第56話 霊木の運び手

文字数 2,945文字

「その沙也という子は生きていたんですね」
 明良から全ての話を聞き終わり、コーマは沙也の安否を確認した。
「ええ、生きています。ただ、オロチに憑依されていたときの記憶は、まったくないようです」
 明良は意識が戻った沙也の様子を思い出しながら答えた。沙也の思念は戸惑いだけで、嘘をついてはいなかった。

「それならば、杏里紗がオロチに憑依されたとしても、奪還した後で命を落とす危険はなさそうですね」
 コーマの推測に零士が安堵の溜息をつく。
「じゃあ、すぐに井の頭公園に行って、杏里紗を救い出そう」
 零士は気が急く余り、今にも飛び出して行きそうだった。

「零士、落ち着いてください。あなたらしくないですよ。オロチが智成の言う土地神とすれば、おそらく井の頭公園の周りには結界を張っています。闇雲に行っても、杏里紗のところに行きつくどころか、どこにいるのかさえ分からない可能性があります」
 コーマの制止に零士が苛立った。
「じゃあ、どうすればいいんだ。この雨の中、杏里紗は裸足で外にいるんだぞ」

 零士の怒声が屋敷内に響き渡った。
 樹希は普段は酷薄にさえ見える零士が、これほど取り乱して杏里紗の心配をすることに、正直驚いていた。今の零士は九家の当主にはとても見えない。

「もう少しだけ情報を整理しましょう」
 コーマが優しい目で零士を見た。その目の奥には少しだけ不安の揺らめきが見えた。それを見て零士は、コーマも心配で不安に感じながらも、自分の思いを察して必死で冷静であろうとしていることに気づいた。
「すまん」
 零士は一言謝って、もう一度座りなおした。

「智成、八雲、各地でも土地神が暴れだしているのですね。智明殿や剱山殿はどうやって神の怒りを鎮めているのですか?」
「霊木を探して、土地神に捧げている」
「うちも同じです。飛騨立山の霊木を捧げています」
「やはり、そうですか」
 コーマは少しだけ躊躇している。

「東京には霊木と呼べる木はないな。あるとすれば……」
 智成が心配気にコーマを見た。
「そうですね。ツノの巣となっている楠しかないですね」
「ツノの止まり木を切るのですか?」
 明良が咎めるようにコーマに言った。

「枝を少々いただくだけです。ツノはきっと分かってくれると思います」
 コーマの言葉が終わらぬうちに、窓の外からカアというツノの啼き声が聴こえた。
 ツノが承諾したのだ。
 守護獣の聖なる住処を侵すことに、この場をとてつもない緊張が支配した。
「申し訳ない。俺はこの命をかけて恩返しする」
 零士が頭を下げる。
 零士は本気だ。本気で杏里紗を救うために命をかけようとしている。
 樹希はその姿に感動し、自分も杏里紗のために何かをかけねばならないと思った。

「だがコーマ、ツノの宿り木を捧げたとしても、それだけではすまぬかもしれないぞ」
 智成が一人心配そうな顔でコーマを見た。
「分かっている。東京にうごめく人々の不安や絶望は、地方とは比べ物にならない程大きいからな。しかし、霊木を捧げることによって、少なくともオロチとの対話の窓口は開かれるはずだ」
 コーマの顔色も悪い。この問題はそれほどまでに難問なのだと伝わって来る。

「それで、霊木の運び手だが」
 智成が言いかけて止めた。じっと樹希を見る。
「何?」
 樹希は視線の意味が分からなくて訊き返す。
「霊木の運び手は、神樹でかつ穢れなき乙女でなくてはならない」

「神樹で穢れなき? 穢れなき…… えー」
 樹希は顔を赤くして俯いている礼美と八雲を見て、穢れなきの意味を察した。
「二人ともそういうことなの……」
 礼美と八雲が黙って頷く。

