第64話 兄弟子

文字数 3,391文字

 トンネルとトンネルの間に僅かながら青々とした山が見え、すぐに暗闇に突入する。上越新幹線は高崎を過ぎると、その行程の大部分はトンネルの中にあり、旅情を感じる風情はない。
 それでも雷は故郷につながるこの行程に、ノスタルジックな思いを馳せてしまう。
 長岡とういう地には、そのぐらい雷の心を捕まえて離さぬ魅力があった。
 冬は雪に覆われる地、最近は暖冬の影響で滅多に二メートルを超える積雪は無くなったが、それでも雪の積もらぬ年はない。行動の自由が奪われ、閉じられた環境でただ己を磨くことだけに集中する。そこで鍛えられた精神は、いたずらに周囲へ迎合することを良しとせず、真理にのみ従う生き方を導いてくれる。

 雷の属する上杉家とは、正にこの長岡に育つ精神をそのまま体現する家であった。
 今隣で眠る八雲は、そうした家風と類まれな才能を受け継いだ一族の至宝であり、自分が命に代えても守るに値する存在だ。
 故郷に向けて周囲と隔絶されたトンネルの中を走る電車の中で、雷はいつも八雲と出会った日のことを思い出す。
 それは雷が小学生に上がったばかりの頃だった。


「あなたが、直江雷ね」
 やたら目の大きなおさげ髪の彼女は、唐突に雷の前に現れた。
 生まれると同時に母親を亡くし、父と二人で育った雷にとって、小学校で出会った女という存在は、どう接していいか分からず苦手としていた。
 今、目の前に現れた女は、そんな女たちとできることなら関わらないようにしようとした、雷の願いをいとも簡単に砕きそうな勢いがあった。
「そうだけど」
 早くどこかに行って欲しくて、訊かれたことだけを短く答えた。

 だがそんな雷の思いは、この少女の前では太陽に溶ける雪のように、あがらうことが不可能な儚いものであった。
「私は上杉八雲。あなたの亡くなったお母様は、私の父上の妹なの。だからあなたと私は従妹同士。でも直江家は上杉家の執事の家柄だから、今日からあなたは私の執事になるの。今日は私からここに来たけど、明日からはあなたから私のクラスに顔を見せにいらっしゃい。それから私を呼ぶときは八雲様と言うのよ」
 雷には、この上杉八雲と名乗る少女が言ってることは、ほとんど分からぬことだらけだった。執事や家柄と言われても初めて聞く言葉だし、どんな意味を持つのか見当もつかなかった。
 だがこの少女には、自ら進んでその要求を叶えてあげたいと思わせる何かがあった。だから雷は、その言葉の意味を理解することなく答えていた。
「はい、八雲様」

 その夜雷は父に八雲に言われたことを話した。執事や家柄など、分からぬ言葉の意味についても尋ねた。
 父は嬉しそうに笑いながら、「そのうち分かる」というだけで、問われたことに答えてはくれなかった。
 それでも一つだけ雷の一生を左右する言葉を口にした。
「そうか、お前たち二人は引き合う運命なのだな。それならば仕方ない。八雲様のお側に仕え、お守りするのがお前の役目と思え」
 敬愛する父のこの一言で、その日から雷は常に八雲と行動を共にすることになったのだ。


 今隣で雷に全てを預け、安心して眠っている八雲は、幼いころの面影を残しているものの、その当時からは想像できない美しい女に成長した。
 北条家の中にいても、その美しさは綾香や杏里紗に決してひけを取る物ではなく、その気高い気の強さは、礼美や樹希に勝るとも劣らない。雷にとっては、お姫様とは八雲のためにある言葉としか思えなかった。
 八雲の寝顔を見ながら、雷はまた過去に思いを馳せる。


 当主剱山の命により、八雲と雷は東京の高校に入学することに成った。その学校には、北条家襲撃の際に戦闘で敗れた少弐の二人を始めとして、九家に関わる子女が集まっていると言われた。
 雷は上杉流柔術の道場においては、神童と呼ばれていた。その自分が少弐智明ではなく、女性の礼美に敗れたことは、悔しさを超えて驚きがあった。敗れた原因は力の差というよりも実戦経験の差であることは、父に言われずとも自分でも分かった。所詮道場内で既知の者と闘った経験だけでは、実戦を経験した猛者に勝てないことを身をもって経験した。
 そして剱山と父は、それを自分たちに分からせるために、素目羅義の命に従い、自分たちを送り込んだことも、後に理解した。

