田所さんの言葉の消化が追いつかない表情。大山さんは渋い顔をして、
「田所さん、宗也君はお父さんとはもう関わりたくないって言っているのですよ。それをけしかけるような」
「オヤジを甘やかしちゃダメだよ、大山さん。ちっとは責任取らせなきゃ。オヤジの為にならないよ」
私は大山さんにダメ出しする人を初めて見た。
ところでさっきから、大山さんの背後には、肩に何かを乗せた人のホログラムが見えるのだけれど。あ、大きな鳥だ、鷹か鷲。じゃあ後ろにいるのは鷹匠かな。
……私、疲れている?
「でもね、宗也君が負担になるようなことはあんまり言わないでください」
「だから言っているじゃないか。坊ちゃんはオヤジよりもずーっと大人なんだよ。あー疲れた、もう切り替えるわ」
田所さんの背後の白い揺らめきがフッと消えると、いつもの飾り気の無い気怠いお婆さんに戻って、お茶を啜った。
それでも田所さんは食堂を出るとき、成田君と母親にまた声をかけたのだ。
「イタチごっこでラチがあかないから離婚した方がいいね。オヤジはやがて坊ちゃんのお荷物になる。でも養育費はできるだけ払わせな。この世でラクし過ぎたら、あの世に行ってから苦労するのはオヤジだから。えーとなんて言ったっけ横文字の、……プレッシャーだ、オヤジにプレッシャーを与えて責任というものを学ばせるのが、坊ちゃんの親孝行だよ。まあ、好き勝手させてあの世で後悔させるっていう選択肢もある。どっちでもいいけどさ」
乾いた笑いを浮かべながら、入り口の傘を手にした。雨はまだ続いていた。
「……先輩」
「どうした? 芽依」
土曜日の夜、部屋に来た先輩に恐る恐る相談した。先輩は部屋に来るとすぐにベッドに直行で、お話しをするのはいつも色々終わったあと。
……先輩という人は、本当に色々試して最後に「もうなんも出ねえ」とか言う。
「ちょっと待って」と言っても、もう待ってくれない。
いろんな体勢をとらされるので、途中で実験台にされている気分になっちゃう。ムードやデリカシーというものを一体どこに忘れてきたのか。
でもスタミナは無尽蔵みたいで、終わったあとおしゃべりを始める。私はグッタリしているのに。仲ちゃんに言わせると「変わってる」だって。
「今まで見えなかったものが見えたの」
先輩は細い目を見開いた。
「大山さんと田所さんの後ろに」
「何が見えた? 」
「大山さんは鷹匠、田所さんは……滝に見えた」
「惜しいな。大山さんは鷹を連れた修験僧、田所さんは九尾の狐だよ」
「キュウビの狐? 」
「知らない? 伝説の九尾の狐。九つの尻尾のフサフサが動いて滝に見えたんだね」
あ、碧が言っていたテレゴニーってこういうことなの? セックスで相手の遺伝子が組み込まれるって。先輩の無駄な霊感が私にも身についちゃったの?
先輩はまるでサークルの新入生に内輪話でもするように、
「芽依も見えるようになったんだ。慣れるまではキツいかもしれないから、なんでも俺に聞いて。大山さんの後ろの人はね、俗世間を捨てて山で修行していた人なんだけど、一人で死んでいく間際に “もっと俗にまみれて人助けをすればよかった” って強烈に後悔したんだって。前に俺とオーナーに話してくれたことがあるんだ。それから大山さんの場合、3か月にいっぺんくらい視察団みたいなのが来るんだ。5人から8人くらいなんだけど、その時は食堂がぎゅうぎゅうになるよ」
もう不安しかないんですけど。