第66話 鬼の声

文字数 3,283文字

「ねぇ、何で黙ってるの?」
 芽衣が甘えて凌牙の左腕にしだれかかって来る。
 凌牙は新潟に逃げ帰って来てから、モヤモヤした気持ちを振り切るために、伊藤に連絡して芽衣の店に連れて行ってもらった。
 いつもなら、芽衣の顔を見てその甘い匂いをかぐだけで、凌牙はベッドの中の芽衣の肢体を思って身体が熱く成るのに、今日はなぜか冷めきっていた。

「ホントにどうしたんだよ。帰ってきたらいきなり芽衣の店に連れて行ってくれと頼んできたと思えば、来てみてもずっとだんまりなんて、何か長岡であったのか?」
 伊藤が心配して、下を向く凌牙の顔を覗き込んだ。
 さすがに伊藤に申し訳ないと思い、顔を上げて言い訳を始めた。
「久しぶりに道場の関係者にあって、疲れてしまいました。すいません、せっかく連れて来てもらったのに」
 頭を下げる凌牙を伊藤はじっと見つめる。
「何か言われたのか?」
「いえ、何も言われてません。ただ、弟弟子と組手して敗けました」
「練習不足だと後悔してるのか?」
「いいえ、それはまったく思いませんでした」
「そうだろう。今の暮らしの方がよっぽどいいよな。芽衣だっているし」
「そうよ。敗けた悔しさは今夜私が慰めてあ・げ・る」
 芽衣は凌牙の頬を軽く突いた。
 昨日までの凌牙ならそれだけでベッドの上の奔放な芽衣を思って、男としていきり立つところだ。だが今日は鬱陶しい気さえした。


 ベッドの上で仰向けに成り、じっと天井を見つめた。
 隣にはちょっと前まで激しくまじ合った裸の芽衣が寝ていた。
 細い(おとがい)、形の良い耳、優しさを表す大きな涙袋、普段ならこの寝顔を見てるだけで、またむらむらして寝込みを襲うところだが、今は色褪せたように感じるだけで、何の衝動も起きない。

 頭の中を駆け巡るのは、今日見た八雲の姿だった。凛として気品ある美しさの中で、唇だけが妖しさを漂わせていた。ワンピースの胸の周りを突きあげていた、膨らみが作った布のしわが凌牙の目に焼き付いている。少し動くだけで柔らかい布が、腰から脚にかけての曲線をくっきりと映し出し、凌牙の心を揺さぶった。

 何よりも耐えられないのは、あの唇を、あの肢体に自由に触れて、心まで奪った男がいることだ。その男は自分が失ったものを全て持っている。
 羨ましかった。
 悔しかった。
 憎かった。

 八雲を奪い去りたかった。
 あの唇を存分に吸って、美しい曲線を描く躰をじっくりと鑑賞し、自分の精を注ぎ込みたかった。
 心が折れて自分に従うまで犯しつくしたかった。

 だが現実に自分の隣にいるのは、美しいが安っぽい女だった。八雲の気品のある美しさに比べればその価値は石くれのようなものだ。
 自分まで安っぽい男のように思えて情けなくなった。自分のプライドはどこに行ってしまったのかと悲しくなった。

「ねぇ、今日はもうしないの?」
 芽衣が目を覚まして、耳元に囁いてくる。
 凌牙が黙ったまま、天井を睨んでいると、芽衣の手が股間に伸びる。
「よせよ」
 凌牙はその手を汚らわしいとでも言いたげに払いのけた。
「機嫌悪いわね。さっきはあんなに激しかったのに」
 八雲の顔を思い浮かべながら芽衣を抱いた。激しい行為の果てに精を放つと、途端に虚しさを覚えた。

「元いた世界を見て戻りたくなったのね」
 そうかもしれない。道場でもう一度鍛えなおし、雷を破って八雲を奪いとりたかった。
「迷っているなら鬼の声を聞く女のところに行こうよ」
「馬鹿々々しい」
 行ってどうなる。本当に真実を告げる女であれば、余計虚しさが増すだけだ。
「人によっては不思議な力を手に入れたりできるらしいよ」
「不思議な力?」
「何でも破壊できて、誰をも打ち倒すことができる力だって」

 聞いただけでも胡散臭い話だ。そんな力が女と会ったぐらいで手に入るなら、あの厳しい修業は無駄な努力ということになる。そこで積み上げた力だけが、今の凌牙の最期の拠り所だ。

「俺は行かないよ」
「どうして力が手に入るかもしれないんだよ」
「そんなくだらない話を信じているのか?」
「信じてるよ。伊藤さんもあの力は本物だって言ってたよ」
「伊藤さんが?」
 あの享楽的に遊ぶだけの男が、そんな女のことを信じるなんて意外だった。
 俄かに興味が湧いた。
「行ってみようかな」


