第31話 ダメ男の欲望

文字数 4,762文字

 何もかも忌々しかった。
 朱音徳二(あかねとくじ)は子供の頃からできる兄と比較された。努力家で自分に厳しい兄は、代々教育者の家系である朱音家の次期当主に相応しいと、誰もが思った。事実兄はその期待に応えて、国立大学の教育学部の准教授に就任した。順当にいけば教授も間違いなかっただろう。
 反面、徳二は生まれてから今まで、努力という才能を感じることなく生きてきた。結果として当然のことながら、学問に限らずどの分野においても成功という二文字と無縁の人生となった。
 勿論、努力の重要さ尊さを知らないわけではない。それは幼いころから徹底的に刷り込まれて育った。努力して成功する人生に憧れた。
 しかし現実は無残だった。
 どんなに決意して臨んでも、集中力は十五分持たなかった。本を読み始めても、内容を理解できるのはほんの五、六ページがいいとこで、あとはページを捲り文字を追うだけの苦痛を伴う作業となる。

 肉体的な努力はもっと辛かった。
 野球選手に憧れた。自分の打ったボールが綺麗な放物線を描いてスタンドに入る。そのシーンを何度も頭に描いた。
 徳二は小学生のときに、体育の授業のソフトボールで、一度だけまぐれ当たりのホームランを打ったことがある。バットがボールを捉えた瞬間、ぐいっと腰が入って手首が返り、ボールを巻き込むように打ち返した感触は、今でも忘れない。
 今までの人生で、自分の成果として最も晴れやかな気持ちに成れる記憶だった。
 だが、中学生と成り、勇んで入部した野球部はたった一日で辞めた。初日から今まで経験したことのない距離を走らされ、先輩たちの練習を立ったまま、唸るような声を張り上げて応援するだけ。
 この後もボール一つ触れない毎日が続くと思うと、とてもじゃないが我慢ができなかった。

 ギャンブルですらそうだった。勝つための研究などまっぴらごめんだった。いざ始めても勝負に掛ける執念がすぐに失われる。後は惰性で負けを繰り返すのみ。借金だけが積み重なる。
 そこでようやく気付いた。これは生まれつきの問題なのだ。努力できる才能を全て兄に持っていかれてしまったのだ。だから同じ親の下に生まれながら、兄は両親を上回る結果を残し、自分はこんなみじめな毎日を送らなければならない。
 そう思うと気が楽になった。生まれつきこうなのだから、今の状態は自分せいではない。もう、努力する気にも成れなかった。家でごろごろしながら惰性でテレビを見た。ドラマには興味がなかったが、ニュースは面白かった。自分と同じようなダメ人間を見ると親近感が沸いた。
 その中でも特に、ニートや引きこもりの特番が好きだった。彼らは悪くない。それは生まれつきなのだ。強いてあげれば親が悪い。

 そんな生活も長くは続かない。両親が相次いで死んでゆき、遺言により朱音家の全ての財産は兄が相続した。それでも兄は財産をきっちり分けてくれた。家は朱音家の意志を代々継ぐ象徴だから手放せないからと、現金はむしろ多めに分けてくれた。
 その金を基に家を出た。もちろん働く気はない。自堕落な毎日を繰り返すうちに、二、三年で金は尽きた。金を無心すると、兄は生活ギリギリの金を送ってくれた。
 本来であればありがたい話だが、負い目は全くなかった。なぜなら兄は生まれたときに、本来自分が受け取るべき才能迄、持って行ってしまったのだから……。
 むしろ、お前も早く自立しろ。兄弟なんだ、やればできるはずだ、という言葉が腹立たしかった。盗人猛々しいとはこのことだと思った。

 そんな極貧生活にも光明が差した。兄夫婦が交通事故で死んだのだ。残されたのは八歳に成ったガキだけ。家と生命保険、そして遺族年金がこのガキのものと成るが、もちろん生活能力はない。徳二は保護者として名乗りを上げ、生まれ育った家に乗り込んだ。
 それからは、悠々自適な生活が待っていた。もともと何にも興味を抱かずに生きてきたのだ。テレビさえ見れれば、後は好きな時に寝て、腹が減ったら飯を食う生活を取り戻すことができた。
 綾香というガキはよくできたガキだった。自分のことは全て自分でやろうとする。両親が死んでも歯を食いしばって挫けず生きている。そんな様子を見ていると、死んだ兄を思い出して腹立たしかった。
 こいつも兄が両親から独り占めした努力する才能を受け継いでいる。徳二はコンプレックスを感じたくなくて、あまり綾香に関わらないようにした。

