第60話 オロチの嘆き

文字数 3,123文字

 明良は零士と新しく開けた道を、ひたすら進んだ。
 周囲の景色は変わっていき、井の頭公園の面影は完全に消えた。

「オロチの結界内は異次元だな。完全に元の世界と分離してる」
 確かに明良や零士が張る結界は、元の世界の中にあって、ただ人々の思念をそこから弾くだけの空間だ。
 それに比べてここは元の世界とは明らかに違う。異次元という言葉がよく表わしていた。

「もしかして神の国ですかね」
「どうだろうな。神という存在自体がよく分からんからな。力は守護獣に似てるけど、守護獣は現実に俺たちの世界に存在する生物だからな」
「神は生物じゃないみたいですよね」
 そう、強い意識が実体のように見せてるが、実際には存在してない。

「宗教や哲学は専門じゃないから、今一神は信じてなかったが、こういうの見せられるといるんだなぁと思わざるをえんな」
 零士は歩きながら頭を掻いている。
 確かに現実家の零士にとって、この体験はコペルニクス的転換なのだろう。

「あの一つ訊いてもいいですか?」
「何だよ」
「どうして零士さんは、僕たちのために命をかけてくれるんですか?」
 明良にとってごく自然な疑問だった。
 零士が目的のために毎朝新聞の馬島を囮にしたことが今でも頭に残っている。
 そのときは冷酷にミッションを遂行した。
 馬島が雅によって死に至っても、顔色一つ変えなかった。

「何でだろうな。もちろん杏里紗を救ってもらったというのもあるけど、それだけじゃないよな。うまく言えないけど、期待感みたいなものは大きいかな」
「期待感ですか?」
「そうだ。それに俺は明良や智成が大好きだしな」
――大好き?
 もしかして、零士さんはそっちの気もあるのか……
 明良は急に自分たちが全裸で歩いていることを思い出した。

「おいおい、そっちは専門外だ。誤解するな」
 明良の動きがぎこちなくなったので、慌てて零士が否定した。
「すいません。でも不思議ですね。僕たちから見れば、零士さんたちの方がよっぽど優れているような気がしますが」
 コーマ、零士、正臣、顕恵、誰もが強力な力を持ち、豊富な見識や社会を動かす実行力に富んだ立派な人間だ。

「うーん、そうだなぁ、俺たちよりも明良たちの方が、明るくて優しさがあるように感じるんだ」
「そうですか」
「ああ、分かった。例えばだ、明良と智成は樹希と礼美にペースを握られてるだろう。雷に至っては言わずもがなだ。儀翔殿もあれで美晴殿に結構弱い。それは俺たちの世代のような見せかけのものではなく、本当に女性が強いんだな。そして明良たちはそれを自然に受け入れてる」
 言われてみれば、何となく納得できる。智成なんかあんなに強い礼美に、恋人として自然に接している。

「だから期待してしまう。明良たちが世の中を作り替えてくれる予感がするんだ」
 何となく零士の期待感が理解できる気がした。
「今回も命を賭けるが、落とす気はしないんだ。明良と樹希を信じてるからな」
「ありがとうございます」

 話しながら歩いていると、二本の大きな木が見えてきた。
 その間に寝台が置いてある。
「樹希!」
 寝台の上には樹希が眠っていた。

「招かれざる者よ、お前たちはここには不要な者だ。すぐに立ち去れ」
 ずっしりと重い声がした。
「オロチ殿か! 我々は話がしたくてここに来た」
 零士が負けずに大音声で話し合いを申し出た。

「お前たちと話すことはない」
「オロチ殿になくてもこっちにはある。話だけでも聞いてもらえないか」
「私は人間に絶望した。その言には(まこと)がない」

「それは佐倉耕三郎の絶望に由来しているのか?」
「お前たちは耕三郎を知っているのか」
「話は聞いた」
「あれは可愛そうな男だった。生まれたときから、我に仕えることを教え込まれ、その教えに忠実に生きた。心は白い紙のようにきれいな男だった。私は大地が汚され、自然が失われる苦痛に耐えきれなくなっても、耕三郎の美しい心に癒され、この男がいる限りと耐えることができた。その希望を人間は自身の手によって打ち砕いたのだ。それも大人ではない。無垢と言われる子供の手によって」

