第30話 裏切りからの逃走

文字数 6,443文字

「まったく、あのくそ親父!」
 綾香は走りながら毒づいた。
 怒りで胸の奥がむかむかする。
 とにかく、西新宿の警察署の前まで逃げれば、助かるはずだ。奴らもそこまで追って来て騒ぎになるのは避けるだろう。
 捕まればそこで終わる。薬をうたれて犯されて、後はお決まりの売春婦としての毎日が待っている。
 全力で走り抜けていく綾香を、街行く人たちは好奇の目で見ながらも、関わり合いにならないように、すぐに通り過ぎて行く。ここはそういう街だ。

 高架下を潜ってなおも走ると、やっと警察署が見えてきた。
 立哨している警官が物凄い勢いで走って来る綾香に気づいた。そのまま入り口の前まで走り抜ける。
 奇異な目でこっちを見ている警官に、ぜいぜい呼吸を整えながら、軽く会釈をして後ろを見る。もう追いかけていた男たちの姿は見えなかった。
 安堵で力が抜けて、膝に手をつく。警官は不思議そうな顔をしてこっちを見ているが、幸いなことに声は掛けてこなかった。今は全て話していいのかさえ、判断つかない。

 さて、これからどうするか、綾香の脳はやっと次の行動に向けて回り始めた。
 走っているときの必死の形相から一転して、思案しているときの綾香はなかなか魅力的だ。
 長い睫毛で縁取られたアーモンド形の目の下には、ふっくらと涙袋が添えられ、優しさを醸し出している。細い鼻梁と情熱的なふくらみを持った唇、それに細い顎がはかなさを示す。
 ダメージ系のデニムのショートパンツは美脚を強調し、オフショルダーの白いダボダボTシャツを胸の隆起が押し上げている。

 なかなか考えが纏まらない。警察は当てに成らない。二四時間護衛をしてくれるわけではないし、いつかは奴らに捕まる。かと言って家には戻れない。いっそのこと東京を抜け出して、どこか知らない街に行くしかないかと思ったが、肝心の旅費がなかった。
 思案する中で繰り返し思い出すのは、あの大男のことだ。名前は瀬場須知亜(せばすちあ)、働いているキャバクラに一度だけ来て、いきなり綾香を指名した客だ。
 トラブル対応の専門家だと名乗り、困ったことが起きたら、力になると言われた。
 その日の帰り際、瀬場は自分の名刺を渡して、ここに連絡しろと言った。たったワンセット、指名が被ったのでろくに話もしてないが、明らかに色恋で近づいたのではなさそうだ。
 どうせが八方塞がりで、他に頼れそうなところもない。あの男たちに捕まるよりは、まだましだろう。
 綾香は思考を繰り返した末に決断した。

 二回のコールで電話がつながった。
「はい、瀬場でございます」
 低い男の声だった。
「もしもし、朱音(あかね)綾香と申します。ピンクパンサーのアヤカです。今、電話大丈夫ですか?」
「綾香様ですか。どうされました?」
「今、ちょっとまずい事態で、男たちに追われています」
「どこにいますか?」
「新宿警察署の前です」
「なるほど、そこはとりあえず一番安全ですね。すぐに参ります」
 瀬場はそう言って、電話を切った。その紳士的な応対は、綾香の気持ちを落ち着かすには十分だった。

 今度はさっきよりも注意深く四方を確認する。すると追っ手らしき男が、何人かいることに気づいた。奴らは決してあきらめたわけではなく、綾香がこの場所を動くのを、手ぐすね引いて待ち構えているのだ。
 二十分程すると、白いレクサスに乗った瀬場が現れた。
「お待たせしました。さあ、とりあえずお乗りください」
 瀬場が後部ドアを開けて綾香を招き入れる。
「ありがとうございます」
 綾香は後部シートに身を沈め、逃走してから始めて緊張が解けていくのを感じた。立哨していた警官が注意深くこちらを見ていたが、その顔からも緊張が消えているように思えた。

