第70話 執事の拳

文字数 3,677文字


「雷、落ち着くのだ」
 剱山は雷に呼びかけたが、雷は反応しない。雷は必死で凌牙に話しかけている。
 その姿を見て、剱山はこれがただの結界ではないことを知った。
 自分のいる空間は雷のいる空間よりも一秒、いやもっと短いかもしれないが遅れている。つまり違う時間軸の中にいるのだ。だから雷の声は聞こえても、自分の声は届かないのだ。
 ということは、雷のいる空間に行こうとしても、永遠にたどり着けない。
 これを打開するには、時間軸をずらした人間を見つけ出し、倒すしかない。

「師範、どうしますか? まずあの二人を倒して結界が解けるか確かめますか?」
 さすがに京士は上杉流柔術の高弟である。すでにこの状況がどういう事態なのか理解していた。
「そうだな。時間軸をずらしたのは、あの二人の内どちらかだろう。まず、凌牙と我々の時間をずらし、次に雷が飛び出したタイミングで、我々と雷の間の時間軸をずらした」
「では、倒しますか」
「待て京士、こんなことができるということは、あの二人にも鬼の力が宿っていると考えた方が自然だ。まず相手を知らなければ後れをとるぞ」

 (ぬえ)を守護獣とする剱山を相手に、悟られずに自分の結界内に引きずり込むなど、人間の為せる業ではない。
 剱山は京士を制して二人を見た。
「お主の名前は」
「俺の名は葛西龍児(かさいりゅうじ)、そしてこの子は息子の暁斗(あきと)だ」
 葛西龍児と名乗った男からは、人間の思念が伝わって来る。しかし、その思念は途轍もない悲しみと怒りに満ちていた。
 一方暁斗からは人間らしい思念は伝わってこない。彼のそれは、ジャングルに住む獣が発する、残忍で攻撃的な思念によく似ていた。

「葛西隆二、お主息子に何をした?」
 龍児の目に憎悪が宿った。その強さは凡そ人間が持てるものではなかった。
「俺が何かした? 笑わせるな」
 龍児は今にも攻撃しそうな暁斗を、攻撃を待つように手で彼の動きを制した。「暁斗の母親は、世間の根も葉もない噂で狂い死にした。暁斗はそんな母親に虐待され、母の死と共に自分の世界に籠った。再びこの世界に戻って来たとき、暁斗は鬼に変わっていた。俺はそんな暁斗の手伝いをしてるだけだ」
 暁斗は待ちきれなかったのか。龍児の説明が終わらぬうちに剱山につかみかかった。
 剱山のイカヅチが暁斗に放たれた。
 だが、イカヅチは暁斗の足を一蹴止めたに過ぎなかった。
 再び暁斗が動き出し、その手が剱山に届く寸前で、京士の蹴りが暁斗に決まった。

「グアー!」
 叫んだのは京士だった。
 足首が床に転がる。
 京士の右足はくるぶしから先が失われ、血を噴き出していた。
 暁斗が満足そうに痛みを堪える京士を見下ろしていた。

「いかん」
 剱山はイカヅチで京士の傷口を焼いて血止めした。
 あまりの荒療治に京士は痛みで気絶してしまった。
――早めに決着をつけて手当しないと、京士の命がもたんな。
 剱山は恐るべき敵を前に初めて恐れを覚えた。

 暁斗は構えなおし、剱山の隙を伺う。
 暁斗の両手は黒くなって光を発している。
 太い足の骨を断ち切ったことを考えると、あの手は刃物とは違う原理で物を切るのだろう。
――雷の技に似たものか。

 再び暁斗が襲って来る。
 剱山は暁斗の初擊と二撃目をかわし、三度目は二の腕で受けた。
 はや腕は真っ二つと思いしや、剱山の腕はしっかりと暁斗の手刀を受け止めていた。
 その腕は青白い光に包まれていた。

 暁斗は必殺のメスを止められて、後方に飛びのいた。
「グルル……」
 不気味な声で唸りながら、剱山の周りをゆっくりと回る。

 剱山は自らの身体を覆うように、思念で球体を作り目を閉じた。
 暁斗が剱山への攻撃で球体に触れた瞬間、腹が切り裂かれた。
 剱山の右手には、イカヅチが変形した光の刀が握られていた。
「上杉秘刀、雷光姫鶴。我が間合いに入った者は全てのこの刀の餌食となる」

 龍児が慌てて暁斗の傍に寄る。
「上杉剱山、今日は退くが、改めてその命を奪いに来るぞ」
 龍児と暁斗の姿が朧の中に消えていった。
 同時に空間を三分割していた次元結界が消える。

「剱山様、京士さんを連れて、早く宇佐美先生の下に」
 宇佐美医師は上杉家の主治医だ。早く連れて行かないと、京士の命が消える。
「雷、お主も一緒に退くのだ」
 剱山はまだ敵が三人いる中に雷を置いていくことを良しとしなかった。
「ここで八雲様を置いて行っては、もう二度と顔を合わせることができなくなります。それは私にとって、死とおなじことです」
 雷は悲壮な顔で言った。

