第34話 コーマの秘密

文字数 3,759文字

 綾香は、バルコニーから戦いの一部始終を見ていた。
 圧巻だった。
 セバスチャンの強さはある程度予想していたが、中学生の戸鞠明良が、あれほど強いとは思いもしなかった。
 来島たちが屋敷を去ったのを確認して、バルコニーを駆け下りた。
 セバスチャンは戸締りにでも行ったのか、明良がコーマの車椅子を押して入って来た。
 綾香の姿を見ると、明良がニヤリと笑った。
「良かったじゃない。これで家に戻ることができる」
「家に戻る……」
 家に戻りたいとまったく考えてなかったことに気づいた。
「そうだよ。もう来島は何もできない。心が壊れちゃったから」
 そんな恐ろしい話をしながら、薄ら笑いを浮かべる明良の中に悪魔を見る思いがした。
「私はあの家に戻りたいとは思わないわ」
「うん、じゃあ言い換えよう。この家を出ることができるね」
「どういう意味? 追い出したいの?」
 真剣に訊いた綾香に対し、明良はわざとらしく困ったような顔をした。
「そんな風に取るんだ。僕は綾香のために、できるだけ早くこの家から出た方がいいと、言っただけだよ」
「どうしてそう思うの? 私がアバズレだからこの家のお上品な雰囲気に合わないと、言いたいの?」
「ノンノン、逆だよ」
 明良は顔の前で人差し指を立てて、それを横に振って否定する。
「戻れるときに元の世界に戻った方が良い」

 明良の雰囲気が変わっていた。いつも浮かべる薄ら笑いが消えている。背筋がぞくっとするような迫力がある。中学生に気圧されたことで、綾香に動揺が走った。
「関係ないわ。自分のことは自分で決める」
 そう言って自分の部屋に逃げ込んだ。
 ベッドに座って動揺を鎮める。
 中学生を相手にあれほどムキになるなんてどうかしている。いくら大人びていると言っても、相手は八才も年下なのだ。冷静になって考えれば、軽くいなしておけばいい相手だ。そうできなかった理由は何なのか?
――コーマが原因だ。
 自分と明良の口論を、黙って観察していたあの目が気に成ったのだ。自分はコーマの口から決定的な言葉が出ることを恐れた。おそらく明良も、コーマにしゃべらせないために、話していたに違いない。
 もしコーマが口を開いたら、それは決定事項だった。おそらく自分は逆らえない。そういう得体のしれない力がコーマにはある。

 いったい自分はどうしたいのか、それも自分ではよく分からなかった。
 許されるならここに居続けたい気持ちはある。生まれ育った家には、優しかった両親は既に亡く、叔父によって汚された悲しい思い出だけが残っていた。危険は去ったとはいえ、戻りたいと積極的に思えない。
 コーマに対して惹かれている気持ちもあった。それは男女の間で生まれる甘美な感覚ではなく、心の底から湧き出る欲求だった。
 親切で物静かなコーマの心の裏側に見え隠れする、妖しいまでの残忍さの正体に心が惹かれる。
 だが、この屋敷にこのまま居続けてはいけない警告のようなものも感じる。それは厚かましいとか、ずうずうしいといった、世間一般的な常識に基づくものではなく、本能的にここに長くいたら危ないと告げてくるものだった。
 考えれば考えるほど、悩みは深く成り、とても結論を出せそうになかった。
 綾香はもともとものごとをはっきりさせる性格だ。今の中途半端な状態は、とても耐えられなかった。
 結論を出すために必要なことは、もうはっきりとわかっている。コーマと話すことだ。今の決めきれない自分の気持ちをコーマに伝え、コーマの意志を訊くしかないと思った。
 そう思ったとき、既に立ち上がっていた。そのまま部屋を出て、廊下の奥のコーマの部屋に向かう。

