第42話 傾国の妖姫

文字数 4,199文字

 信の運転は危なっかしい。
 今川屋敷は浜松市内から山道が続くので、駅でレンタカーを借り、免許を持っているのが信一人なので運転を任してしまった。
 ハンドルを握ると人が変わるとは、まさしく信のためにある言葉だった。市内走行中はおとなしかったが、国道一五二線に入って天竜川沿いを走りだしてから、狂ったように飛ばし始める。遅い車に追いついて、ブレーキを踏むたびに険しい形相に変わるのを見て、タクシーにすれば良かったと、儀翔は後悔した。
 驚くことに、こんな恐怖のドライブの最中に、後席の美晴は口を開けて寝ている。さすがは鬼の娘、胆力が桁違いだ。

「信、飛ばし過ぎちゃうか。危ないさかい気ぃ付けてみぃ」
 思わず、落ち着かせようと声をかけてしまった。
「いけるで。警察関係には気ぃ付けてる。まあ、俺の免許の一つや二つ失効しても何ちゅうことはあらへん。奈良では自分にばっかり負担をかけてもうたさかい、俺のことは気に掛けへんで少しでも休んでや」
 儀翔の言葉を自分に対する気遣いと勘違いした信は、まったく儀翔の方を向きもせず、ただ真っ直ぐに前を見ている。
 これでは、むしろ疲れると言いたかったが、信の気持ちも嬉しかったので、ここは堪えて無事につくことを祈った。

 今川屋敷が近づいてきた。
 さすがに信も車のスピードを緩め、慎重な運転に変わった。緊張感から解放され、儀翔の口から再び言葉が漏れた。
「今川雅って、なんであないに妖しいんやろうな」
「白沢の影響やんけ?」
「そうかなぁ? 守護獣は能力的な影響は与えるけど、性格に影響を与えるって話は聞いたことあらへんで。それにあの妖しい美しさは人のものとは思えへん。」
 同じ美人でも顕恵と雅は明らかに違う。雅の美しさは悪魔的な怖さがある。
「だれ? 美しいって」
 いつの間にか起きた美晴が儀翔に問いただす。
「今川雅の話をしとった」
「フーン、儀翔はあんなんが好みどすか」
「ちゃう、ちゃう、好みやらいう話ちゃうくて、今川雅がなんであないな風に、恐ろしい人間になったのかを話しとったんや」
「まあ、ええけど、今度は美人やさかいって、でれっとしいひんでね」
「今度はってどないな意味やで」
「そのままどす。ちょい顕恵様美人やさかいって、鼻の下伸ばしてデレデレしとったちゃう。きしょい」
「まあまあ、もう着くさかい、その話止めよう」
 信がうんざりしたように二人の間に割って入った。

 三人とも今川屋敷に来たのは初めてだった。外観だけ見ると、まるで人など住んでいないように見える。その異様な雰囲気に、言い争っていた二人も息を飲んで、顔が強張る。
「じゃあ、行こか」
 信に促されて、屋敷に向かって近づいていく。

 三人を出迎えたのは、お側付きの朝比奈康人だった。康人の鋭い目を見て、三人の緊張が一層強くなる。
「ご連絡しました素目羅義儀翔です。雅様にご面会したい」
 儀翔が名を告げると、康人は自分の名を告げて、三人を家の中に招き入れる。朽ちかけた外観と違って、家の中はきちんと手入れされ、床や壁は磨き上げられていた。
 康人の案内で客間に通されると、今度は畳や家具の美しさに目を奪われる。
「外と中のギャップ凄いなぁ。悪趣味ちゃう」
 相変わらず、美晴は口が悪い。
「口を慎め、これからお願いする相手やで」
 信に注意され、美晴はペロッと舌を出した。

 康人が淹れてくれたお茶を飲みながら待つこと五分、客間の襖が開いて、康人を伴い雅が現れた。
「儀翔殿、遠いところをようこそいらっしゃいました。お会いするのは前回の九家会議以来ですか」
 凛とした佇まいの顕恵と対称的に、雅はどこか流れるような柔らかさを伴って、妖艶な笑みを振りまいた。

「今度の九家会議について相談したくて参りました。率直に聞きます。雅様は今の素目羅義をどのように見られてますか?」
 儀翔の強張った問いに雅は微笑を絶やさずに言った。
「これは異なことをお聞きになるのですね。素目羅義は素目羅義、私たち九家の当主がとやかく言う存在ではないでしょう。儀翔殿も次期素目羅義当主であれば、自家の問題を他家に相談などするべきではないのでは」
「もちろん私自身、素目羅義が道を誤らぬよう普段から心を尽くしております。ただ、次の九家会議は九家崩壊の危機を迎えるのではと、危惧しております。それだけは回避しなければならないと、恥を忍んでこうしてお願いに上がりました」

 儀翔の熱の籠った語りに耳を傾けていた雅の雰囲気が変わった。それと同時に身体を擽るような香りが、部屋の中を満たし始めた。
「なるほど、儀翔殿のお覚悟は良く分かりました。それにしても凛々しいお顔だ。具体的には私に何をして欲しいのかな」
 儀翔は交渉がうまくいっているのか分からぬまま、雅の問いに正直に答えた。
「九家会議の中で祖父と正臣様たちの意見が割れ、万が一戦いとなったときに、正臣様たちに加勢していただきたい」
「素目羅義屋敷にて、儀介殿を敵に回せとおっしゃるのですね。それは命を懸けることになりますなぁ」
 命を懸けるなどと言ってる割には、雅には悲壮感がない。妖艶な雰囲気だけが集中して儀翔を取り包む。
「そのときには私も命をかけて、皆様を脱出できるように手引きいたします。その過程で一人でも命を落とさぬように、なにとぞお味方願いたいと、重ねてお願い申し上げます」
「フフ」

