第6話 6月 種明かし①~徘徊する霊の素性~
文字数 2,539文字
授業に実験、課題に試験が絶え間なく押し寄せ、まだ慣れない村瀬さんと八島君は四苦八苦している。もう泉工医大のことは馬鹿にしていない。
「これ以上コーポ種原の評判が下がらないように、あんた達、単位を落としちゃ駄目よ。留年なんてもってのほかよ。いいとこに就職するのよ、できれば公務員」
これは大家さんの口癖。
定期的にプレッシャーをかけてくる。私の気分転換は、小川のベンチでぼんやりすること。
すると大抵ゴッホ爺さんがどこからともなく現れて、少し離れて座るのだ。間にはハチ割れ猫が丸くなる。
大家さんが通りかかると、ゴッホ爺さんが必ず言う言葉がある。
「モトムラさんはまだ成仏していないぞ」
すると大家さんはキッと爺さんを睨みながら、
「知っているわよ、ちゃんと供養しているのにこれ以上どうすればいいのよ、教えてちょうだいよ」
私は2人に尋ねた。
「モトムラさんて誰ですか?」
ゴッホ爺さんは杖の先を大家さんに向けて、
「この人の兄さんだ……モトムラさんは。生前、人工透析をしている母親の介護をしていたんだ。生涯独身でな。母親を看取ったあと、おととしだったかな、心筋梗塞で亡くなった」
「ちょっと、杖を向けないでよ! もう亡くなって4年たつわよ!」
「モトムラさんは優しかったなあ、介護のために工場を時短勤務にしたり、車椅子で公園を散歩させてあげたり」
大家さんの顔が引きつっている。
「兄さんには感謝しているわよ、でも、私だってその頃旦那が亡くなって大変だったんだから」
そんな時、大家さんの援護をするのは百川先輩だ。
コーポ2階の部屋からのっそり顔を出すと、パジャマのような姿でガンガンガンと階段を降りてくる。
「爺さん、爺さんが座っているそのベンチの土地は、オーナー所有の不動産ですからね、住民以外は無断で勝手に入らないでください。明確に区別しようと思って、オーナーの土地と泉水市所有の公園の境界線上に目印の杭を打っておいた筈なんですけど、爺さん、抜きましたか?」
「やだ、百川だったの、あの小っちゃい棒並べたの。子どものいたずらかと思って抜いちゃったわよ」
「犯人はオーナーでしたか。でも大丈夫です。この辺りの公図は全部頭に入っていますから」
と、百川先輩は人差し指で眉間を指す。これ、癖みたい。
そんな会話が続く中、遠くに見える遊歩道ではいつものおじさんが、車椅子をゆっくり押して歩いている。
あの人が既に亡くなっているモトムラさん、大家さんのお兄さん。
実はゴッホ爺さんとモトムラさん、この2人が種原山で目撃される徘徊する幽霊なのだ。
その日の夜、たんぽぽ食堂にて。
食事が終わりくつろいでいたところ、珍しく村瀬さんがみんなに尋ねた。
「ここに住んでから、まだ心霊現象に遭遇していないんですけど」
八島君も「俺も」と手を挙げる。
少し間を空けて、麦倉先輩が大袈裟にため息をついた。
「……いろんな種類の鈍感さって……あるよね」
続けて、
「村瀬サンと八島の鈍感さが一番羨ましい」
古い映画のように首をすくめる麦倉先輩を、百川先輩は笑いながら、
「ははっ、麦さんは不明瞭不鮮明で気配だけ感じるから怖いんですよね」
「そうだよ! モモちゃんと大家さんは凄いですよ。霊と対等に世間話までしちゃうもんね。俺から言わせると、それもある意味鈍感ですよ? 逆にお二人に聞きますけど、この世でいったい何が怖いんですか?」
大家さんと百川先輩が顔を合わせる。大家さんが、
「病気かなぁ」
「麦さん、霊より生きている人間の方が絶対怖いですよ、生き霊とかの方が。あとは強いて言えば、所有者がわからなくなって放置されている土地の上でゾクッときますね。上に立つとわかるんですよ」
百川先輩、人差し指で眉間を指す。
聞かれてもいないのに、八島君と村瀬さんが続けて、
「俺はお金が無いのが一番恐怖。電車が止まらない駅のように、入った金が目の前を通り過ぎて出て行くあの感触」
「私はヤンキー女やパリピの集団」
私は、「怖いことってそんなに無いものだよ」って言おうとしたけど、伝わらないか。
畑中さんも笑いながら会話に入る。
「麦倉君、私もうっすら感じる派だけど、二人とも知っている人だから怖くないわよ。元村拓巳さんと湯川哲次さんだもの」
「二人ともよく公園を散歩していたしね」
大家さんがあっけらかんと答える。
畑中さんが、霊の素性をみんなに説明してくれた。
三年前の冬の夜、風呂場でヒートショックで亡くなった湯川さんは、生前と変わらず杖をついて散歩している。急なことだったから、まだ自分が死んだ実感が無いのかしらね、と。
二宮さんのお兄さんの元村拓巳さん、通称 ”元拓” さんは、生前お母さんにやってあげていたように、車椅子を押して公園を散歩していますね、と。
麦倉先輩が頭を抱える。
「畑中サン、ほっこりとしたイイ話風ですけどね、元拓の車椅子の車輪、回転していませんから! 車輪は2次元でそのまま平行移動していることに気がついてしまった時の俺の恐怖、わかりますか? それとそのヒートショック爺さん、はっきりとは見えないけど眼鏡の端に映り込むんですよ、なんか灰色? の服着て、晩年の一休和尚っぽいシルエットで」
「麦さん、2次元に見えるのは受け手側の感度の問題かもしれません。それに爺さんは渋い緑のシャツに灰色のジャージです」
「え? そうかな、黒のズボンじゃない? 首にタオル巻いて。よくその格好していたもの、ね、畑中さん」
「私はうっすらだから、鶯色のポロシャツがチラッとわかるくらい」
村瀬さんと八島君は突然の種明かしに、唖然として固まっている。
畑中さんはボソッと、
「元拓さんはどうして成仏しないんですかね。真面目で穏やかな人だったから、すぐにでも天国に行けそうなのに。なにか心残りでもあるのかな」
そう言った後、店内を見渡してカウンターに座る私を見た。
大家さんも、透かし彫りの扇子で口元を隠しながら、かたわらの私に耳打ちした。
「そうよ、あんたも早く成仏なさい」
ガタッと麦倉先輩が急に立ち上がり声を荒げた。
「あと、大家さん! 独り言なのか誰かに話しかけているのかわからない時がありますけど、隣に誰かいるんですか!」