 綾香が中学生になった頃、偶然下着姿を目にした。ガキだった綾香は立派な女に成長していた。母親似の顔は、街を歩く美しい女たちと比べてもまったく遜色なく、成長した躰は、四十年間女を知らない徳二にとって、正視できない程魅力的だった。
 その夜、意を決した徳二は、寝ている綾香を襲って凌辱した。互いに経験がないため、なかなかうまくやれなかったが、力で押さえつけ暴力を振るって、なんとか思いを遂げた。
 死人のようにぐったりしている綾香を見ても、まったく罪悪感はなかった。むしろ四十年目にして初めて女を知った喜びと、兄に対して復讐を果たした気がして、晴れ晴れしい気分だった。

 これから毎晩、綾香を犯す。その晩はそう決意したのだが、将来の怠け者ゆえ、しばらくダラダラと過ごした。徳二にとっては、女を抱くことも強い決意がなければ、後回しにしたい努力のいる行為だったのだ。
 それでも男の本能的な欲望は、日が経つにつれ徐々に膨れ上がってゆく。徳二は躰の要求を抑えきれず、三週間ぶりに綾香の寝床を襲った。
 ところがいきなり急所に膝蹴りを受け、悶絶したところを顎に、肘打ちを食らった。身体の力が抜けてぶっ倒れたところで、部屋の外に蹴りだされた。

「ふざけるなよ、エロおやじ、今度来やがったら、お前の大事なものをハンマーで叩き潰すぞ!」
 綾香の怒号が、薄れて行く意識の中でもはっきりと聞こえた。
 徳二はすごすごと自分の部屋に戻った。
 翌日の夕方、学校から帰って来た綾香が、屈強な男を連れて帰って来た。
「お前かぁ、綾香にちょっかい出すエロおやじは!」
 男は怒鳴りながら、平手で徳二の頭を二発、三発と殴った。
 徳二は恐怖と痛みで正常な神経が失われてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 何度も泣きながら謝った。
 綾香はこの三週間で、同じ学校の不良グループの仲間入りをし、強い力を得て徳二を狩りに来たのだ。

 この日からせっかく得た兄の遺産を全て綾香に奪われた。追い出されなかっただけでも良かったかもしれない。徳二はオスの本能をしまい込み、また自堕落な生活を送り始めた。
 綾香も無傷ではなかった。徳二にされた行為は、それまで必死で抑えていた両親の不幸による厭世観を増大させ、不良グループとの付き合いも手伝って、勤勉だった生活を一変させた。
 成績は落ち、悪い遊びを覚え、徳二と同じ自堕落な道に落ちて行く。その意味では、徳二は復讐を遂げたと言える。この時点までは……

 綾香は高校を卒業して定職に就くことなく、日銭を稼ぐために歌舞伎町で働き始めた。いわゆるキャバ嬢となったのだ。この仕事が綾香の人生を復活させた。
 持ち前の美貌と、両親譲りの説得力のあるコミュニケーション力が発揮され、たちまち人気者と成った。客が綾香に求めるものが、エロから癒しに変わっていくうちに、仕事としてのやりがいが生まれ始めた。
――もう一度昼間の世界に戻って、接客を中心にした職につけば成功する。
 そういう自信も生まれてきた。それは綾香の顔つきや雰囲気を変えた。日に日に輝いてくるあの女を見ているうちに、徳二はとんでもなく怒りが沸いてきた。
――綾香をもう一度自分と同じ位置に引きずり落としたい。
 その願いが頭から離れなくなった。

