第52話 怨念が呼ぶ声
文字数 2,614文字
神田川は井の頭池を源流とし、東京都を横断して両国付近で隅田川と合流する。高度経済成長期に水質が悪化し死の川と成ったが、近年の水質改善により、また魚が住むようになった。
辺見沙也 は高校入学以来、久我山駅の南にある中央緑地から神田川を眺めるのが日課となった。
じっと川面を見てるだけで、沙也の心に巣くった寂しさや虚しさなどの負の感情が減っていくように感じた。ただ、消極的な負の感情が減るのと反比例して、憎しみという積極的な負の感情は逆に増していく。
――自分は悪くない。悪いのは全てあの女だ。
学校で生じる辛い記憶が、毎日川を見ながら呪いの言葉となって蓄積された。
今日は特に辛い思いをした。
中学のときあんなに仲が良かった及川杏里紗と、高校になってクラスが分かれて話すことも滅多に無くなった。
昨夜中学のときに杏里紗から借りた本を見つけた。久しぶりに話ができると思い、勇んで杏里紗のクラスに行った。
杏里紗にとても面白かったありがとうとお礼を言って返そうとすると、気に入ったのならあげるとあっさり言われた。
それは同じクラスの友達と話しながらの、素っ気ない返事だった。
聞かれたときにと用意していた具体的な感想や、今日お茶しに行こうと誘う言葉は、その杏里紗の態度で全て頭の中から飛んで行った。
杏里紗が新しい友達と仲良くなるのはかまわない。
自分もその友達と仲良く成ればいいだけだ。
中学のときも杏里紗はそうやって、自分の支配するグループを拡げて行った。
だが、今度は違う。
杏里紗が親しくしているのは、中学時代にいじめのターゲットにしていた、あの緒川樹希なのだ。
沙也は杏里紗に命じられるままに、樹希へのいじめの実行犯を担っていた。
犬の糞も探して拾ってきた。
トイレの上から水をかけようとした。
げた箱から靴を盗んで捨てた。
それでも樹希はへこたれず、いつも愚かなと言わんばかりに、自分たちを見下していた。
その態度に頭にきて、杏里紗と樹希の悪口を言い合い、別のいじめを計画した。
それは楽しかった。
いじめそのものよりも、杏里紗との感情の一体感が嬉しかったのだ。
ある日を境にその関係が一変した。
杏里紗がこともあろうに、憎悪の対象だったはずの樹希と仲良くなったのだ。
信じられない裏切りだった。
グループの他の仲間は、杏里紗の変化を受け入れて、樹希に対する態度を一変させ、次第に仲良くなっていった。
しかし、自分だけは行けなかった。
樹希の目を見るのが怖かった。
自分の居場所を樹希に取られたようで悔しかった。
今日も、杏里紗は樹希と夢中で話していた。
久しぶりに会った自分のことなど意識の端にしか置いてなかった。
きっと、普段は自分のことなど思い出しもしないのだろう。
だけど沙也はいつも毎日杏里紗を見ていた。
登校するときも、下校するときも、休み時間中も、毎日杏里紗を思って遠くから見ていたのに、一緒にいるのは樹希だった。
――樹希が憎い、憎い、憎い、憎い。
沙也は胸の中に積りに積もった憎しみをいつも川に向ける。
流れてゆく川の水と一緒に流さないと、心が破けてしまうからだ。
しかし、今日は流れていかなかった。
川に何かがいた。何かが自分の怨嗟の声を受け止め吸収している。
沙也は川を凝視した。
いつもは浅い川なのに、昨日の雨のせいか水量が増しているように見えた。
集中して見ると、身体から心が離れて川に吸い込まれて行くように感じた。
一か所だけ流れが止まり、波紋が広がってやがて渦になった。
その渦を沙也は熱心に見続けた。
――恨みと憎しみを放つ者よ。
渦の中心から声がした。
「誰?」
だが、そこには誰もいない。
――憎悪を川に放つな。川の生き物が弱っていく。
また、声がした。
沙也は川が話しかけているような錯覚をした。
「じゃあ、どうすればいいの? 私はこのままでは壊れてしまう」
沙也は誰もいない川に向かって叫んだ。
――憎しみは人にぶつけろ。呪って呪い殺すのだ。
「呪い殺すって、何をすればいいの」
普通だったら、気味が悪くて逃げだすところだが、まったく怖くなかった。
沙也は川から聞こえる声とシンクロし、憎しみの波動が大きく波打ち、血がたぎり目が吊り上がった。
――我の力をお前に授けよう。
「あっ、あああ」
沙也の目の前に大蛇が現れ、舌をちろちろと出しながら酷薄の瞳で見下ろしている。
その気味が悪い姿を、沙也は美しいと思った。
あの鱗に触れたい、一つに成りたいと思ったとき、大蛇は大きく口を開けて沙也を飲み込み、沙也の意識が途絶えた。
「はっ」
気が付くと川の前に立っていた。
川はいつものように、さらさらと静かに水が流れている。
――夢だったの?
