第65話 堕落した天才

文字数 3,301文字

 道場はシーンと静まり返っていた。全ての門弟は稽古を中断し、上杉流柔術が誇る二人の天才の約束組手を見守った。それは全ての門弟の興味の対象であり、この場に立ち会えることの幸運を誰もが噛みしめた。

 凌牙は気持ちの高ぶりを押さえるのに苦労した。
 今、目の前に対峙する相手は、自分が柔術の基本から手ほどきし、その天分に誰もが将来を嘱望した相手だ。同じく天才と呼ばれた自分が、リミッターを外して戦える相手でもあった。
 自分が新潟に立つ前に最後に対戦したときは、やや自分に分があった。それからどれほど成長したか楽しみでもあった。

 雷の準備は整ったようだ。闘志が静かに上がっていくのを感じる。
 凌牙は間接技と締め技、雷は打撃が得意のはず。互いにどちらの領分に引きずり込むかで勝敗は大きく変わる。

 腕をクロスし急所をカバーして、凌牙は低く沈み込んでタックルに飛んだ。
 右わき腹に凄まじい打撃を感じた。
 タックルの勢いが止まり、膝をついたところに、頭部を襲う凄まじいエネルギーを感じた。間一髪のけぞりながらその打撃を避ける。
 次の打撃が顔面に迫った。更にのけぞったが、背中の後ろには畳があった。
――やられた。
 観念したときに、顔面に当たる直前で打撃は止まった。

「まいった」
 僅か二秒のできごとだった。
 周囲の門弟がざわざわと騒ぎ出した。
 他の者には何が起こったのか分からなかっただろう。
 タックルにいった凌牙が、勝手に動きを止め、のけぞり、負けを認めたようにしか見えなかったに違いない。
 凌牙自身にも雷の打撃の正体が、拳なのか蹴りなのか見分けがつかなかった。
 ただ研ぎ澄まされた感覚が、打撃の存在を感知したに過ぎない。

「恐ろしく腕を上げたな」
 偽りのない本心だった。
「いえ、二撃目と三撃目を感知されたのには、正直驚きました。おかげで、三撃目で止めることができました」
 誇張ではなく、それは雷の本心からの言葉だろう。あの打撃を感知できるのは、当主と師範代を除けば、自分以外にいないだろう。それは同時に、自分の腕が落ちたわけではなく、雷の実力が自分のはるか上に達したことを示していた。
「もはや完全に俺を超えてしまったな」
 本心だった。
「紙一重の差だと思います」
 それも事実だ。だがその一重を越えられず、至高の高みに達することができないのも、事実だ。
「俺には永遠に超えられない境界だな」
 雷は何も言わなかった。
 自ら超えることを諦めた者に、励ましの言葉を掛けることは残酷なことだと知っているからだ。
「また稽古しましょう」
 雷はそう言って道場を去った。


 凌牙はさっぱりした気持ちだった。この道でトップに立つことは無理だと宣告されたが、そんなことはどうということはない。
 雷は一線を越えた以上、どこまでも続く高みに向かって走り続けねばならない。他に楽しみを見つけるなどかなわぬことだ。一生強さを求め続ける人生を送る道に立ったのだ。
 それに比べて自分はどうだ。強さを求める道から外れたおかげで伊藤とも知り合い、楽しい毎日を送ることができている。そして何よりも自分には芽衣がいる。
 芽衣ほど美しい女は、今まで会ったことがない。テレビで見る女優と比べても、その美しさは遜色ない。その上、芽衣は自分に快楽を与えてくれる。芽衣とのベッドはこの世の喜悦を全て集めたかのようだった。
 自分が得たものを雷は一生手に入れることはない。そう思えば負けた悔しさなど微塵も感じなかった。


 翌朝、凌牙は寝坊してしまった。退屈な実家で独り寝の寂しさを紛らわすために、深夜まで深酒をしたためだった。
 急いで身支度を整えて家を出たが、セレモニーは半分終了し、メインの目的だった当主剱山のスピーチも既に終了していた。プログラムは最後の懇親会に成っていた。
 懇親会に出ると、柔術の関係者と話さなければならないのが億劫だったが、出席したい気持ちもあった。
 祖先の霊を迎えるにあたって、今生きてる人間が楽しんでいる様子を見せるのが一番という、剱山の考えにより、懇親会の料理や酒はかなり贅沢な取り揃えとなっている。
 これを食わずに帰るのは残念だった。
 結局悩んだ末に出席して、手早く料理を食って帰ることにした。