 上京して北条家に集う者たちと接してから、自分と八雲は別次元の強さを手にしたと思う。八雲は明良や智成から、直系の者だけが持つ守護獣の力の開放を教わり、自分は礼美や樹希から思念を加えた体術の向上を教わった。
 何よりも正臣がそれぞれの秘めたる資質を見抜き、適切な助言をしてくれたことが大きな糧となった。

 しかし一番大きく変わったのは、北条家に住むように成って、命をかけた愛の存在を知ったことだ。
 明良と樹希、智成と礼美、零士と杏里紗、その誰もが将来の死を覚悟して愛し合っていた。何よりも綾香の出産は、結果こそ無事に終わったものの、死を前にしても愛を貫く姿を現実として見せてもらった。そのとき自分や八雲の母が、死を覚悟しながら自分たちを産んだ、真の理由が分かった気がした。
 それに一番影響を受けたのが八雲だった。自分を執事としてではなく、愛する者として認識したことを告げ、その思いの証として自分と体を重ね合した。その結果として雷は、八雲と上杉家にこの身を捧げることを、改めて誓わねばならなくなったのだが。


 新幹線は長岡に到着した。皮肉なことにこの長岡をもって、新幹線はトンネルを抜け地上を走る。
 八雲は起きたときに、雷にキスを求めて来た。厳格な上杉の家に戻れば、滅多なことで二人が触れ合うことはできなくなる。
 特に今回の帰郷は、盆に戻って来る祖先の英霊を弔う神聖な儀式への参加が目的だ。八雲は立場上一族の者と行動を共にすることが多く成り、一介の学生の身分である自分と一緒にいる時間は少ないはずだ。

 父もその儀式の準備で忙しく、家に帰っても誰もいないはずだ。八雲を送り届けたら道場にでも顔を出そうと雷は思った。


 懐かしい道場だった。小学校で八雲と出会った次の日に、父に伴われてここを訪れて以来、修学旅行などを除いて一日も欠かさず通った場所だ。一面に敷かれた畳には、自分の九年間の汗が染みこんでいる。
 今日も多くの門弟が稽古に励んでいた。その中にここで共に汗を流した兄弟子の姿を見つけた。兄弟子は、道場の端に正座して一人黙想していた。
「凌牙さん、お久しぶりです」
 凌牙は久しぶりに会う弟弟子を、懐かしそうに見上げた。
「雷か、戻っていたのか」
「はい、八雲様と一緒に先ほど長岡に着いたばかりです」
 凌牙は雷が東京に向かう一年前に、新潟の大学に通うため、長岡を離れ新潟市内で一人暮らしを始めた。それ以来、この道場で姿をみることはめっきり減ったため、久しぶりの再会がここであることは嬉しかった。

「八雲様も一緒か。お美しく成られたのだろうな」
「はい、それはもう美しく成られました」
 八雲は中学生に上がるころから、どんどん綺麗になっていった。初めて出会った頃は、あまりの目の大きさから『でめきん』などを連想したものだが、この頃に成ると成長による変化に意識がついていけず、一緒にいるのも息苦しく感じるほどだった。
 門下生の多くも、上杉の姫と呼びながら、その美しさを称えたものだ。

「東京の暮らしはどうだ? やはりここと違って刺激に満ちているのか?」
「いえ、私は学生の身ですから、その辺りは良く分かりません」
「相変わらず固いな。あんな大都市だから、楽しもうと思えばいくらでも楽しめるだろう」
「お言葉ですが、東京に行って、改めて世の中には強い者がたくさんいると気づきました。更なる修業が必要と感じています」
「強さか、それでお前は強くなったのか?」
「はい、以前に比べれば」
 凌牙の顔に笑いのような表情が浮かんだ。
 依然と違う非情な雰囲気に雷は違和感を覚えた。
「ならば久しぶりに約束組手をしてみないか?」
 約束組手とは、上杉流柔術における普段の修行の成果を示すための組み手で、とどめの一撃以外は身体への直接打撃を許している。たまに大けがをしてしまう者も出る、実戦さながらの危険な組手だった。
「お望みとあれば」

 雷は、久しぶりに会った兄弟子に、少なからず以前と違う変化を感じ、それが何か確かめるために、拳を交えることを承諾した。
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