いや、夢じゃないと沙也は思った。
身体の中に強い力が宿った感覚がある。
――我が名はオロチ、豊穣と誕生を司る大地の神だ。
今度は沙也の身体の中から声がした。
「オロチ、私の身体の中にいるの?」
――お前の中にいるのではない。お前と私は一体なのだ。
「私に何をさせる気?」
――お前はこれからこの大地の王となる。
「大地の王?」
――人を呪い従わせ、自然の前にひれ伏させるのがお前の役目だ。
「よく分からないけど、いいわ。あなたと一つになっていると、私の憎しみが心地よく感じられる」
――そうだ、憎しみで人の世を滅ぼし、新しい人の世を作れ、お前は現代の女媧 となるのだ。
沙也はゆっくりと歩き始めた。歩道ですれ違った子供が沙也を見て酷く怯えた。
そのとき沙也の目は蛇の目と成り、口から二つに割れた細い舌がチョロチョロと出ていたのだ。
沙也はここ何ヶ月か感じたことのない高揚感に包まれて、何かを破壊したい欲求で身体が疼いた。
ちょうどそのとき、目の前に見知った男が現れた。
「おい、進藤」
沙也が呼び止めると、進藤は何だお前かという顔をして、黙って通り過ぎようとした。
杏里紗の取り巻きの一人で、自分にもへつらっていたのに、いち早く樹希にこびへつらった男、普段はいきがっているのに、転校生にあっさりやられた、とんだ見掛け倒しが、自分を無視して行こうとしている。
沙也の心に怒りが渦巻いた。
次の瞬間、進藤の身体のいくつかの部分の皮膚が破れ、そこから体内の水が膨張して噴き出した。後には干からびたミイラのような進藤の身体だけが残っていた。
それを見下ろす沙也の顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
じっと川面を見てるだけで、沙也の心に巣くった寂しさや虚しさなどの負の感情が減っていくように感じた。ただ、消極的な負の感情が減るのと反比例して、憎しみという積極的な負の感情は逆に増していく。
――自分は悪くない。悪いのは全てあの女だ。
学校で生じる辛い記憶が、毎日川を見ながら呪いの言葉となって蓄積された。
今日は特に辛い思いをした。
中学のときあんなに仲が良かった及川杏里紗と、高校になってクラスが分かれて話すことも滅多に無くなった。
昨夜中学のときに杏里紗から借りた本を見つけた。久しぶりに話ができると思い、勇んで杏里紗のクラスに行った。
杏里紗にとても面白かったありがとうとお礼を言って返そうとすると、気に入ったのならあげるとあっさり言われた。
それは同じクラスの友達と話しながらの、素っ気ない返事だった。
聞かれたときにと用意していた具体的な感想や、今日お茶しに行こうと誘う言葉は、その杏里紗の態度で全て頭の中から飛んで行った。
杏里紗が新しい友達と仲良くなるのはかまわない。
自分もその友達と仲良く成ればいいだけだ。
中学のときも杏里紗はそうやって、自分の支配するグループを拡げて行った。
だが、今度は違う。
杏里紗が親しくしているのは、中学時代にいじめのターゲットにしていた、あの緒川樹希なのだ。
沙也は杏里紗に命じられるままに、樹希へのいじめの実行犯を担っていた。
犬の糞も探して拾ってきた。
トイレの上から水をかけようとした。
げた箱から靴を盗んで捨てた。
それでも樹希はへこたれず、いつも愚かなと言わんばかりに、自分たちを見下していた。
その態度に頭にきて、杏里紗と樹希の悪口を言い合い、別のいじめを計画した。
それは楽しかった。
いじめそのものよりも、杏里紗との感情の一体感が嬉しかったのだ。
ある日を境にその関係が一変した。
杏里紗がこともあろうに、憎悪の対象だったはずの樹希と仲良くなったのだ。
信じられない裏切りだった。
グループの他の仲間は、杏里紗の変化を受け入れて、樹希に対する態度を一変させ、次第に仲良くなっていった。
しかし、自分だけは行けなかった。
樹希の目を見るのが怖かった。