 瀬場は運転席の前で立ったまま、周囲を見渡してからドアを開けた。二メートルはありそうな長身の瀬場には、この大きな車のドライバーズシートも手狭に見える。
「では進みます」
 瀬場は一言断って車を発進させた。V6 3.5Lツインターボは、驚くほど静かに進み始める。サイドの景色があっという間に消し飛ぶのと対照的に、絹のような滑らかなフィーリングだ。
「久我山に私の主人の屋敷があります。とりあえずはそこに行って、今後の身の振り方を考えましょう」
 瀬場はどこまでも冷静に迷いなく答えてくれる。
「私は行くところもないのでかまいませんが、あなたのご主人に迷惑が掛かりませんか?」
 追っ手の凶悪さを思うと、自分が危ういことも忘れて、思わず訊いてしまった。
「ご主人様に限っては全く問題ありません。それに後ろからつけている車がいます。中途半端なところで降りられても、危険が無くなることはありません」
 綾香が振り返ると、黒いバンがぴたりと後ろをつけていた。それは尾行していることを知られても、問題ないという意思表示に見えた。
「分かりました。今の私にはただ、瀬場さんに全てをお任せするしかなさそうです。申し訳ございません」
 綾香は慣れない敬語を駆使して、瀬場に面倒掛けることを謝罪した。
 瀬場はそれには答えず、車の速度を増してゆく。それでも危うさをまったく感じることがない運転であった。

 待った時間と同じ二十分も走っただろうか、車は大きな屋敷の前で停まった。ゲートが自動で開いて行く。ゲートが十分に開ききったところで、瀬場は車を屋敷に乗り入れた。
 綾香が横目で見ると、黒いバンは、お前たちの居所は分かったと言わんばかりに、堂々と道の脇に停まっていた。
 車が入り切るとゲートはゆっくりと閉まってゆく。閉じてしまえば、もう外から中を窺う術はない。
「では、屋敷の中に入りましょう」
 瀬場は来たときと同じように、先に降りて後部座席を開いてくれた。その動きは華麗で軽やかで、綾香は自然にドアが開くのを待てた。
 車から降りると見事な庭が目の前に広がった。一面に芝生が広がり、洋館の近くは花壇が囲むように設置されている。青々とした緑の中に黄色い花が咲いている。綾香はその鮮やかさに目を奪われてじっと観察すると、それは黄色のバラであることに気づいた。
 手前のまだ花が咲いてない花壇はつつじのようだ。冬はこちらが咲き乱れ、薄紅色に染まるのだろう。
 屋敷と芝生を取り囲むように様々な庭木が植えられている。ユリノキ、桜、ハナミズキか。中木に交じって、一本だけひときわ背の高い楠があった。
 都会の住宅地の一角にこれほどの敷地を持つこの屋敷は、主の財力と権勢の大きさを示している。

 屋敷に目を向けると、三角屋根の見事な洋館が現れる。これは確か……綾香は神戸に行って洋館巡りをしたときの記憶を思い出す。チューダー、チューダー様式だ。それは英国スタイルの建築物の一つだった。
 玄関の上にはバルコニーが張り出し、石柱が支えている。瀬場の案内に従って、その下を潜って玄関に入ろうとすると、「カア」と鴉の啼き声がした。脳に突き刺さるような鋭い声だった。
 思わず振り向いて声の主を確かめる。周囲を見回すと、一番高い楠の枝に一羽の大きな鴉が止まっていた。
「ツノ様でございます」
 背後から瀬場の声がした。
「ツノ?」
「この家の主人はそう呼んでおります」
 綾香は鴉が一羽だけ住み着くなんて珍しいと思いながら、更によく見て驚いた。
 ツノには普通の二本のはずの足が三本あった。
 声も出せずにただツノを見つめる綾香に、瀬場が説明を始めた。
「ツノ様は、ご主人様が生まれたときからこの屋敷に住み着き、そのお体の特徴から、群れで過ごさず、孤高を貫いておいでです」
 綾香は鴉にまで敬語を使う瀬場がおかしくて、つい笑みがこぼれた。