 部屋の前に来たとき、少しだけ躊躇いが生まれた。なにしろもう夜だ。男の部屋に入るには勇気がいる。上を向いて気持ちを静めてから、前を向きドアをノックした。
「どうぞ」
 コーマの声だ。
 ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開ける。
「どうしたんだい、綾香?」
 いつものようにコーマは笑顔で迎える。
「さっき、明良が言ったことだけど――」
 自分の気持ちを全て伝えるつもりが、言葉に詰まった。
「ああ、この家を出るかどうかと言う話だね。それは綾香が決めればいい」
 コーマはあっさりと綾香に決断を託した。
「決められないから、話に来たんです」
 それはあっさりと問題を押し返してきたコーマに対する、抗議の意味合いも多少含まれていた。
「どういうところが問題となるのかな。迷惑になるとか申し訳ないといった常識的な理由は、北条邸においては問題に成らないことは、聡明なあなたなら分かっているはずだ」
「私は聡明ではありませんが、そういう理由ではありません」
「では、何が問題なのかな?」
「正直に言うと、私はここにいることに魅力を感じています」
「ならばいればいいではないか」
「ただ、いるというわけにはいかないんです。ここにいるということは、セバスチャンや明良と同じく、ここの一員と成ることと同義語になります」
「それはまた難しい話だな」
 コーマが少し顔を曇らす。
「あの、ここの一員として暮らすと言うことに成れば、もう二度とここから離れられない覚悟をしなければならないのでしょうか?」
「その答えはノーであり、イエスでもあるな」
 綾香は意味が分からず、理由を訊きたくなった。
「詳しく聞きたそうだね。つまり、私を含めて誰も、あなたがここを出ていくことを止めはしない。あなたはいつでも自由にここを出ていくことができる。ただ、そのときあなたは心に大きな傷を負うことになる。だから容易には出ていけない」
「心に傷を負うとはどういうことですか?」
「ここの一員と成るために知らなければならないことがある。ただそれは悪魔の契約のようなもので、知ってしまえば我々と無関係には成れなくなってしまうということだ」
「私はそれを決断しなければならないのね」
 想像通りここには、半端な覚悟では知ってはならない理由があるようだ。それは嘘やはったりではないことを、コーマの雰囲気から察した。

「今、ここで伝えてもいいが、時間を置こうか?」
 すぐに決断した。今更時間を費やしても、仕方がない話だと分かっていた。
「今、ここで教えてください」
 綾香が十分な覚悟を持って言ってることを感じたのか、コーマは軽く頷いた。
 次の瞬間、コーマはやおら車椅子から立ち上がり、前に踏み出した。
 立てるんだと思ったすぐ後で、奇異な感覚に襲われた。
 目の前のコーマの姿に違和感を感じたのだ。
 そして、その違和感の正体をはっきりと認識した。
 コーマには三本目の足があったのだ。
 それを認識した途端、外でカアと鴉の啼き声が聞こえ、次に綾香は心蔵に硬いものが突き刺さったように感じた。思わず胸を抑える。
「これが僕の本当の姿だ。いつもは三本目の足は車椅子の台座の中に隠されている。あなたはこの姿を見てしまったときから、心に誓約を持ってしまった。あなたが私と共にいることをやめようと考え、この屋敷を去るときに、今刺さった刃があなたの心を切り刻むことになる」
 心臓を中心に血の温度が急上昇している。その熱い血が全身に行き渡り、身体が熱く焼けるように感じる。視力が衰え周囲が暗くなってゆく。喉がカラカラに焼けて唾液が乾いて痛い。髪の毛が電気を帯びたように逆立つ。
 着ている服がビリビリに破け、生まれたままの姿に成り、身体が透き通って心臓が見える。その心臓にはしっかりと鴉の脚が爪を立てて食い込んでいた。
 やがて周囲は暗闇に成り、三本足の鴉が闇の中に浮かび上がってくる。
――ツノ?
 綾香が呼びかけるとツノは真っ直ぐに綾香を見つめ、再びカアと啼き声をあげた。
 空間が回転し、綾香の身体が螺旋の渦に引き込まれる。
 必死で手を伸ばし渦から逃れようとすると、白い手が差し伸べられ、綾香はその手をしっかりと掴んだ。渦から引き戻される安堵感で意識を失う。

 気が付くと自分の部屋のベッドの上にいた。窓の外には朝日が昇っている。いつ戻って来たのか記憶がなかった。
 ベッドの上で半身を起こすと、自分が何も身に付けてないことに気づいた。落ち着いて自分の身体を調べると、左胸の乳房の横に四つの爪跡が残っていた。
 鏡の前に立ち、自分の顔と身体を映す。
 特に変わった点はなかった。
 左胸の四つの爪跡を除けば、身体に変化は何もなかった。
 体温を測ってみたが、三六度三分、平熱だった。
 ただ、身体には高熱を発して汗が噴き出した感触があった。裸のままでシャワールームに向かって、乾いた汗を洗い流す。汗がお湯に溶けて気持ちいい。
 身体をバスタオルで拭いてシャワー室を出て、備え付けの冷蔵庫から冷えた炭酸水を取り出し、一口飲む。砂地が水を吸い込むように、身体が水分を欲していた。
 服を来て窓を開けて、庭を一望する。昨日の乱闘が嘘のように、いつもの綺麗な庭が眼前に拡がる。もしかしたらあの後、セバスチャンは一人庭に残って、戦いで荒れた場所を手入れしたのかもしれない。
 楠の方角から視線を感じたので目を向けると、ツノがこちらを見ていた。目を合わすとツノの感情が流れこんできた。
 ――ツギノオウヲウメ、エラバレシモノヨ。
 気のせいなどではない。音として捉えてはいないが、その感情が指し示す意味はしっかりと把握した。
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