 徳二は綾香の働いている夜の歌舞伎町を徘徊するようになった。勿論、あの女の弱みを握るためだ。そして、あの男たちと出会った。
 後で知ったことだが、男の名前は来島錠一(くるしまじょういち)、歌舞伎町を根城とするハングレグループのリーダーだ。新宿一帯に勢力を張る反社会的組織清和会をバックに持ち、売春、薬など、清和会の資金源の窓口の役割も果たす本物の悪党だ。
 新宿を彷徨う徳二に、最初に声をかけてきたのは来島本人だった。
「おっさん、最近この辺をうろつきながら、ピンクパンサーのアヤカのことを聞きまくってるようだが、貢いだ挙句切られた口か?」
 来島の凶悪な雰囲気に、すっかり気を抜かれた徳二は、「何でもない」と小さな声で告げて、そそくさと逃げ出そうとした。
「ちょっと待てよ、何もしねぇから話を聞かせろよ」
 徳二は縮み上がった。不良とはいえ中学生にビビッて歯向かえないのに、来島のような正真正銘の悪と、一秒だって一緒にいるのは、とんでもない荒行に思えた。
「何でもありません。もう帰してください」
 徳二は女のような逃げ口上を、か細い声で伝えたが、来島は笑うだけで徳二の右腕を掴んで離さない。その笑顔がいつ鬼に変わるか恐ろしくて、徳二はその場で硬直した。
「まあ、せっかく来たんだ。そんなに急いで帰らなくてもいいだろう。それとも俺なんかに話す時間はないと言うのか?」
 言った瞬間、来島の顔に夜叉が宿った。すぐに元の笑顔に戻ったが、もう徳二に抵抗する気力など残っていなかった。おずおずと承諾の意志を示し、すごすごと来島の後をついて歩いた。

 向かった先は、生まれてこの方入ったことがない、バーだった。奥に入ったところに一組だけ、六人用のソファセットが置いてあった。
 来島は躊躇なくその席に向かい、入り口から見て奥側に徳二を座らせた。もうこれで逃げることはできない。徳二は観念した。
「最初は少し楽しもうや」
 来島はポケットからスマホを出して、電話で指示をしていた。少し待つと、来島と同様に凶悪そうな男と、女が三人やって来た。
 二人の女が徳二の両側に座り、来島の隣にもう一人の女が座った。一緒に来た男は立ったままだ。
「おっさん、名前はなんていうんだ?」
 来島はビールを片手に、機嫌良さそうに訊いてくる。両隣の女も色気があるが、来島の隣に座った女は特に凄い。やはりいい女が隣に座ると気分が良くなるのかと思った。
「朱音徳二です」
 精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「朱音、何だか女の名前みたいだな。じゃあ徳さんでいいや。徳さんも何か飲めよ」
 徳二は酒が飲めなかったが、飲まないとせっかく良い機嫌が悪くなりそうで、恐ろしくなった。
「ビールをいただきます」
「よし、ビールを一つ、お前たちも勝手に頼め」
 女たちが手を叩いて歓声を上げる。
 ワインクーラー、カシスオレンジ、ファジーネーブル、徳二の知らない名前が次々に飛び出す。立っている男が注文をまとめてオーダーする。

 酒が運ばれてくると、みんなで乾杯した。生涯二度目のビールはやはり苦かった。
「徳さんの左隣がユカ、右がアツミ、俺の隣がエリ、そしてそこに立っているのが森原だ。よろしくな」
 森原は低い声で押忍と答える。
 なぜ来島がこんなに優しくしてくれるのか、さっぱり分からなかったが、ユカとアツミの吸い込まれそうな胸の谷間と甘い匂いが、徳二の心を浮足立たせる。普段は飲めないビールが、身体の中に注ぎ込まれても平気だった。
 飲むたびにユカが「大丈夫?」と顔を近づけて心配してくれる。
「死にそうだ!」
 何度もそう叫びながら、また心配されたくてジョッキを傾ける。
 向かいの席では来島がエリの唇を触りながら、怪しげな雰囲気だ。
 何だかとても楽しくなってきた。
「ところで、徳さんはアヤカの何なんだい?」
 来島が世間話でもするように訊いてきた。
「叔父で、今は親代わりです」
 もう徳二に警戒心は欠片も残ってなかった。
「そうか、OK」
 それ以上来島は訊いてこない。
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