 瀬場は三十帖はありそうなリビングに綾香を案内し、ここで待つように告げた。座るのが勿体ないようなフランス風ソファに腰を掛けしばらく待つと、瀬場が紅茶と菓子を運んできた。
「ご主人様をお呼びしますので、暫しお待ちください」
 薄い陶磁器のティーカップには、白地に青でレースのような模様が描かれていた。今まで見たことのない気品ある風情を楽しみながら、カップをそっと手に取り一口だけいただくと、ハーブのような香りと、まるでシルクのような滑らかな感触が口いっぱいに広がっていく。
 さっきまで絶体絶命の中で、神経が鋭い刃物ように逆立っていたのが、まるで嘘のようにスーッと治まって、優しさがこみ上げてくる。
 できることなら、ずっとこのままこの場に留まりたい気持ちでいっぱいになる。
 二口目を味わいながら目を閉じると、もうこの世にはいない両親の優しい顔が浮かんでくる。泣いてることに気づいたのは、三口目を飲んだところだった。

 小学生まではどこにも増して幸せな家だった。決して裕福ではないが、代々受け継いだ小さな一軒家で、両親の愛に包まれていた。
 それが、不慮の事故で一転する。三人で小旅行に行った帰り道で、父の運転する車にアクセルとブレーキを踏み間違えた高齢者の車が、猛スピードで突っ込んできたのだ。
 後部座席にいた綾香はシートベルトをしていたことが幸いして、命に別状はなかったが、前にいた父と母は衝突の衝撃で、肝臓破裂と頸椎骨折を引き起こして、命を失った。
 その後は、綾香にしてみれば助かったことが良かったとは思えない日々が続いた。唯一の親戚として保護者に名乗りを上げた父の弟は、定職もなく遊び暮らした末に借金まみれになったロクデナシだった。
 綾香に降りる保険金と、家が目当てのこの男は、口にはできない酷い仕打ちをした。
 心の荒みと比例して質の悪い友達が増えてゆき、高校卒業後は定職にも就かず、気の向いたときときだけ顔を出す夜の蝶と成った。

 不意に周囲の温度が下がった感じがした。
「綾香様、ご主人様がいらっしゃいました」
 瀬場の声に閉じていた目を開けると、リビングの扉が開き車椅子を押して入って来る瀬場が目に入った。
 車椅子の主に目を向けると、細面で眼光の鋭い青年がこちらを見ていた。
「ようこそ朱音綾香さん。私はこの家の主の北条昂麻(ほうじょうこうま)です」
 自己紹介をする声は、瀬場より少し高いが同じように穏やかな声音だった。理由は分からないが緊張を強いるような鋭さも含まれていた。
 綾香は慌てて立ち上がって一礼したが、声は出なかった。
「お座りください。私は諸事情が有ってこうして車椅子の身ですから」
「ずっと車椅子なんですか?」
「ええ、生まれてすぐに、成長に合わせてこれが六台目の車椅子になります」
 生まれた時からなんて不治の病を連想したが、それ以上事情を訊くことは憚られて、ソファに腰を下ろした。
「この家の者は、私のことをコーマと呼びます。瀬場のことはセバスチャンと呼んでいます」
 コーマは言いながら微かに笑った。初めて見た笑顔は、爽やかさの中に引き込まれるような妖しさがあった。
 それにしてもコーマにセバスチャン、なんだか外人みたいだ。瀬場須知亜だからセバスチャンか。何となく納得すると笑顔が漏れた。

「あの、コーマさん……」
「コーマでいいですよ。あなたは私とそう年も変わらぬようだし、ましてや私の使用人ではない。代わりに私もあなたのことを綾香と呼ばせてもらおう」
「私のこともセバスチャンとお呼びください」
 ニコリともしないで、セバスチャンが続けた。
「コーマ、なぜ私を助けてくれたのですか?」
 綾香が胸に抱いている最大の疑問を口にすると、コーマは再び微笑んだ。気のせいかその笑顔には、先ほどのような妖しさが消えているように感じた。
「あなたの家は代々北条家の家庭教師をしていました。そして私はこんな身体ですから、あなたのお母さんは生まれてから三才になるまで、ずっと私の身の回りの世話をしてくれたのです」
「なぜ三才までなんですか?」
「綾香、あなたが生まれたからです。それからも漸く首が座ったあなたを連れて、私の様子を見に来てくれました。私にとってはあなたのお母さんは、実の母のように優しさを感じる人だった」
「驚きました。母の仕事を私はほとんど知らない。コーマのお母さんは一緒に住んでいなかったのですか?」
「母は私を命と引き換えに産みました。父は私が十五才のとき事情(わけ)あって出て行きました。私はそのときからずっと一人で暮らしています」

