第58話 水に沈む街

文字数 3,942文字

「杏里紗!」
 樹希と共にタクシーを降りた杏里紗を抱きしめた零士が叫んだ。
「樹希、ご苦労様」
 礼美と八雲が大役を果たした樹希を労う。

 タクシーへの支払いを終えて、降りてきた明良に智明が囁く。
「これで樹希に頭が上がらなくなるな」
 明良は苦笑する。
 樹希と杏里紗が無事に戻って来て、コーマの屋敷には明るさが戻った。

「とりあえず、中に入ろう。あっ、杏里紗はもう休んでいいよ」
 明良が樹希を伴い、コーマの待つリビングに向かう。杏里紗はセバスチャンの後に続いて二階に上がる。

「樹希、疲れているところを申し訳ないけど、オロチについていくつか聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
 樹希は疲れた様子も見せず、杏里紗を救った喜びから笑顔で答えた。

「この豪雨はオロチが引き起こしたものですか?」
「はい、そうです」
「では、オロチは何のために、雨を降らすのですか?」
「この雨によって大地を浄化すると言ってました。どうやって浄化するのかは、分かりません」
「大地の浄化?」
 樹希の答えを聞いて、その場の誰もが考え込んだ。

「智成、土地神は人間の憎しみや悪意によって、自然が疲弊することに対して怒ると言いましたね」
「そうだ。疲弊した自然を回復させるために霊木を捧げる」
「霊木を捧げると何が起きますか」
「とてつもなく大きな引き潮と満ち潮が何回も繰り返され、海が清められる」
「私のところは、山の木々が一斉に新芽を開き、枝は葉を茂らせ、山が緑に染まる」
 八雲は緑に染まった山を思い出したのか、うっとりとした表情を見せた。

「ふーむ、今回は杏里紗を返しただけで、状況に変化はありませんね。では樹希、オロチは杏里紗を捕らえて何をしようとしたのですか?」
「杏里紗の回復の思念を雨に込めて、大地を蘇らせると言ってました。杏里紗は大地の浄化と引き換えに命を失うとも言ってました」

「なるほど、それで杏里紗を攫ったのか。オロチは杏里紗と霊木を交換したのですか?」
「はい」
「おかしいな。いかに霊木と言えども、杏里紗の持つ力に比べれば劣るはずだ。この悪意に染まった東京の大地を、回復させるほどの力はないはずだ」
「そこはどうするのか、私には分かりません」

 オロチの狙いが分からず全員がさえない顔で考え込む。
 明良は目に入った樹希の顔が、さほど落ち込んでないを不審に思った。杏里紗奪回で指名を果たしたと、満足しているのか、それさえも分からなかった。

「樹希、疲れただろう。もう休もう」
 明良が樹希に声をかけ、周囲に樹希の休息を提案した。
「ああ、すまないね。十分に休んでください」
 コーマが樹希の苦労を労った。

 休むために樹希が部屋に戻ったのを見計らって、明良がコーマに問いかける。
「樹希が霊木を運びに行く前に、霊木だけでは杏里紗は救えないかもしれないと、言ってましたね。だが結果は救えた。なぜだと思いますか?」
 コーマは明良の目を見て微笑んだ。
「明良、顔が怖いですよ。それは私だけではなく、智成や八雲も疑問に思っているはずです。でもあえて皆そのことには触れなかった。その意味は、あなたが冷静に考えれば分かるはずです」
――触れなかった意味……まさか!
 明良は恐ろしい真実を思い描き、血の気が引いて顔が青白く染まった。
「今は静観しましょう。オロチが動きを見せるまでは、下手に動かない方がいい」
 叫び出したくなるような衝動を抑えて、明良は小さく頷いた。


 夜が明けても、一向に豪雨が止む様子はなかった。
 リビングに置かれた100インチの大型モニターには、昨日から続く豪雨による浸水被害を報道するテレビニュースが、映し出されていた。
 雨量は一時間に七十ミリを超え、既に二七時間振り続けている。東京の各地で排水が間に合わず水が地上に溢れ出していた。特に荒川と江戸川が増水し堤防決壊まで秒読みとなっており、その場合江東五区(江東区、江戸川区、墨田区、足立区、葛飾区)のほとんどが水の底に沈む危険があった。
 また渋谷駅前は既に地下から水が溢れ出し、周辺の高所からも一挙に水が流れ込み、沼のようになっていた。
 都内を走るほとんどの電車は運休し、バスも走行不能となった。足を奪われた都民は、家から一歩も外に出ることができず、その家もいつ浸水するか分からない状態となり、不安が増している。

「酷い状況だな」
 ニュースを見ていた零士がポツリと漏らした。
「渋谷駅前の水はすごい泥流だった。仮にこの後水が引いても、駅前の全ての施設は泥やごみが堆積して、復旧はしばらくかかるな」
 智成は都内の主要ターミナル駅の事実上の機能停止による、様々な悪影響を心配して、表情から明るさを消していた。

「このまま豪雨が続いたら、東京は水に沈んでしまう」
 零士は悔しそうにモニターを睨みつけた。
「自然の前では人間は無力だ」
 智成が悟ったように呟いた。
 オロチの仕業と分かっていても、成すすべもなく見ているしかない無力感で、皆顔が暗かった。