 翌日の午後、凌牙は芽衣と一緒に伊藤の案内で、鬼の声を聞く女に会いに出かけた。
 伊藤が導いたのは川に挟まれた半分スラム化した地区だった。
 人の住んでないようなビルや家が立ち並ぶ。
「ここだよ」
 伊藤が指し示した家は、この辺りでもとりわけ痛みの激しい古い家だった。
 手入れしてないせいか、家の外観全体が薄汚れて汚かった。
 この様子を見ただけでも、噂が嘘だと示している。鬼の声を聞ける女が、こんな酷い暮らしをしているわけがない。

 家の中はもっと酷かった。汚いだけでなく、肉が腐ったような異臭がした。
「連れて来たぞ」
 伊藤が声をかけると、部屋の隅に蹲っていた老婆が顔を上げた。
 老婆は凌牙をじろっと睨んだ。
「余康子さんだ。鬼の声を聞くという」
 名など、どうでもいいと思った。どうせ二度と会うことはない。
「こっちが先日話した桧垣凌牙さんだ。こう見えて柔術の達人だ」
「立ってないで、そこに座りな」
 康子に促されて、凌牙はしぶしぶ腰を下ろした。湿ってそうで気持ちの悪い畳だった。座ると畳からすえたような匂いが立ち上って来る。

「鬼の声が聞きたいのか?」
 康子が薄ら笑いを浮かべて聞いてきた。
「聞くことができるのなら」
 どうせインチキだと凌牙は思った。この家の雰囲気で気持ちを動揺させ、聞こえて無い声が聞こえたように暗示させるか、聞こえなかったら信じる心が足りなかったなどと、言い訳をする。
「いいだろう」
 意外なほどあっさりと康子は承諾した。
 暗示をかけるなら、脅したり怖がらせたりして、もう少し心を揺さぶると思っていた。
 拍子抜けした思いで康子の顔を見た。

 康子の顔がぐにゃりと曲がったように見えた。
 おかしいと思って、目を凝らすと、康子の顔だけじゃなく周囲の景色も、液体状に成って流れ始めた。伊藤の顔も芽衣の顔もその流れの中に溶け込んでいる。
 流れはやがて大きな輪に成って凌牙も周りをグルグル回り始める。
「何だ!」
 思わず凌牙は大声を発したが、何の応えもなかった。

「犯せ、食らえ」
 突然太くて重々しい声が聞こえた。
「犯せ、食らえ、犯せ、食らえ、火をかけ全てを焼き尽くせ」
 なおもリフレインして声が聞こえる。
 その声を聞くと、欲望が突き上げてくる。八雲を犯し、その身体を切り刻んで食ってる自分がいた。
「犯せ、食らえ、犯せ、食らえ、火をかけ全てを焼き尽くせ」
 松明を手にしていた。その日を流れに差し出すと、火の輪ができた。輪は燃え上がり凌牙の周りが火に包まれる。
「熱い!」
 凌牙の身体が火に包まれる。焼け解けて全てが無に成る。

 真っ暗闇の中に立っていた。
「我は酒呑童子、鬼の王だ。お前の名は?」
 先ほどの太くて重々しい声が暗闇に響いた。
「桧垣凌牙」
「凌牙、何もかも破壊したいか?」
「何もかも壊してしまいたい」
「破壊の王と成ることを望むか?」
「俺は破壊の王と成る」
「良かろう」

 毛むくじゃらな黒く光る腕が伸びてきて、凌牙の胸を抉る。
「何を!」
 思わず叫び声を上げたが、胸には何の傷もなかった。
 目の前に黒く光る腕があり、その手には血まみれの心臓が握られていた。
「今、人としての心を潰す」
 酒呑童子の声が暗闇の中で響き渡り、心臓が握りつぶされた。
 一瞬の痛みの後で、今まで経験したことがない強い力が肉体に漲るのを感じた。
 目を閉じると、この世の全てを無茶苦茶にしたい強い破壊衝動が身体を突き抜けた。

「この感覚は何だ! 俺は強くなったのか」
 目を閉じたまま、身体からあふれ出ようとする力を感じて悦に入った。
「お前はもう今までのお前ではない。我の魂と一体になった破壊の王だ」
 酒呑童子の言葉が頭の中に響き渡る。

 目を開けると、康子がいた。
「鬼の声を聞いたようじゃな」
「ああ、俺は力を手に入れた」
「その力を持って、まずは何を為す」
「長岡に行く」
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