第36話 愛の高鳴り

文字数 5,287文字

 時計を見ると午後三時を過ぎていた。
 コーマの部屋から戻ってから、ドレスのままですぐにベッドに横たわり、六時間以上寝たことに成る。窓の外では太陽が西側に傾いている。
 熟睡したせいか、頭を覆っていた灰色の雲はすっかり晴れていた。
 窓から楠が見える。そこにツノの姿はなかった。
 通用口に明良の姿が見えた。学校から戻って来たのだろう。相変わらず無表情だ。玄関に向かって庭を真っ直ぐに歩いて来る。
 明良がバラの花壇の前で歩みを止めた。立ち止まってじっとバラを観ている。その姿を見て、突き動かされるような衝動を感じた。

 綾香は急いで部屋を飛び出して、階段を駆け下りて玄関に向かった。ドアを開けると、明良はまだ花壇の前に立っていた。
「明良、おかえりなさい」
 明良は振り返って綾香を見た。驚いたことに明良は泣いていた。
「もう僕とコーマとの関係は聞いたの?」
「え、何のこと?」
「僕とコーマは兄弟なんだ。そして僕たち兄弟は二人とも、自分の母親が死に至った原因になっている」
「明良、あなたは三本足じゃないじゃない」
「でも力を持って生まれてしまった。だから僕の母は死んだ」
 綾香は明良を慰める言葉が出てこなかった。

「酷い家だよね、北条家って。だから早く出て行くように言ったのに」
「明良は私とコーマが結婚するのには反対なの」
「綾香も聞いたでしょう。三本足の子供を産んだら、ほぼ死が待っているって」
「その話は聞いた。でもこの話は根本的におかしいと思う」
「何が?」
「だって、コーマは私に三本足の子を産んでもらうことが目的で、私に命をかけろと言うのよ。そこには私に対する愛は存在してない」
「そういう話か」
 いつもなら、そこでくすっと笑うはずが、今日の明良は違った。

「それは仕方ないんだよ。北条家に生まれついた者は、みんな愛よりも業に支配される。僕だってそうさ。生まれついた業を背負って生きている」
「明良はどうしてコーマと一緒に居るの?」
「他に行くところがないからさ。僕の兄や姉のように普通の人間として生まれたならば、どこでも暮らすことはできたのに」
 明良の悲しみは綾香にシンパシーを感じさせた。

「私は一度も好きと言われないまま、子供を産まされようとしている。もう、この家から逃げ出すと元の自分ではいられなくなると言われた」
「それは本当だよ。だから僕は出て行くように言ったんだ。でも綾香はここにいることを選んだ。あそこで、きっぱりと出て行くと言ったら、ツノの呪いもかからなかったのに」
「私は三本足の子供を産むことや、それによって自分が死ぬかもしれないことは、そんなに恐れてない。でも命を賭けるからには、愛して欲しいだけ」
 明良は黙って綾香の顔を見た。悲しみを含んでいるけど、なんて綺麗な目をしてるんだろうと、綾香は思った。

「コーマは綾香のことが好きだと思うよ。僕には分かる」
「だったら、どうして……」
「言えないんだよ。自分の子供を産めば、死ぬかもしれない。でも北条家の当主として務めを果たさなければならない。コーマも本当は苦しいんだと思う」
「でも私が三本足の子供を産むかどうか分からないじゃない」
「それは間違いないと思う。ツノがそう告げたのだから」
「ツノって鴉でしょう。三本足かもしれないけど、鴉にどうしてそんな力があるの」
「ツノは鴉じゃない。神の化身なんだ」
「そんなの、そう思ってるだけじゃないの」
「本当は綾香も分かってるでしょう。昨日、ツノを感じたんじゃないの?」

 明良の言う通りだった。綾香は昨日確かにツノの意志を感じた。
「あれは夢だと思ってる」
「それは良くないよ。もう運命は動き出している。ここで現実を否定すると、綾香の魂は道を見失ってしまう」
「分かったわ。コーマの子を産むかどうかは別にして、私は明良を絶対に一人にはしない。そしてコーマとも一緒に居る。私はたぶんコーマを愛してしまっていると思うの。ただ、コーマが私に愛してると言ってくれない限り、絶対にコーマを受け入れたりしない」
 悲しそうな顔の明良に背を向けて、綾香は自分の部屋に向かって歩き出した。