 コーマの悲しい答えに応じるように、屋敷の外で鴉の啼き声がした。屋敷に着いたときに聞いた声より悲しそうに響いた。
「ああ、ツノが啼いている。この話をするといつも悲しみを共感してくれる」
 コーマが嬉しそうに楠の方角に目を向けた。その目にはツノの姿が見えているかのようだった。
「あの、私の話は訊かないんですか?」
「ああ、あなたの話はセバスチャンが調べてくれたから、だいたい分かっています。私の方で話を付けるから、しばらくはこの屋敷に居ればいい。ここなら安全だし、ツノもあなたを守ってくれる」
「危険じゃないかしら。あいつらは歌舞伎では有名なハングレだし、バックにはヤクザもついている。やっぱり警察に行った方が……」
 綾香が心配を口にすると、コーマの雰囲気が変わった。恐怖が部屋全体を覆って、部屋の温度がグッと下がった気がした。
「彼らは手を出してはいけない領域に触れてしまった。生きているのが嫌になるような思いをして、二度とあなたに手を出したりしないだろう。そしてあなたが嫌悪するあの男も生まれてきたことを後悔することになる」
「あの男って叔父のこと?」
「そうです。私の配慮のなさが、あなたがこれまで受けた痛みの原因となってしまった。もう少し早く気にかけて調べるべきだった。本当に申し訳ない」
「それは気にしないで。それよりもいったい何をするつもりなの?」
「それは教えられない。あなたは知らない方がいい。この屋敷でゆっくりと心と体を休めてくれればいい」
 その言葉を最後にコーマはリビングを去った。
 少しすると、セバスチャンが戻って来た。
「綾香様、寝室にご案内します。ここにいる間は、その部屋があなたの部屋になります。ゆっくりとお休みください」

 案内された部屋は二階の階段を上がった先にあった。十二畳ほどの部屋に、ユニットバスが付いていた。独立した浴室とトイレは一階にもあると言うことだったが、プライベートを考慮して、二階の各部屋に配備されてあるらしい。
 二階には案内された部屋以外に八室あり、コーマの部屋は二階の奥であった。その隣にはもう一人同居人がおり、セバスチャンは屋根裏部屋にあたる三階に住んでいるということだった。
 綾香はまず、その部屋のシックな雰囲気に満足した。クロスではなく木肌がむき出しに成った壁は、落ち着きを感じる。そして家具全てに、いったいいくらするのか想像もつかない、品の良さと造りの良さが漂っていた。
 クローゼットを開けると、下着からパジャマ、そしてそのまま外出できそうな部屋着が揃えてあった。今日は力いっぱい走ったので、シャワーで汗を流し、用意された下着とパジャマを身に着けると、まるで綾香がここに来ることを予期していたかのようにぴったりとしたサイズだった。
 まさに綾香のために準備しておいたことが分かる部屋だった。
 ベッドに腰を下ろして、波乱万丈な一日を振り返る。
 そのほとんどは恐怖と逃走に費やした時間ではなく、この屋敷に着いてから体験した時間だった。

 この屋敷全体に漂う上質な高級感とは対照的な、残酷な事実が隠されているような恐怖感、この二つがミックスして存在している不思議な感覚。加えてコーマ自身から放たれる思慮深い優しさと、計算された残忍さが同居する矛盾に戸惑う。
 更にコーマとツノの種を超えた一体感、これら全てが興味と恐怖を繰り返し交互に感じさせる不思議さ。
 綾香の頭の中は、いろいろな想像で混乱が広がる。ただ、はっきりと分かることが一つだけある。コーマを信用するだけで、確実に今の酷い状態から抜け出すことができる。理由は分からないが、それを強く信じている自分がいた。
 束の間の安堵を確認したとき、綾香は眠りに落ちた。
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