 オロチの人への見限りは、やはり佐倉耕三郎が原因だった。
 ただ、予想していた下部を失ったことに対する怒りではなかった。
 オロチは佐倉耕三郎に、僅かに残された人間への希望を見出していた。それを慰めとして、東京にはこびる悪思念に耐えていたのだ。
 その希望が人間自身の手によって壊されてしまった。しかも壊した人間は大人ではなく、明日を担う子供たちだ。オロチ自身が無垢と信じていた存在だ。

 とすれば、事態の収拾は思ったよりもずっと難しい。
 単に下部を復活し奉納の機能を提供するだけでは、オロチは納得しないだろう。
 オロチが奉納を通して触れ合うことによって、人間に対する希望を託せるような者でなければならない。
 明良はその眼鏡に自分が見合うのか自身がなかった。

「オロチ殿、あなたの絶望は理解できる。私も今迄多くの人間を見て、絶望を感じてきた者だ。人間の性は悪だと信じていたときもあった。だが、私の隣にいる者は違う。人に優しく、気持ちが正しい者だ。きっとオロチ殿に人間への信頼と復活させ、希望を与えてくれるはずだ」
 オロチの声が途絶えた。
 空間内に絶対的な静寂と暗闇が訪れた。
 明良は自分の心臓や呼吸の音が聞こえる気がした。
 もちろん零士の姿は見えないし、なぜか気配もしなかった。

 四半時か、いや数刻経ったかもしれない。
 絶対的な静寂と暗闇の中では時間の概念は消え去る。
 突然光と音が復活した。

「お前たちの強さは分かった。その若者の誠も伝わった。だがそれだけでは、人間が生まれついてから持つ破壊の(ごう)は覆せん。私に希望は生まれない。さあ、帰れ、帰ってこの地に住む傲慢な人間の滅びを、その目で確かめろ」

 やはり自分ではオロチの絶望を覆すことはできないのだと、明良は思った。

「オロチ殿、あなたが信じられぬ原因は、明良の持つ優しさだろう。優しい故に破壊の業に思い悩んだ佐倉耕三郎をダブらせるのだろう。だが聞いてくれ、明良はそこに眠る樹希と二人でいることにより、優しさが招く絶望に打ち勝つことができるのだ。それをあなたに見せたい。私が樹希の身代わりになる。樹希を開放してくれ」

 零士が命を賭けて大勝負に出た。
 身代わりになった後は、もう零士には何もできない。
 今のように交渉することさえ、できなくなる。
 全てを明良と樹希に託すことになるのだ。

 明良は思わず零士を見た。予期して来たことではあるが、この場で本当に不甲斐ない自分に託してもいいのかと、問いかける視線だった。
 零士は明良に笑顔で頷いた。その笑顔には、明良と樹希に対する溢れんばかりの信頼が込められていた。

「いいだろう。お前の命を賭けた願いを聞いてやろう。今から現れる聖杯の水を飲み干すのだ」
 オロチの言葉の後に、宙に浮いた聖杯が現れた。
 零士はそれを手に取り、明良を見る。
「明良、頼んだぞ」
 零士は聖杯の中の水を、喉に流し込み始めた。
 零士の喉がドクドクと音を立てて躍動する。

 飲み終わった零士の手から、聖杯は消えていた。
 零士は一歩、二歩と樹希の傍に近づいていく。
 樹希を見下ろす位置に来たとき、樹希の目が開いた。

「零士さん」
 樹希は起き上がって、零士の名を呼ぶ。
 零士はそれには反応せず、樹希を寝台から追いやり、自分が寝台に横たわった。

「明良」
 樹希は前方に立ち尽くす明良に気づき、その名を叫ぶ。
 やっと零士と明良が全裸であることに気づき、顔を赤らめた。

「さあ、破壊の業に立ち向かえる強さを、我に見せるがいい」
 オロチが二人に催促した。僅かながらオロチの期待を窺える。
 明良は樹希と向き合った。
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