 懇親会場には多くの人が集まっていた。中には現職の市長や議員の顔もあった。これだけ見ても上杉家の力の大きさが窺い知れる。
 凌牙は目立たぬように会場に入って、上質のローストビーフやキャビアなど、普段口にできない素材を中心に皿に取り分け、隅の散らし卓に運んで人目を避けるように食べていた。料理はどれも美味く、この選択は正解だったとほくそ笑んだとき、恐れていた事態が起きた。

 柔術の先輩で今は大手企業に勤めている男が、凌牙の顔を見て寄って来たのだ。
「上杉流柔術の天才の片割れが、何でこんな隅で食ってるんだ。向こうにご当主様や師範代がいるぞ。挨拶に行かんかい」
 後で行くと言っても、この男は執拗だった。息が酒臭いので、酔っぱらっていい気持ちに成っているのかもしれない。
 結局凌牙は男の執拗さに負けて、今は一番合いたくない人たちに挨拶に行かなければならなくなった。

 挨拶に行くと、剱山と師範代の弥太郎は暖かく迎えてくれた。
「大学はどうだ。興味を引くものは見つかったかい」
 恩師である弥太郎が、優しく凌牙に尋ねた。
「まだ、これと言ったものは」
 授業もサボり気味であるため、学問の話をされても具合が悪い。
「一人暮らしには慣れたのか?」
 約一年ぶりに聞く剱山の声には、あがらえない重さがあった。
「はい。バイトが忙しいので、あまり寂しいとか感じる暇が有りません」
「ほほう、どんなバイトをしているのかな?」
「コンビニで働いてます」
「そうか、がんばりなさい」
 きっと、剱山と弥太郎は、新潟に行ってから自分が修行を怠っていることなど、見抜いているはずだ。そのことを何も言われないのは、ありがたくもあり、情けなくもあった。
 柔術に関して言えば、雷のような後継者がいる以上、自分に期待することはもうないのかもしれない。

「教師に成る夢はまだあるのかな?」
 剱山に聞かれて、旅立つときに言った言葉を思い出した。
――歴史を学んで、将来社会科の教師になり、柔術の精神を子供たちに伝えたい。
「はい、そのつもりです」
「教職を取ったら卒業前に一度相談に来なさい」
「ありがとうございます」
 剱山の力なら、私立高校の教員の口を、いくらでも世話してくれるだろう。
 だが、今の自分にその資格があるのかは疑問だ。

「おお、八雲に雷、お前たちの兄弟子が来てるぞ。久しぶりではないのか」
――雷、この場で会いたくなかった。
 それでも挨拶はせざるを得ないと、顔を上げて驚いた。
 そこには見違えるばかりに美しくなった八雲の姿があった。
 それはまさしく上杉の至宝、その躰はまだ高校生というのに色香に溢れ、それでいて淫蕩にならない精神の気高さが表情に表れていた。
 芽衣など比べ物にならない。八雲の美しさに凌牙の全身は総毛立つような興奮に震え、顔はだらしなく弛緩した。

「お、お久しぶりです」
「本当に久しぶりですね。雷から聞きました。凌牙さんもお元気だと」
「い、いえ、とんでもないです。昨日は雷に軽くひねられてしまいました」
「雷は東京に行って本当に強くなったから」
 八雲は雷の成長を嬉しそうに語った。
「とんでもないです。昨日も紙一重というところです。明日は分からぬレベルです」
 本気でそう言ってる雷が憎らしかった。

「八雲さんは、とても綺麗になった」
 それだけ言うだけで、全身から汗が噴き出た。
「あら、いやだわ、口の方は上手になったのね」
 八雲が微笑みながら雷を見る。雷は困った顔をした。
――もしかして二人は……
 二人の間の空気が、ここにいるときと変わったことに、凌牙は気づいた。
 もしかして、八雲がここまで綺麗に成ったのは、恋をしているからか、そしてその相手は……
 何かここにいることがとてつもなく辛く成って来た。
「それでは、新潟でバイトがあるので、そろそろ失礼します」
 逃げるように会場を出た。
 八雲と雷の姿を見ているのが辛かった。
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