「わしはお主を置いては行けぬ」
「剱山様はいても、もう戦えないでしょう」
 雷は剱山が今日一日の探索と今繰り出した秘技によって、思念の大部分を失ったことに気づいていた。
 剱山は雷が言っても聞かないことを悟った。
「雷、必ず戻る命を無駄にするな」
 剱山は京士を抱え、多恵の待つ車まで行って、戻って来るつもりだった。
「全てお任せください」
 雷の言葉が終わらぬうちに、剱山は出口に向かって走り始めた。

 凌牙は一人残る雷を見ながら薄笑いを浮かべた。
「一人でいいのか?」
「十分だ」
 雷はセバスチャンの言葉を思い出していた。
――自分たち執事には当主一族のように守護獣の力の加護はないから、智成や明良のように、守護獣の力を駆使した技が使えない代わりに、執事には執事だけが使える特別な技があると。
 凌牙たちは守護獣の代わりに鬼の力を得た。あの子供を倒すのにさえ、剱山は上杉家最大秘技を駆使した。凌牙を倒すにはセバスチャンや父弥太郎が使う、執事だけが使える奥義を駆使するしかない。

 凌牙は隣の男に目配せした。男は頷き、男女の姿は消えた。
「雷、では決着をつけよう。お前を倒した後で、私は八雲を妻とする」
 凌牙は八雲の側から離れ、ゆっくりと雷に向かって近づいて行った。

 上杉流柔術の当身は、空手のような正拳ではなく、どちらかというとボクシングスタイルに近い。フットワークを利かして体重移動を行い、拳の威力を高めているが、凌牙の当身は更に別の力が加わっていた。
 雷は繰り出された拳の先から、強い思念を感じて、身体を捻ってそれを避けた。
「よく避けたな。やはり、上杉流柔術の極意には思念を感じる法が記されているようだな」
 凌牙は自分には授けられなかった極意を、雷はしっかりと継承していることに怒りを感じていた。
 だが、それは誤解であった。雷は上杉家執事を継ぐ者として、思念に対する感覚を幼いころから鍛えられていただけだった。極意は父弥太郎以外、未だ皆伝者はいないはずだ。

「誤解だ。私は上杉流柔術の極意など授かってない。これは幼いときから鍛えた感覚だ」
「俺にとってはおなじこと」
 凌牙の連続攻撃が始まった。
 拳、蹴り、凌牙の攻撃のリーチが思念によって、全て倍化している。
 雷は持ち前のスピードでその全ての攻撃をかわしながら、両拳に思念のグローブを纏った。雷の思念の使い方はリーチではなく、威力を倍増させる。
 凌牙の蹴りを掻い潜って、雷は肝臓に右拳をヒットさせた。分厚いコンクリートさえも粉砕する雷の必殺ブローだ。ところが凌牙は崩れ落ちない。
 凌牙の左拳が雷のテンプルを襲う。
 雷はその拳に反応して額で受けた。雷の身体は飛ばされ、後方の壁に打ち付けられる。

 とっさに両拳の思念を額に集めたので、頭部に傷を負うことは無かったが、背中にはダメージを追った。
「鬼の思念の強さを身をもって知ったか。俺の身体は鬼と同じ鋼鉄の筋肉に覆われている。お前の拳の力では俺にダメージを負わせることなどできぬ」
 凌牙は勝利を確信して高笑いした。

「凌牙、お前は触れてはならないものに手を出した。俺は執事として力の制約を解く」
 雷の両の手はどす黒い赤に染まった。直江家秘伝の毒手である。
 凌牙は初めて見る技を凝視する。
「残留思念を変化させた毒か。そんなもの俺の筋肉を貫けねば、意味がない」
「俺の毒手は皮膚をも焦がす。だが加える力は毒だけではない」
 凌牙は八雲を思って目を閉じた。
 どす黒い両の手が赤黒い光を発し始めた。
「受けよ、毒蛍」
 雷が凌牙に向けてダッシュする。
 凌牙は左右の拳で迎撃しようとするが、雷のスピードに追い付けない。
 雷の右の貫手が凌牙のぶ厚い胸筋をものともせず左胸を貫いた。
 凌牙の心臓が毒に侵され、黒く染まりながら伸縮する。
 血液が逆流し、凌牙は口と鼻から血を噴き出した。
「ば、か、な……」
 凌牙は即死した。

 雷は凌牙の身体から得体のしれない強大な思念が、抜け出ていく気配を感じた。
 お堂を取り巻いていた結界も消えた。
 思わず武装を解除し、雷は床に片膝をつく。
 九家の執事たちの最終奥儀『蛍』は、主家の中に一人だけ対象を定め、その人の危機にのみ使うことが許される技だった。
 己の生命力さえ思念に変えて、肉体を強化する大技で、一度使えば当分の間戦闘力が著しく落ちる捨て身技でもある。

 雷は力の入らない身体に鞭うって、八雲の側に近寄り、自由を奪っている戒めを解き、部屋の隅に投げ捨てられた服を着させる。
 意識のない八雲の傍で、倒れるように崩れ落ちて眠った。
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