「アヤカさん、久しぶりですね」
 アイナが嬉しそうな顔で寄って来る。
 綾香はコーマの屋敷に滞在することに決めたので、両親の遺品や自分の持ち物類を取りに一度家に戻った。配送の手続きをしたその足で、退店を告げるためにピンクパンサーに寄ったのだ。
 アイナは綾香に一番懐いていた嬢だ。出勤が不確定な綾香に代わって、今ではこの店の指名ナンバーワンを争っている人気嬢になっている。
「アイナか、ホントに久しぶりだね」
「アヤカさん、今日は店に出るんですか?」
 アイナは嬉しそうに目を輝かせて訊いてきた。
「ごめん、私、今日でお店を辞めるんだ」
 たちまちアイナが悲しそうな顔に成る。
「そうなんですね。急なんでびっくりしました。どっか別の店に引き抜きですか?」
「ううん、違う。もう、この世界では働かない」
「結婚するんですか?」
 アイナの目に好奇心の色が見えた。
「まあ、そんなとこかな」
 深く事情を知りたがるアイナの問いをはぐらかしながら答えていると、背後に人の気配がした。振り向くと店長の犬崎だった。

「ずいぶん急な話ですね」
 犬崎は突き出た腹を撫ぜながら、綾香に笑いかけた。穏やかな口調だが、目だけは笑ってない。
「すいません。急な事情で働けなくなったんです」
「来島たちに追われていたと聞いていましたが、それが関係していますか?」
「それは関係ありません」
 綾香はきっぱりと否定した。
「そうですか、それは良かった。では残りの給与の支払いもあるので、私の部屋に来てください」
 思ったよりも穏便に済みそうなので、綾香は素直に従った。店に置いてあった私物も既に引き上げてある。

 事務室はクロークの隣にある。いつも早めに来て開店準備をする、事務のおばさんの姿が今日はまだ見えなかった。
 犬崎は綾香を新人面接用のソファに座らせ、自らは向かい合うようにその前に座った。
「あの、時間がかかるようなら後日取りに来ます」
 部屋に入った直後に感じた危険の匂いに反応して、席を立とうとすると、犬崎が立ち上がって制してきた。
「まあ、そう言わずゆっくりしてくださいよ」
「いえ、帰ります」
「待ちなさい」
 強引に立ち上がろうとすると、肩から抑え込まれて座らせられた。
「何をするんですか。お給料はもういいです」
 綾香が抗議しても、犬崎は気味の悪い笑顔で応じない。更に抗議しようと口を開きかけたときに、事務所のドアが開いた。

「森原!」
 入って来たのはハングレの森原だった。
「犬崎さん、なぜ森原がここにいるんですか?」
 綾香は抗議の意味を込めて詰問した。
「なぜって、彼は来島がチームから消えてから、清話会の傘下に入り、うちで働くことになったんです。それで、あなたが彼のチームと結んだ契約は、ピンクパンサーに移譲されました。もう勝手に辞めるとかできないんですよ」
「契約って、私は契約なんかしていません」
 綾香は声を震わせて抗議した。ありったけの怒りを込めて睨みつけたが、犬崎はまったく動ぜず、むしろ嬉しそうな顔をした。
「いいですねぇ。あなたは笑った顔も素晴らしいが、怒った顔はなおいい。元々この契約はあなたじゃなくて、来島が私の後ろの清和会に気を使って作ったものですから、正式なものかどうかなんてどうでもいいんです。ただ、私はいつかあなたを手に入れたいと思っていた。あなたには、私と店のために、とことん働いてもらいますよ」
 悲しかった。なぜ自分の周りにはこういう欲に取りつかれた人間ばかり集まるのか、運命を呪いたくなる。

「おい、森原例のものを」
 森原が内ポケットからシルバーの金属ケースを取り出した。蓋を開けると中には注射器が入っていた。それを犬崎に手渡す。
「これを注射したら、気の強いアヤカちゃんもいい子に成るはずだよ」
 犬崎が注射器を手に取り、悪魔のように笑いながら近寄ってくる。
「やめて!」
 綾香は逃げ出そうと壁沿いにドアの方に走ったが、森原に難なく取り押さえられる。そのままジーパンを脱がされ、太腿をむき出しにされ抑え込まれる。
「じゃあ、注射しようね。目立たないように足の付け根に打ってあげるよ」
 犬崎が狂ったような目で注射器を片手に迫ってくる。綾香は悲しさと悔しさで涙が出た。

 かぁ――
 それは本当に耳から聞こえたのか分からなかったが、頭の中に確かに響いた。
 鴉の啼き声と同時に、事務所のドアが鍵ごと蹴破られた。
 蹴破ったのはセバスチャンで、その後ろには車椅子のコーマがいた。
「お前は誰だ!」
 犬崎が玩具を取り上げられた幼児のように、憤慨している。その後ろで自分を抑え込んでいた森原が、恐怖を帯びた目でコーマを見ていた。
「お前に教える必要はない。お前たちは私の婚約者を侮辱した。もうまともにこの世界で生きていくことはできないと思え」
 コーマが車椅子から立ち上がって、三本目の足を露わにした。目が妖しい光を帯びて、瞳が十字に成っている。

