第57話 聖なる生贄

文字数 2,789文字

 井の頭公園駅を出たときは既に夜九時を過ぎていた。
 駅のすぐ近くに神田川の起点が有り、水門橋とひょうたん橋が見える。
 明良が背中に背負った霊木の封印を確認している。

「霊木の封印は解けていない。このまま進んでOKだ」
「どこに行けばいいかな」
「とりあえず池の周りを歩いてみて。霊木を持っていれば、向こうから接触してくると思う。僕はここで待つから」

 雨はますます強くなっている。公園内に人影はいない。前に進む道が途轍もなく暗く感じて、樹希の心に少しだけ不安が芽生える。
――こんな不気味な状況で、杏里紗は今一人なんだ。
 樹希は闘志を燃やして、芽生えかけた不安を焼き尽くした。
「じゃあ、行って来る」

 違う神様だが、とりあえず弁財天の社迄行ってみることにした。
 雨量が凄いせいか、池の水は増水しているように見える。
 後ろを振り向いたが、雨が強くて明良の姿は見えない。
 強い力で遮断されているのか、明良の思念も感じなくなった。

 狛江橋が見える辺りに来たとき雨脚が強まり、まるでカーテンのように周囲を遮断して、池さえも見えなくなった。もう傘はほとんど役に立っていない。全身雨に濡れて、服が張り付いて歩きづらくなってきた。
 なおも進むが、一向に狛江橋が見えない。雨脚が強まる前は、後五~六メートルだと思ったのだが。
 樹希はいったん立ち止まって、周囲を確認した。
 雨以外何も見えない。自分がどこにいるのかさっぱり分からなかった。

「霊木の運び手よ、前に進め」
 今日沙也の口から出た、ずっしりと重い声が聞こえた。
 足元を見ても来た道と同じかどうかも分からない。どこに行くのか分からないが進むしかないと、樹希は覚悟を決めた。

 どのくらい歩いたろうか。もうとっくに弁財天の社は通り過ぎて、池の西端に着いていてもおかしくなった。
 樹希は自分が元いた世界と、違うところを歩いていると思った。これがコーマの言うオロチの結界内かもしれない。
 このまま歩き続けても、無駄なような気がした。

「この土地を統べる土地神よ、私はこのまま歩き続ければ、あなたの許にたどり着くのか?」
 樹希は腹の底から声を振り絞って呼びかけてみた。
「前に進め」
 再び、ずっしりと重い声がした。
 樹希は気力を振り絞って、再び前に歩き出した。

 どのくらい歩いたか分からなくなってきた。
 杏里紗を救い出しても、戻れるのか分からなくない。
 不安を打ち消すように、立ち止まって息吹を行う。丹田に力が入って、張りつめた自律神経がリラックスする。
――杏里紗、待ってて。
 力強い一歩が返って来た。

 しばらく歩くと、前方の雨のカーテンが薄っすらと光ってるように見えた。
 光に向かって近づいて行くと、二本の大きな木が見えた。その木の葉は淡い緑色の光を放ち、それが雨に滲んで光が広がって見えるのだ。
 二つの木の間には寝台が置かれていた。
 寝台の上には、人間が横たわっている。
 雨に打たれているのにピクリとも動かない。
 もしかして、死んでいるのか。

 樹希は寝台に駆け寄って、寝ている人の顔を見て驚いた。
「杏里紗!」
 大声で呼びかけて、杏里紗を起こそうと寝台に駆け寄ったが、壁のようなものに阻まれて近寄ることができない。

 樹希は見えない壁に向かって、思念を込めて正拳を打ったが、何の手ごたえもなかった。
 杏里紗は雨に打たれ続けている。
 樹希は背中から霊木を下ろし、寝台の前に置いた。

「離れろ!」
 樹希の声に呼応して、しめ縄がほどけ白布が開いた。霊木は金色(こんじき)の光を発し、二本の巨木と寝台を照らした。すると、樹希と寝台の周囲で雨が止んだ。

「我に霊木を届けに来た者よ。何の話があってここに来た」
 ずっしりと重い声が響き渡った。
「杏里紗を返してください」
「ダメだ。この女は聖なる生贄として選んだ者、運命は動き出したのだ」
――生贄?

「生贄とは何? 杏里紗はどうなるの?」
「生贄に選ばれた者は、大地を浄化するためにその者の生きる力を我に捧げる。今大地に降り注いでいる雨は、この者から吸い取った力を我が降らしたものだ。大地の浄化と引き換えにこの者の命は消える」
「勝手なことを言わないでよ。どうして杏里紗が生贄になるの?」
「その女は癒しの力を持っている。人間の悪意で汚れた心が疲弊させた大地への責任をとっているのだ」

 樹希は迷った。オロチはどうあっても杏里紗を返しそうもない。
 だが今ここで引き下がってしまったら、二度度とここへはたどり着けない予感がした。
 力づくで奪うしかないのか。

「霊木の運び手よ。おかしなことは考えない方がいい。霊木に免じて、お前はこのまま帰してやる。帰ってこの女を待つ者に、この女はもう帰って来ぬと伝えるがいい」
「ウーワー」
 樹希は礼美に渡されたペンダントを左手で握り、右の正拳の構えをとって、渾身の力で霊木を突いた。
 打ちぬく瞬間に、妖狐の力が左手から右手に流れ込んだ。
 霊木は四つの塊に分かれ、二本の木の間に四角形の頂点を作った。
「ダー」
 樹希はその四角形の中に飛び込んだ。
 それまで樹希を阻んでいた見えない壁はそこにはなかった。
「杏里紗、杏里紗、起きて」
 樹希は杏里紗の肩を掴んで激しく揺すったが、杏里紗は目覚めない。

「我に捧げる霊木を割ったな」
 ずっしりと重い声は、怒りを孕んでいた。
 四つに割れた霊木が暗闇に吸い込まれて光を失った。
 再び激しい雨が降って来た。
 樹希は傘を広げて、杏里紗が濡れないように差し掛けた。

「もうお前たちはそこから出ることはできない」
 オロチの怒りを無視して、樹希は叫んだ。
「なぜ、杏里紗は目覚めない」
 杏里紗を救おうとする樹希の激しい意志に、オロチの言葉が止まった。

 闇の中で雨音だけしか聞こえなくなった。
 再び雨が止んで、目の前に木製の盃が現れた。
「その女と話したくば、その聖杯の水を飲み干せ」
 樹希は聖杯に手を伸ばしたとき、八雲の言葉が脳裏に浮かんだ。
――土地神が勧める水は絶対に飲んではならぬ。
 だがこのまま、ここにいても杏里紗は目覚めそうにない。
 樹希はどうすればいいか分からずに目を閉じた。


 明良は突然、樹希の思念が消えたことに気づいた。
 オロチの結界内に侵入したのだ。
 雨は相変わらず降り続けている。

 樹希が消えて一時間経った。
 待つだけのもどかしさに、叫び出したくなるのをぐっと堪えた。
 暗闇から樹希の姿が現れた。
「樹希!」
 思わず大声で叫んで、駆け寄った。
 樹希の隣には杏里紗がいた。

「二人とも、無事なのか?」
「うん、大丈夫」
「すぐに、屋敷に帰ろう」
 明良はタクシーを止めて、二人を後部座席に座らせて、自分は助手席に座った。
「久我山迄」

 タクシーはすぐに発進した。
 明良は後部座席を振り向き、二人の顔色を窺った。
 杏里紗は衰弱して、座席に頭を持たれて目を瞑っている。
 樹希は笑みを浮かべて、明良をじっと見つめた。
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