第67話 裏切り

文字数 3,727文字

 上杉家の広大な敷地の中で、門に一番近い場所には体育館が建っている。その隣が温水プールで、プールの後ろは図書館だ。図書館は三階建てになっていて、二階の奥は大小様々な広さの会議室が十室設置されていた。図書館の隣は武道場となっていて、一階は剣道場、二階は柔道や空手用の道場、三階は鏡を張ったストレッチゾーンや、ウェイトトレーニング用器具とサンドバッグなどが設置されたアスレティック、そして四階に上杉流柔術の道場がある。

 他の施設と違って武道場だけは、身元を証明して登録すると誰でも利用できる。武道の振興に熱心な上杉家らしい配慮だ。
 武道場の奥の庭木で覆われた場所は、上杉家の屋敷と成っている。
 特に塀などで囲ってないところは、上杉家の豪胆さをよく表わしていた。

 雷は、父弥太郎が執事をしている関係から、幼いときからこの上杉家の屋敷で育った。
 こんな環境で育ったせいか、武道場に顔を出してトレーニングすることは、雷の中では日常のルーチンと成っている。父弥太郎の執事業務の手伝いも終わり、既に日は暮れかけているが、一汗流しに道場に向かうことにした。

 屋敷を出る前に、八雲も誘おうか迷ったが止めておいた。
 昨日は、八雲がドレスアップして目映いばかりに美しかった。周囲の大人たちも口々にその美しさを持て囃した。雷も周囲に合わせて、八雲の美しさを称賛した。
「北条家におられるときは、皆さまに比べておとなしめな服装が多いが、こうして着飾られると、皆さまに負けず劣らず本当に美しい。これならば余の男は皆八雲様の虜です」
 女性の容姿を褒めるなど滅多にないので、やっとの思いで口にした言葉であるが、八雲は不意に機嫌が悪く成り、昨夜はとうとう一言も口を利かぬまま眠ってしまい、今日はまだ顔を合わせていない。
 雷には何が悪かったのかさっぱり分からぬが、きっと帰るまでには機嫌も治るだろうと高を括った。

 道場に行く途中で、凌牙の姿を見た。
「凌牙さん」
 声をかけたが聞こえないのか、凌牙は歩みを止めない。
 屋敷の方向に向かっているので気に成って、凌牙の前に走り寄った。

「凌牙さん、屋敷に何か御用ですか?」
 兄弟子が屋敷に向かうなど、滅多にないことなので、場合によっては自分も戻らねばならないと思って用件を聞いた。
 凌牙は雷を見て何を思ったのかニヤリと笑った。
「実はな、昨日八雲様を見て、あまりにも美しく成られて驚いてしまった。一晩考えた末、結婚を申し込もうと思ってきた次第だ」

 雷はあんぐりと口を開けてしまった。しばらく何も言えず、ようやく出た言葉が、
「結婚ですか……」
 という間抜けなものだった。
「結婚だと言ってるではないか。俺が申し込んだらまずいのか?」
 昔ならいざ知らず、今の時代にプロポーズするのに制約はない。
「いえ、そのようなことは……」
 ないと言いかけて口籠った。
 そんな雷を見て凌牙はニヤッとする。

「それでは、道を開けてくれ。ダメもとでいいから、俺の想いを早く告げたいのだ」
 雷は彼にしては切れのない動きで道を開けた。
 凌牙は勇んで屋敷に向かう。
 ついて行こうか迷ったが、自分が凌牙ならこの場合来て欲しくない。
 ざわつく心を押し殺して、道場に向かった。

 道場に着くと、そこには何人もの門弟が来ていた。
 門弟の中には、柔道やレスリングでオリンピックに出れば、金メダルが取れそうな者も何人かいた。だが彼らはそこに価値を感じてなかった。
 強くなる。それだけが彼らの目指すところで、栄誉や報酬は必用としてなかった。
 上杉流柔術も世間の認知など必要としていない。むしろ、変に喧伝されることの方が迷惑だった。

 雷は道着に着替え、柔軟体操代わりに正拳を打ち始めた。一本一本に心をこめて、先ほど生じたざわつきを懸命に鎮めることに努めた。
 百本ほども打ったろうか、道場の外が騒がしい。
「どうした」
 周囲の者に訊いても要領を得ない。
 急いで道着のまま道場の外に出て屋敷に向かう。
 途中、血相を変えて戻って来る門弟に出会った。

「待て、何があった?」
「雷様」
 その門弟は、雷の顔を見て、安堵の表情を見せた。
「凌牙様が乱心です。八雲様を攫って行きました」
「兄弟子が、そんなまさか?」
「本当です。私は稽古をしようと思って、道場に向かいましたが、屋敷の方で物音がするのでそちらに向かったら、気絶した八雲様を抱えて凌牙様が門の方に走って行くのが見えました。その後を警護の者が追いかけて行ました。私は何事が起ったのか確かめようと、屋敷に行ったところ、何人もの警護の者が倒れていたので、慌てて応援のために門に向かうところでした」
 一瞬、プロポーズを断られて凶行に及んだ凌牙の姿が脳裏を過った。