「うぐっ」
 犬崎と森原がいきなり頭を押さえて苦しみ始めた。綾香の目には犬崎と森原の頭上で、鎌を構えた死神のような男が映った。その男たちはまさに鎌を振り下ろさんとしている。
「やめて!」
 綾香の制止と同時に鎌が振り下ろされた。犬崎と森原の頭が切り裂かれ、脳漿が飛び散る。凄惨な光景に綾香は目を閉じて顔を背ける。膝ががくがくと震えた。
 暗い闇の世界から抜け出すように、恐る恐る目を開くと、犬崎と森原が痴呆のように口を開いて、立ちすくんでいた。

「さあ、帰ろう」
 コーマが綾香に声をかける。
「何をしたの?」
「特に何かしたわけじゃない。ただ、彼らの心の中にある他人に対する悪意を、自分自身に向けさせただけだ」
「でも様子がおかしいわ」
「それだけ悪意が大きかったのだろう。自業自得だ」
「どうなるの?」
「今は痴呆状態だが、そのうち元に戻るだろう。だが他人に対して悪意を持つと、再び自分自身に返って来るから、今後二度と悪いことはできなくなる。それは彼らにとって生きる方法を失うに等しいだろう」
 正気に戻ると聞いて、綾香はホッとした。生きる術を失うことは自業自得だ。そこまで心配してあげる必要はない。

「ありがとう」
「さあ、帰ろう。早くジーパンを履きたまえ」
 綾香はようやく下半身がパンティ一枚であることに気づいた。急に恥ずかしくなって顔が熱くなった。急いで脱がされたジーパンを身に着けた。
 外に出ると黒い高級バンが停まっていた。後部座席の一部が取り外され、車椅子ごと乗り込めるように改造されている。
 後部座席に乗り込んで、一気に緊張が解けた。身体を緩やかで温かい空気が包んでいるように感じた。セバスチャンがコーマを車椅子ごと車内に入れ込む。ドアを閉めて、運転席に回ってエンジンを掛ける。屋敷に向けて出発だ。

 コーマは酷く疲れた顔で、綾香の方を見ている。
「どうしてここにいるって分かったの?」
「ツノが教えてくれる。ツノはいつも私たちのことを気遣っている。そして危険の匂いに敏感だ。誰かが危機に陥ったときは、すぐに知らせてくれる」
「私もツノの知らせを聞くことができるの?」
「もちろんだ。心を静かにして、ツノをイメージしてごらん」
 綾香は深呼吸してから、目を閉じてツノの姿を思い浮かべた。だが何も伝わってこない。いったん目を開けてもう一度トライしてみたが、やはり何も伝わってこない。
「何かダメみたい」
「うーん、今はツノは何も知らせて来てないな。きっと綾香が救い出されたんで、安心して休んでるんだと思う。また別のときにやってごらん。何回かつながれば、そのうち何もイメージしなくても感じ取れるようになるから」

 残念だったがしかたがない。ツノとつながるのは、またの機会となった。
「ねぇ、もう少しだけ待ってくれる?」
「もちろんだ。その間に出て行きたくなったら出て行ってもいい」
「私は明良と約束したの絶対に出て行かないと。ただコーマからは愛されたいと思う。愛のない結婚はしたくない」
 コーマは意外そうな顔をして綾香を見た。
「私は綾香が止めなければ、あの二人をもっとひどい目に合わせたかもしれない。君が辱めを受けたと思ったとき、私の心に鬼が宿ったんだ」
「コーマ、何が言いたいの?」
「もう、君を失うかもしれない怖さは乗り越えると、たった今決意した。私は君のことを考えると、心の中に嵐が吹き荒れるような苦しさを覚える。これが人を愛するということだとはっきりと自覚した」

 そう言ったコーマの顔は、綾香と同じぐらい晴れ晴れとしていた。
 綾香は愛を告げられる喜びで、心臓が激しく脈打つ。
「コーマ、私もあなたを愛している」
「君を選んでよかった」
「私も、あなたに選ばれてよかった。たとえ短い時間であっても、これまで生きてきた時間よりも、充実した毎日が送れる気がする」
 もうすっかり日が落ちて窓の外は暗かった。綾香はゆっくりとコーマに顔を近づけて、何か言いかけたコーマの乾いた唇を、彼女の甘く湿った唇でしっとりと濡らした。
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