 樹希が二階から降りてきた。
 モニターを見てポツリと漏らす。
「まるで、ノアの方舟の話のよう」
 その言葉に驚いて、皆が振り向いて樹希を見た。
 樹希の顔には薄ら笑いが浮かんでいて、まるでこの光景を歓迎しているようだった。
「樹希、どうしたんだ」
 零士が樹希の傍に寄ろうとしたとき、樹希の身体が一瞬にして木製の人形に変わった。
「えっ?」
 その一瞬のできごとに皆驚く中で、コーマが叫ぶ。
「危ない、皆伏せて」

 言葉が終わらぬうちに、木製の人形が炭に変わって、すぐに細かい炭の粒と成って砕け散り、リビングの空間に舞った。
 樹希の立っていた位置から火花が飛び、隅の粒に引火し粉塵爆弾と化した。
 そのとき、リビングの窓を割ってツノが入って来て、爆発の中心に飛び込む。
 大爆発となる手前で、翼を広げたツノの身体が食い止めた。

 後には黒焦げに成った床とツノの身体が横たわっていた。
「ツノ!」
 明良がその名を叫びながら、ツノに駆け寄る。
「ダメだ、心臓が止まっている」
 明良が絶望に駆られて声を上げる。

「セバスチャン、すぐに祭壇を隣の部屋に組んでくれ」
「コーマ!」
「明良、大丈夫だ。八咫烏は不死鳥だ。魂と肉体の接合を成せればすぐに復活する」
 コーマの言葉に、明良はホッとして、身体の力が抜けた。

 明良の身体を智成が支えながら唸った。
「ウーム、やはり樹希は木偶(でく)人形だったか」
「おそらく樹希は杏里紗を開放するために、オロチの出した水をあえて飲んだのだろう」
 八雲がはんば予期していたのか、無念の色を顔に表した。
「雨の質が癒しから破壊に変わっている。樹希が杏里紗の代わりにこの雨を降らせているからだ」
 阿里沙と違って、樹希の思念が攻撃的であることから、明良が推測を口にした。

「明良の考え通りだろう。だが、これでこの雨を止ませることと、樹希の救出が重なった。何としても助け出す」
 零士はそれが自分の責任のように、重々しい表情で救出を宣言した。
「でもどうやって救出するのですか?」
 雷が心配そうに言った。
「樹希は私が渡した妖狐の守り札を、まだ身に付けてるはずだ。それが我々をオロチの下に導いてくれる」
「だが、例え道が分かっても、その後どうやってオロチを封じ、樹希を開放する」
 八雲の声は悲壮感に溢れていた。
 皆、そこが分からぬまま、部屋の中に沈黙が流れる。

「封じる方法もそうだが、誰がオロチの結界に乗り込むかも決めねばならない。コーマはツノの回復のために、数日間はこの屋敷を出れないだろう」
「俺が行く」
 智成の問いに零士が名乗りをあげる。
「いや僕が行く」
 明良はいざと成ればオロチと刺し違えてもと思って志願した。
 他の者も口々に名乗りをあげる。
 決まらぬまま、沈黙が流れる。

「それは私の役目です」
 この場にいない者の声に反応して、皆一斉に声のした戸口を見た。
「素目羅義儀翔!」
 智成がそこに立つ男の顔を見て声をあげた。
 そこには、素目羅義家の新当主儀翔の姿があった。
「智成君、甲府では助けてくれてありがとう。皆さん、儀介の後を継いで素目羅義の当主と成った儀翔です」
「なぜここにいるんだ」
 儀翔がまだ慣れない挨拶をすると、零士が驚いた顔のままここにいる理由を訊いた。

 儀翔は零士に向かって微笑んだ。
「零士さん、九家会議ではお世話になりました。実は関西でも様々な土地神の怒りが都市を襲うので、正臣殿の勧めにより、高野山の山神に理由を尋ねました」
「山神はなんと?」
 明良は気が急くのか、結論を求めた。
「祖父儀介が日本人にかけた呪いは、土地神の癒す呪術を下敷きにしていたのです。これを解いたことにより、土地神への縛りが無くなり、これほど大規模な騒動が、各地で起こったのです。ですから、土地神縛りの封印を新たに発動しました」
「それはいつですか?」
「一昨日です。ところが、東京に棲みつく土地神だけ、この封印が効かない」
「理由は分かってるのですか?」
 明良はじれているのがあからさまに見て取れた。
「まあ、明良君おちついて、東京の土地神を封印するには、ここにいる全員の力が必要です。だから、しっかり聞いて理解してください」
 儀翔の顔が笑顔から真顔に変わった。

 智成は驚いていた。以前甲府で会ったときは、まだ修羅場の経験も少ない青年の面影が色濃く残っていたが、今は盟主の風格を備えている。思念の強さも、アジアの思念師たちと激戦を繰り返した、自分と同等に感じる。
 何がこの男をここまで成長させたのかと、不思議に感じた。

「今から東京の土地神がここまで荒ぶる理由と、封印方法を説明します。相手は神ですから封印も命がけになります。心して聞いてください」
 儀翔は自信に満ちている。
 そこにいるのは、明らかに九家の盟主だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み