自分の居場所を樹希に取られたようで悔しかった。
今日も、杏里紗は樹希と夢中で話していた。
久しぶりに会った自分のことなど意識の端にしか置いてなかった。
きっと、普段は自分のことなど思い出しもしないのだろう。
だけど沙也はいつも毎日杏里紗を見ていた。
登校するときも、下校するときも、休み時間中も、毎日杏里紗を思って遠くから見ていたのに、一緒にいるのは樹希だった。
――樹希が憎い、憎い、憎い、憎い。
沙也は胸の中に積りに積もった憎しみをいつも川に向ける。
流れてゆく川の水と一緒に流さないと、心が破けてしまうからだ。
しかし、今日は流れていかなかった。
川に何かがいた。何かが自分の怨嗟の声を受け止め吸収している。
沙也は川を凝視した。
いつもは浅い川なのに、昨日の雨のせいか水量が増しているように見えた。
集中して見ると、身体から心が離れて川に吸い込まれて行くように感じた。
一か所だけ流れが止まり、波紋が広がってやがて渦になった。
その渦を沙也は熱心に見続けた。
――恨みと憎しみを放つ者よ。
渦の中心から声がした。
「誰?」
だが、そこには誰もいない。
――憎悪を川に放つな。川の生き物が弱っていく。
また、声がした。
沙也は川が話しかけているような錯覚をした。
「じゃあ、どうすればいいの? 私はこのままでは壊れてしまう」
沙也は誰もいない川に向かって叫んだ。
――憎しみは人にぶつけろ。呪って呪い殺すのだ。
「呪い殺すって、何をすればいいの」
普通だったら、気味が悪くて逃げだすところだが、まったく怖くなかった。
沙也は川から聞こえる声とシンクロし、憎しみの波動が大きく波打ち、血がたぎり目が吊り上がった。
――我の力をお前に授けよう。
「あっ、あああ」
沙也の目の前に大蛇が現れ、舌をちろちろと出しながら酷薄の瞳で見下ろしている。
その気味が悪い姿を、沙也は美しいと思った。
あの鱗に触れたい、一つに成りたいと思ったとき、大蛇は大きく口を開けて沙也を飲み込み、沙也の意識が途絶えた。
「はっ」
気が付くと川の前に立っていた。
川はいつものように、さらさらと静かに水が流れている。
――夢だったの?
いや、夢じゃないと沙也は思った。
身体の中に強い力が宿った感覚がある。
――我が名はオロチ、豊穣と誕生を司る大地の神だ。
今度は沙也の身体の中から声がした。
「オロチ、私の身体の中にいるの?」
――お前の中にいるのではない。お前と私は一体なのだ。
「私に何をさせる気?」
――お前はこれからこの大地の王となる。
「大地の王?」
――人を呪い従わせ、自然の前にひれ伏させるのがお前の役目だ。
「よく分からないけど、いいわ。あなたと一つになっていると、私の憎しみが心地よく感じられる」
――そうだ、憎しみで人の世を滅ぼし、新しい人の世を作れ、お前は現代の
沙也はゆっくりと歩き始めた。歩道ですれ違った子供が沙也を見て酷く怯えた。
そのとき沙也の目は蛇の目と成り、口から二つに割れた細い舌がチョロチョロと出ていたのだ。
沙也はここ何ヶ月か感じたことのない高揚感に包まれて、何かを破壊したい欲求で身体が疼いた。
ちょうどそのとき、目の前に見知った男が現れた。
「おい、進藤」
沙也が呼び止めると、進藤は何だお前かという顔をして、黙って通り過ぎようとした。
杏里紗の取り巻きの一人で、自分にもへつらっていたのに、いち早く樹希にこびへつらった男、普段はいきがっているのに、転校生にあっさりやられた、とんだ見掛け倒しが、自分を無視して行こうとしている。
沙也の心に怒りが渦巻いた。
次の瞬間、進藤の身体のいくつかの部分の皮膚が破れ、そこから体内の水が膨張して噴き出した。後には干からびたミイラのような進藤の身体だけが残っていた。
それを見下ろす沙也の顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。