第59話 土地神の下部
文字数 3,261文字
「これは紀伊の山神から聞いた話です」
儀翔が語り始めた。その声音は自信に満ちて、首都の危機を救う気概に溢れていた。
「東京の大地の神は、この地の生命線とも言える川を司ります。過去、東京の河川は酷い公害により生物は死に絶え、生命力がゼロとなった時代がありました。当時は経済成長も著しい時期でしたが、同時に裁きに合わない経済犯罪も増加し、都民の心に悪意が育った時期とも言えます」
確かに今でこそ公害対策が充実し、川自体は水が綺麗に成り、魚も戻っている。そんな時代に人々の悪意が高まれば、土地神の怒りも今を上回るものだったろう。
明良でさえ、街を歩けば人々の悪思念が干渉してきて、消せない怒りが育ちそうになる経験を何度もした。
「そんな土地神の怒りを抑えたのは、素目羅義の封印だけではありません」
「今、素目羅義の封印が効かないのと、同じ状態というわけですね」
明良は状況を比較し始めた。
「当時は、人々の悪思念に環境破壊が加わり、素目羅義の封印は効かなかった。だが実際には土地神の怒りは放たれてない。ところが今回は人々の悪思念こそ増大しているが、川は生き返り、環境破壊にも厳しい監視が行き届いている。しかし土地神の怒りは都民の頭上に降りてしまった。この違いは何ですか」
「当時、土地神の怒りを抑えていたのは、土地神の下部 と呼ばれている家でした」
「土地神の下部?」
明良にとって初めて聞く言葉だった。
「土地神の下部とは、江戸時代に日本の首都として、大きな発展を遂げたこの地において、作物の豊穣と災害の回避を願って、土地神に仕えた家のことです。家の名前を佐倉家と言います」
「佐倉家? すいません、知りませんでした」
「佐倉家はこの辺りではそれなりに大きな農地を持った豪農でしたが、戦後GHQの農地改革で土地を失い、没落してしまいました。だから明良君が知らなくても無理はありません」
儀翔は慰めてくれたが、少弐や上杉のように、北条や里見が土地神対策をしてこなかった理由が、分かった気がした。別にその役割を負った者がいたのだ。
「今回は、佐倉家が役目を怠ったことが原因ですか?」
オロチが暴れだす理由があるとすれば、それしか考えられない。
「いいえ、佐倉家が怠ったわけではありません。家が絶えてしまったのです」
「家が絶えたって、後継ぎがいなくなってしまったのですか?」
「事実上そうなります。それもかなり悲しい事件です」
儀翔の話では、佐倉家は土地神との契約で、代々土地神の結界内に入る能力を有し、献納を行う家だった。江戸時代にはその能力により、近隣の百姓家から信頼され、慕われた家だったらしい。
ところが東京西部が、農地よりも宅地としての需要が増し、豊穣を守護する佐倉家の威信も落ちてしまい、佐倉家自身も農地改革で自ら耕す土地を大幅に失い、ただ家の教えを守り、土地神への献納を行うだけの存在となってしまった。
それでも土地神の下部として、先祖への義務感から献納だけは欠かさず行っていた。
そんな佐倉家に転機が訪れる。
第二一代佐倉家当主耕三郎の一人息子岳人 が、小学五年生のときに同級生からの執拗ないじめにより自殺してしまった。
岳人を失った耕三郎は、世の無常を呪い、悪思念にその身を覆ってしまったため、代々続いた土地神の結界に入る能力を失った。
それは三年前のことだったが、それ以来、土地神への献納は滞ってしまっている。
今年に成って、素目羅義の封印が解けたことを契機に、土地神の化身であるオロチが現れ、人間に対する怒りを示したということだった。
「もう耕三郎という人が、土地神の下部と成ることはできないのですか?」
「一度失われた能力が元に戻ることはありません。また耕三郎自身にもその気はないでしょう」
「では儀翔殿はどうなさるおつもりですか?」
「新たに土地神の下部を立てるしかないと思っています」
「誰がその役割を負うのですか?」
明良が問うと、皆の視線が儀翔に集まった。
零士はベッドに眠る杏里紗の顔を見ていた。
