第46話 別れの時間

文字数 3,642文字

 美晴は兄辰馬(たつま)と共に、父新治と座卓を挟んで正対していた。座卓の上には本家月餅屋直正(ほんけつきもちやなおまさ)の餡入りわらび餅が置かれている。
 新治は鬼のイメージとは裏腹に、酒が飲めず甘いものに目がなかった。特に目の前に置かれたわらび餅は大のお気に入りで、何か大事な話があるときは必ずこれを買ってくる。
 明日はいよいよ運命の九家会議である。父も思うところがあって、兄と自分を呼んだに違いないと思った。

「美晴は今年いくつになる?」
 父はわらび餅を幸せそうな顔で食べながら、訊いてきた。
「今年の八月で二十一になります」
「二十一か、早いものやなぁ。そなたがランドセルをしょって学校に行く姿、昨日のことのようにさえ思える」
 どうしたことか今日の父は妙に感傷的だ。
「どうされました? 今日の父上は、なんかおかしゅうあらしまへんか?」
「うむ、明日の九家会議に臨むにあたって、そなたたちに言わなならへんことがある」
 重い話のようだが、父の声音は柔らかく優しかった。
「何どすか?」
儀燕(ぎえん)様のことだ」
 儀燕とは、儀翔の父で今はもう亡くなっている。
「あれからもう十八年になる。辰馬はまだ高校生やったな」
「覚えとります」
「当時儀燕様は二六才、九家の未来を思い、様々な改革を為されようとしていた。まだ九家の当主も前代がほとんどで、新しい者と言えば、高校生の北条昂麻が父親が隠居したために、無理やり当主にされたぐらいだった。今では、その頃の当主で残っている者は武田、上杉、少弐ぐらいか」
「ただ父上、私も儀燕様の死因については良う知りまへん」

 辰馬は年来の疑問を口にした。
 ここで新治の顔はわずかに曇った。
「儀介様に討たれたのだ」
「なんと」
 衝撃の事実だった。素目羅儀儀燕は十八年前に実の父によって殺されたのだ。
「当時の日本は、今よりも国内に閉じこもっとった。日本人は誰も、それに対して危機感を感じてへんかった。儀燕様は素目羅義の呪いが必要以上に日本人を蝕んでると、悩んだあげく儀介様に呪いの解除を執拗に迫られ、儀介様のご不興を買ってしまい、討たれたのじゃ」
「父上、素目羅義の呪いって何どすか?」
 聞き慣れない言葉に、美晴が首を傾げる。
「戦後、帝を守るために、当時の素目羅義の当主が、マッカーサーと約束を交わした。それは素目羅義だけが成しえる、多くの日本人の精神を縛る思念干渉だ。これによって日本人は、海外への侵攻や外国人に自己主張する気概を、抜き取られてもうた」
「そんなんがあってん。知らんかったわ」
「私も初めて聞きました。それにしてもお手打ちとは厳しい」
「あの頃から儀介様は、ちょいちょいおかし成られてる」
「明日は儀翔様も会議に参加される。ええか辰馬、美晴、何があっても儀翔様のお命は助けなはれ。儀翔様が命を落とされたら、素目羅義は終わりだ。生きて、儀翔様と共に血塗られた素目羅義を復興するんや」
「儀翔はうちが絶対に守る」
 長年心に残っていた大事なことを告げて、新治は晴れ晴れとした気持ちで満足そうに笑った。


「零士、明日は京都に行くんだね」
「ああ、コーマと正臣と三人で行ってくる」
「実川さんは一緒に行かないの?」
「実川は置いていく。俺に万が一のことがあったら、里見の家と杏里紗を守る人間が必要だ。前にも言ったように、もし杏里紗が大人になっても、俺のことを想ってくれているならば、冷凍保存した俺の精子を使って、俺の子供を産んで欲しい。そのときの面倒は実川に任せてある」

「私だって、零士の赤ちゃん欲しいよ。今じゃダメなの?」
 杏里紗は生きている零士を求めていた。
 今零士に愛された上で、愛の証を身籠りたいと願った。
「それは駄目だ。杏里紗が成人してからじゃないと、妊娠しても子供を産む前に死んでしまう」
「明良がいても駄目なの」
「明良の力でも無理だ。後四年、身体だけじゃなく心まで、神樹の子供を生むための成長をするのに後四年必要だ。それを待たずに身籠ったら、神樹のパワーに心が負けて、子供が流れてしまう」

 辛い現実に杏里紗は俯く。
「俺は十四才の杏里紗に会って、種子と種子が引き合う本当の愛を実感した。あれから二年、人生で一番幸せな時間を過ごすことができた。ずっとこの幸せの中で生きていたかったが、もし明日命が無くなったとしても、愛を知ったことで満足して死ねる」
 ついに杏里紗は泣き出してしまった。