「分かった。では俺も行こう」
 雷はその門弟と一緒に敷地の門まで走った。
 そこでは、凌牙を追ったと思われる門弟が血塗れで倒れていた。
 急いで助け起こすと、息も絶え絶えに門弟が言った。
「凌牙様が、八雲様を車に乗せて逃走しました」
 それだけ言うと、その門弟は意識を失った。
「救急車を」
 一緒に来た門弟に救急車の手配を頼む。

 雷は困惑した。あの兄弟子がこのような凶行を引き起こすとは思えなかったし、例え凌牙の精神状態がおかしかったとしても、ファカルシュ家のラウルを倒した八雲が、みすみす気絶させられて攫われるなど考えにくい。

 屋敷に戻ると、更に酷い状況に驚く。ある者はろっ骨を折られ、ある者は両腕の関節を外されていた。計六名の上杉流柔術の手練れが苦も無くひねられたことに成る。これに八雲がいたことを考えると、それ程の強さを持つ使い手は、少弐智成ぐらいしか思い浮かばなかった。

 道場にいた他の門弟も次々に集まって来た。その中には警察官もいる。
「どうしましょう。警察に連絡しましょうか」
「これだけ、けが人が出てはやむを得ない。警察に連絡してください。本格的な対処は剱山様が戻られてからでいいでしょう」
 門弟たちが手分けしてけが人を病院に送る手配をしていた。


 剱山は瞑想したまま動かなかった。
 身内と思っていた凌牙が裏切ったのだ、八雲の身も心配だが、そちらの心の痛みもかなり大きい。
「雷が会ったとき、凌牙は八雲様に結婚を申し込むと言ったのだな」
 父弥太郎が、先ほど話したことを再度確認して来た。
「そうです。男女の話しゆえに、私がついて行くのも無作法だと思い、私は道場に行きました」
「凌牙の様子に何も異変を感じなかったのか?」
「まったく感じませんでした。申し訳ございません」
 父は苛立っていた。市中から凌牙の天才を見出し、柔術の道に誘ったのは父だった。このような事件に至った責任を、感じるなと言う方が無理な話だ。
「よい。弥太郎、誰の責任でもない。わしとて、昨日会ったとき凌牙の異変など気がつかなかった」
 剱山がとりなしてくれた。娘が攫われても取り乱したりせず、誰一人責めることなく泰然としている。これが上杉家当主の懐の大きさだ。

「凌牙は実家には戻ってない様子で、おそらく新潟に逃げたと思われます。今新潟在住の門下生に、凌牙の借りてる部屋、大学の同級生、バイト先などを当たってもらっています」
 弥太郎が剱山に捜索状況を説明する。
 誰もが口には出さないが、八雲の女性としての身の危険を案じていた。
 雷自身、それを思うと気が狂いそうになる。

「明日、新潟に向かおう。弥太郎は屋敷に残り、情報整理と各方面への指示を頼む。雷、わしと一緒に行ってくれるか」
「もちろんです。剱山様」
 来るなと言われても行くつもりだった。
 雷は凌牙を許せない。
 見つけ出したら、自分の手で打ち倒すつもりだ。

「いずれにしても、凌牙の強さの秘密を調べねばなるまい。尋常な力では、この警護網を突き破れるとは思えぬ」
 この事態に際しても、剱山は冷静だった。
「監視カメラの映像を映します」
 弥太郎が部屋に据えてある大型モニターに、監視カメラの映像を繋いだ。

 八雲と凌牙が話しているところから、映像は再生された。
 凌牙が八雲の手を掴もうとしている。
 八雲がその手を払い、何か叫んでいる。
 なおも凌牙が詰め寄った直後に、白い閃光が画面内を走った。
「イカヅチだ」
 雷は思わず叫んだ。

 やはり八雲はイカヅチを放っている。凌牙の行動に今までとは違う異変を感じたのだろう。
 驚くべきことに、凌牙はイカヅチを食らっても平然としていた。
 凌牙が右手を振ると、離れていた八雲が床に崩れ落ちる。
 側に控えていた警護の門下生が凌牙を取り押さえようと掴みかかる。
 凌牙はほぼ一撃で次々と門下生を打ちのめした。
 そのまま、倒れている八雲を抱えて、ドアから出て行く。
 その直後警備事務所にアラートが発されている。メイドか警備員の誰かが、スィッチを押したのだろう。

「八雲を倒したのは遠当てだな」
「おそらく、だが信じられません。あの八雲様が遠当てで倒れるなど」
「そのぐらい今の凌牙の気は強いと言うことだ」
 剱山は事実としてそのまま認めたが、雷には信じられなかった。九家の者を倒す遠当てなど、自分が放っても無理だ。

「雷、明日は気を引き締めてかからなぬとな」
「承知しました。絶対に八雲様をこの手で奪い返します」
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