 雅は目を細めながら、唇を舌で湿らせる。その淫蕩な雰囲気に吸い込まれてしまいそうで、儀翔はびくっと身体を震わせる。
「儀翔殿の願いに従ってもいい」
 雅のあっけない承諾の言葉に、礼を言おうとすると。
「ただし条件がある」
 儀翔は気を引き締めなおした。
 雅の視線が眩しい。
「死ぬかもしれないことにあたって、私も孤枕(こちん)を慰める人肌が欲しい。どうであろう、儀翔殿が今宵一晩この屋敷に泊り、私と一夜を過ごすことで味方をする証とするのは?」
「あかん!」
 叫んだのは美晴だった。今にも承諾しそうな儀翔を制して、目を吊り上げて雅を睨み、彼女の申し出への拒絶を示した。
 雅がおやっという表情を見せ、次いで二人の仲を察したように、フフンと笑った。
「ではどうなされる。この条件が入れられないのなら、私も儀翔殿の覚悟を信じることはできぬ」
 苦慮した儀翔の額には汗が滲んでいた。

「これは雅様とは思えぬ情けない言葉をお聞きしました」
 言葉の出ない儀翔に代わり、異を唱えたのは信だった。
「信を結ぶのに閨を共にするとは、古くは曹操鄒氏の例にあるように謀略と裏切りの象徴であります。九家において約を結ぶにあたって、そのような不吉は無用だと考えます」
 ものおじせずに一歩も引かない覚悟を見せる信の態度に、雅は薄ら笑いを浮かべ、満足そうに頷く。
「そなたの言にも理はあるな。まあ、寂しき女の戯言(たわごと)だと流されよ。儀翔殿の依頼への返答だが考えても良いが、私への見返りが見えぬ。このままことが進めば、北条、里見が滅び、今川が関東へ進出することは容易になる。それを諦めるだけの見返りが見えぬが」
 雅の野望が明かされた瞬間だった。そのあまりにもあからさまな野心に、これにも裏があるのではと疑わされるような言葉であった。

「これは聡明な雅様とは思えぬ。九家の力は九家個々のためにはあらず、国の安寧のためにあるもの。それなのに今の雅様の要求は、ただ個人の私欲のみに走っているように聞こえますが」
 信の厳しい追及にも雅は一向にひるむ様子はない。
「それはそなたの見方であろう。では北条はどうだ。九家の力を使って莫大な蓄財を成しておるではないか。このままでは今川は北条の下風に立つことになる。素目羅義、楠木はそれでいいのか?」
「私はコーマ様にそのような野心があるとは思えません。それはコーマ様と付き合いの長い雅様こそ一番存じているのではないですか?」
 儀翔がきっぱりとコーマに対する信頼を表明し、雅に逆に問いかける。
 その澄んだ瞳を見て、雅が静かに目を閉じた。

「ああ、こうして目を閉じていると、今見た儀翔殿の目が、私がこの世で一番愛した者の目とダブって映る」
 雅の閉じた瞼から涙が流れ落ちる。
 部屋の中を悲しい空気が流れ、来訪者である三人は言葉を失い、目を伏せた。
 長い沈黙が訪れた。
 その間誰も身じろぎもせず、雅の次の言葉を待った。
「一つ聞いてもいいか?」
 儀翔は無言で頷く。
「そなたたちは、地理的な順番からいって、北畠に先に寄って同じ依頼をしたのであろう。そのとき顕恵はなんと答えた」
「顕恵様は、よく考えてみるとおっしゃいました」
 ここで嘘や自分の見解を述べても始まらない。儀翔は事実のみを答えた。
 それを聞いて雅は微笑み、結論を伝えた。
「いいだろう。全てを約束はできぬが、少なくとも九家会議にて、どちらかの側に立って攻撃しないことだけは約束しよう」
 そう言って雅は静かに立ち上がり、部屋を出て行った。

「こらどうとったらええのやろう」
 運転する信に儀翔は今日の首尾を問うた。
「良かったんやんけ。雅の真意は分からへんが、少なくとも今川の攻撃は無うなったんやさかい」
「雅様の言葉を信じてええんか」
「普段なら良う分からへんが、今日は信じてええ思う」
 皮肉屋で猜疑心の強い信が今日は素直に雅を信じると言う。
 儀翔は信じきれない自分が恥ずかしかった。

「そやけど儀翔に身体を差し出せなんて、戯れにしても酷すぎるわ」
 よっぽどショックだったのか、美晴はそこに拘った。
「案外本気やった気ぃする」
「まさか」
 信の言葉に美晴ではなく儀翔が驚いた。
「いや、あのときだけは雅は、本気やと思うわ」
「なんでそう思うんや?」
 儀翔が半信半疑で尋ねた。
「気づかへんかったのか? 雅はいつも真意を悟らせへんために、心にベールがかかってるのに、あのときだけはそれが外れとった」
「そう言われれば……」
「そやさかい、あのとき自分も一夜を共にしてもええ思たんやろう」
「そうかもしれへん」
 その瞬間、美晴が後席から手を伸ばして、儀翔の首を絞めた。
「何アホなこと言うてんねん。あの中年女の色気に迷うたん? 信もええ加減にして」
 あまりにも強く首を絞められたので、儀翔は思わず美晴の腕をタップする。
 慌てて、美晴が儀翔の首から手を離した。
 儀翔はゴホゴホ咳き込みながら涙目になる。

「今川雅は、ほんまに愛を欲しがってるだけなのかもしれへんな」
 信の言葉は重く車内に漂った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み