この誰にも代えがたい掌中の珠がオロチに奪われ、樹希がわが身と引き換えに取り戻してくれた。樹希には感謝しても、し足りない思いがある。
九家会議のときには、杏里紗さえ無事であれば、自分の冷凍保存した精子によって、里見家の血統が絶えることはない。それならば、自分はいつでも死地に赴けると信じていた。
だが土地神のような圧倒的な力の前に、それが現実味を帯びてくると、こんなにも、せつなく、辛い感情で苦しむとは思いもよらなかった、
儀翔は、新たな土地神の下部には明良がなるべきだと言った。だが、下部となる資格を得るには、明良がしっかりとしたパートナーを持ち、その者と純粋な愛で結ばれ、代々下部の役割を果たすことを証明しなければならない。
だが樹希は今オロチに囚われている。樹希を開放するために、樹希よりも攻撃的な思念の高い者が、オロチが審査する間、身代わりにならなければならないと言われた。
そうなると、ここにいる五人のうち誰かということになる。
零士は自ら志願した。杏里紗を救ってもらった恩を返すためにも、この役目を果たす者は自分でなければならない。儀翔の話では、明良が下部として認められなければ、明良と樹希の命はその場で失う。そして零士は生贄として、生命力全てを雨を降らすことに使われると言うことだった。
樹希のために命を捨てることは何も惜しくない。ただ、こうして杏里紗を見ていると、一人にして悲しませることが、身体を切り刻まれるよりも辛かった。
「零士殿、もうそろそろ行かないと、東京の河川はもたない」
儀翔が呼びに来た。
「分かった。時間を取らせてすまなかった」
儀翔は無言で首を振った。
明良は既に出かける用意は済んでいた。
コーマはツノのために祈祷中なので、別れの挨拶はできない。
綾香には事の仔細を話して、別れを告げたらしい。
昂亜はひたすら眠っていたと言うことだった。
智成や八雲たち四人は、明良が新しい下部として土地神の怒りを鎮めた後で、儀翔が土地神を封印する手助けをするために、ここに残る。五人の力を合わせないと封印は難しいということだった。
「では行くか」
「零士さん、もう杏里紗とのお別れは十分ですか?」
「ふっ、正直顔を見ていれば踏ん切りなどつくはずもない。儀翔殿の言葉で心を奮い立たせて、やっと出てくることができた」
「辛いですね」
「樹希のためだ。構わんよ」
「では、参りましょう」
二人は北条屋敷を出た。
明良にとってもツノの見送りなしに、ここを出て行くのは初めてだった。
いつもはどんな困難に向かう時でも、ツノのおかげで勇気が湧いた。
改めてツノの存在の大きさを知った。
二人は零士の車に乗り込んだ。
運転手に井の頭公園までと告げる。
雨は凄まじい勢いで車のフロントガラスの視界を奪った。
ワイパーをハイスピードで回しているのに、薄っすらとしか視界が取れない。
「凄まじいですね」
「樹希の力がなまじ強まっていたからな。強くなると言うのも、いいことばかりではないな」
特に神のような絶対的な力の前で、人間の力の脆弱さを思い知った。
和解でしか解決できない相手がいることを、明良は身に染みて感じた。
車が井の頭公園駅に着いて二人は降りた。
もう傘など何の役にも立たない。
ずぶぬれに成りながら、妖狐の札の微かな呪力をたどって前に進んだ。
前に進むにつれて、妖狐の呪力は徐々に強まってゆく。
狛江橋の辺りで、呪力はピークに達した。
「この辺りですね」
「そうだな」
儀翔の話では、霊木なしにオロチの結界内に入るためには、生まれたままの姿になる必要があるということだった。
二人は自ら結界を張って自分たちの姿を他の者の目から隠し、すっかり水を含んだ服を脱ぎ、全裸になった。
妖狐の呪力に、自分たちの思念をシンクロさせると、新たな道が開けた。
再び前進を始める。
目指すは樹希のいる寝台だ。
いよいよ近づく正念場の交渉に、二人は再び気力を高めた。
儀翔が語り始めた。その声音は自信に満ちて、首都の危機を救う気概に溢れていた。