「もうーしょうがないなぁ。分かった。私が運ぶ」
 明良が心配そうに樹希を見ている。
「樹希、大役をお願いして、申し訳ありません」
 コーマが頭を下げる。
「頭を上げてください。杏里紗は私の親友ですから、絶対に私が助けます」
 樹希は自分が役に立つことを逆に誇りに思った。

「樹希、これを持って言って、できれば杏里紗に渡してくれ」
 零士が手渡しのは、零士の思念が込められた狛犬のストラップだった。
「いいよ。絶対に渡すから」
 樹希は零士からの預かり物を、ハンカチでくるんで、ジーンズのポケットにしまった。

「樹希、公園の前で待機しているから、危険を感じたらいったん出てくるんだよ」
 つきそう明良が無茶しないように、樹希に念押しをする。
「ホントに二人でいいのか? 俺も行くぞ」
 零士がむしろ行きたそうに申し出る。
「いや、土地神を相手に力づくは無理だ。あまり大勢近づくと敵意ありと思われてしまう」
 智成が心が治まらない零士の付き添いを禁じた。
「しかし……」
「ここまで来たら、樹希を信じよう」
 不満そうな零士をコーマが宥めた。

 セバスチャンが、ツノの楠木から腕程もある立派な枝を切って、屋敷に運び込んできた。
 白い布で丁寧に雨水を拭い、コーマが東京の安寧を願う思念をその枝に込めた。
 霊木と成った枝を、コーマからセバスチャンが再び受け取り、乾いた白い布でくるみ、しめ縄で止めた。
 しめ縄に対し今度は零士が思念を送ると、しめ縄は布と密着し布は霊木に隙間なく張り付いた。もうちょっとやそっとでは、布は霊木から離れそうもない。

「樹希、オロチに会えたら、君が離れろと念じるだけで、しめ縄がほどけ布が剥がれるはずだ」
 コーマの説明に、樹希は神妙な顔で「はい」と答える。

「すごい霊木だな。力が漏れぬように封印しただけで、俺の力は半分ぐらい無くなったぞ」
 零士が力が尽きたような表情で床に座り込んだ。
「ツノの住処だった楠だ。枝といえどもその力は計り知れない」
「こんな力を持った霊木でも、杏里紗を救えないかもしれないのか?」
 零士は信じられないと言った顔つきで、コーマに尋ねた。

「東京は人が多すぎる。多くの悲しみや怒り、嫌悪と憎悪が自然を疲弊させている。いったん動き出した土地神の怒りを鎮めるには、十分とは言えないだろう」
 コーマの顔つきは依然として厳しい。

「じゃあ、明良出発しよう。行かないことには何も始まらないじゃない」
 樹希は開き直って、さっぱりとした顔をしている。
「君って人は」
 心配そうな明良もその顔を見て、不安を振り払った。

「樹希、私は何度か霊木の運び手として、土地神の下に赴いた。代々の運び手から伝え聞いた注意の中に、土地神が進める水は絶対に飲んではならぬとあった。飲むとどうなるかは分からぬが、何があってもこのことは忘れないでくれ」
 八雲がすまなそうに樹希に注意すべきことを教えた。
「分かった、八雲。気にしないで。私は杏里紗の役に立てるのが嬉しいから」

「樹希ちょっと待って」
 礼美が首からペンダントを外して、樹希の傍に歩み寄る。
「これは少弐の家が、婚約の証として私にくれたものだけど、妖狐の力が込められている。これがいざというとき、お前を守ってくれるはずだ」
 礼美が差し出したペンダントには、九尾の紋様が彫られた玉が付けられていた。

「こんな大事なもの借りれられないよ」
「いいんだ。お前と杏里紗が無事に戻ることこそ、一番に優先することだ」
 そう言って、礼美はペンダントを樹希の首にかけた。

「じゃあみんな、絶対杏里紗を取り戻してくるから」
 樹希は明良と一緒に、元気に雨の降る庭に出て行った。
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