「頼むから泣かないでくれ。例え俺の肉体がなくなっても、俺の思念はいつまでも杏里紗と共にある。決して前のように一人になるわけじゃない」
 杏里紗は零士の胸に顔を埋めて、ひとしきり感情が治まるまで泣き続けた。
「私も零士も寂しかったんだよね。寂しさを埋めてくれる相手が、ずっといなかった。でも寂しい二人の心が合わさって、暖かくなった。大丈夫だよ。私はこれからもずっと、この暖かさを胸に生きていける。明日は悔いが残らないように頑張ってね」


 コーマは綾香と一緒に興亜の寝顔を見ていた。興亜は不思議な子だった。ミルクと排便以外はひたすら寝ている子だった。まるで成長することが勤めのように、その他の行為は一切しなかった。
「私、子育てがこんなに楽だなんて想像もしてなかったわ」
「そうだね。この子はただ成長することだけを考えている。それ以外の思考は、今は必要ないと割り切っているかのようだ」
「目的のために行動するなんてまるで大人みたいね」
 綾香は苦笑いした。自分が死の淵に落ちかけたときも、この子が思念で明良に働き掛けて救ってくれたことも聞いた。
「本当にこの子がスーパーベービーで助かったわ。命を救われたし、子育ての苦労からも解放されている。でもね、何よりもこの寝顔が一番の贈り物。きっとどんなに苦労をしても、この寝顔と出会えただけで耐えられる。親は子供が三才に成るまでに、その後の苦労に見合う幸せを得るっていうけど、その言葉を実感するわ」
「そうだね。この子の寝顔をこうして君と見られただけで、一生分の幸せはもらったね。明日にも悔いなく臨むことができる」
「コーマ」
 綾香はコーマの顔を自分の胸に引き寄せ、両腕でコーマの頭を抱きしめる。
「でも、あなたは私のもの。他の誰にも渡さない。だから明日何が起きても、死神はあなたを連れていけない」


「父上、もう京都ですか?」
――ああ、新潟は京都から遠いから、今夜のうちに京都に入ることにしたよ。
「八雲は、ここに来て父上の娘として恥ずかしくないぐらいには、強くなりました」
――正臣から聞いてるよ。なかなかまめな男で、お前と雷の成長を事細かく電話で知らせてくれる。
「私は父上の強さを信じております。明日は何があっても生き抜いてください」
 八雲は私も父上と一緒に戦いますという言葉を、すんでのところで飲み込んだ。代わりに涙が一筋頬に流れ落ちた。


「もしもし、正臣です」
――なかなか活躍のようだな
「父上こそ息災で何よりです」
――もう強さだけならお前は儂を上回っておる。
「何をおっしゃいます。父上の強さは別次元です」
――ハハ、面白い言い回しだな。だが智成、強さだけでは最終の勝ちは拾えん。そこでたくさんのことを学んで、わしの後の少弐を背負える男に成ってくれ。
「大丈夫です。こっちには良い師と仲間たちがいますから。父上のような立派な当主に成れるよう、日々精進してまいります」
――そうか、頼もしいな。礼美にもよろしく伝えといてくれ。
「もちろんです。父上、明日はよろしく頼み……」
 智成は意識しないまま電話口で鼻を詰まらせた。


「ねぇ先生、考えてみれば先生に教えてもらった時間は、まだ二カ月しか経ってないんだね」
「そうだな。樹希も高校生に成っていきなりいろんな事件に遭遇して大変だったな」
「うん、人生ってこんなにいろんなことがあるのかと、毎日驚いてる。ねぇ先生が明良と出会ったのはいつ頃なの?」
「最初に出会ったのは三年前の九家会議かな。コーマに弟だといきなり紹介されて、驚いたよ」
「最初に会った時の明良はどんな感じだった?」
「うーん、力は感じるけど、全体的にひ弱さが目についたかな」
「なるほど、いわゆる線が細いってやつだね」
「明良は樹希と会ってから逞しくなったと思うよ」
「いやだ、私が逞しい女みたいじゃない」
「はは」
 正臣の笑い声が静かに響いた。
「先生、私って欲張りな女なの。まだまだ先生と一緒に学校を楽しみたい。もっともっと教えて欲しいことがたくさんあるし、何より普通の先生と生徒が送るような青春もしたい。だから、明日は死ぬことは許さない」
 それは正臣にというよりも、樹希自身に言い聞かせてるようでもあった。


 明良は庭に出て、一人で月を見ている。
 額には天眼が浮かんだり消えたりを繰り返していた。
 楠にはツノが止まっていた。
 ツノは屋敷の中で交わされている別れを、全て聞いてるようだった。
 明良とツノの視線が交錯する。
 明良がツノに何事か囁くと、ツノは嘴を上に向け、一声啼いた。
 カア。
 その声は闇を震わせながら屋敷に届き、吸い込まれて消えていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み