「東京の大地の神は、この地の生命線とも言える川を司ります。過去、東京の河川は酷い公害により生物は死に絶え、生命力がゼロとなった時代がありました。当時は経済成長も著しい時期でしたが、同時に裁きに合わない経済犯罪も増加し、都民の心に悪意が育った時期とも言えます」
確かに今でこそ公害対策が充実し、川自体は水が綺麗に成り、魚も戻っている。そんな時代に人々の悪意が高まれば、土地神の怒りも今を上回るものだったろう。
明良でさえ、街を歩けば人々の悪思念が干渉してきて、消せない怒りが育ちそうになる経験を何度もした。
「そんな土地神の怒りを抑えたのは、素目羅義の封印だけではありません」
「今、素目羅義の封印が効かないのと、同じ状態というわけですね」
明良は状況を比較し始めた。
「当時は、人々の悪思念に環境破壊が加わり、素目羅義の封印は効かなかった。だが実際には土地神の怒りは放たれてない。ところが今回は人々の悪思念こそ増大しているが、川は生き返り、環境破壊にも厳しい監視が行き届いている。しかし土地神の怒りは都民の頭上に降りてしまった。この違いは何ですか」
「当時、土地神の怒りを抑えていたのは、土地神の
「土地神の下部?」
明良にとって初めて聞く言葉だった。
「土地神の下部とは、江戸時代に日本の首都として、大きな発展を遂げたこの地において、作物の豊穣と災害の回避を願って、土地神に仕えた家のことです。家の名前を佐倉家と言います」
「佐倉家? すいません、知りませんでした」
「佐倉家はこの辺りではそれなりに大きな農地を持った豪農でしたが、戦後GHQの農地改革で土地を失い、没落してしまいました。だから明良君が知らなくても無理はありません」
儀翔は慰めてくれたが、少弐や上杉のように、北条や里見が土地神対策をしてこなかった理由が、分かった気がした。別にその役割を負った者がいたのだ。
「今回は、佐倉家が役目を怠ったことが原因ですか?」
オロチが暴れだす理由があるとすれば、それしか考えられない。
「いいえ、佐倉家が怠ったわけではありません。家が絶えてしまったのです」
「家が絶えたって、後継ぎがいなくなってしまったのですか?」
「事実上そうなります。それもかなり悲しい事件です」
儀翔の話では、佐倉家は土地神との契約で、代々土地神の結界内に入る能力を有し、献納を行う家だった。江戸時代にはその能力により、近隣の百姓家から信頼され、慕われた家だったらしい。
ところが東京西部が、農地よりも宅地としての需要が増し、豊穣を守護する佐倉家の威信も落ちてしまい、佐倉家自身も農地改革で自ら耕す土地を大幅に失い、ただ家の教えを守り、土地神への献納を行うだけの存在となってしまった。
それでも土地神の下部として、先祖への義務感から献納だけは欠かさず行っていた。
そんな佐倉家に転機が訪れる。
第二一代佐倉家当主耕三郎の一人息子
岳人を失った耕三郎は、世の無常を呪い、悪思念にその身を覆ってしまったため、代々続いた土地神の結界に入る能力を失った。
それは三年前のことだったが、それ以来、土地神への献納は滞ってしまっている。
今年に成って、素目羅義の封印が解けたことを契機に、土地神の化身であるオロチが現れ、人間に対する怒りを示したということだった。
「もう耕三郎という人が、土地神の下部と成ることはできないのですか?」
「一度失われた能力が元に戻ることはありません。また耕三郎自身にもその気はないでしょう」
「では儀翔殿はどうなさるおつもりですか?」
「新たに土地神の下部を立てるしかないと思っています」
「誰がその役割を負うのですか?」
明良が問うと、皆の視線が儀翔に集まった。
零士はベッドに眠る杏里紗の顔を見ていた。
この誰にも代えがたい掌中の珠がオロチに奪われ、樹希がわが身と引き換えに取り戻してくれた。樹希には感謝しても、し足りない思いがある。
九家会議のときには、杏里紗さえ無事であれば、自分の冷凍保存した精子によって、里見家の血統が絶えることはない。それならば、自分はいつでも死地に赴けると信じていた。
だが土地神のような圧倒的な力の前に、それが現実味を帯びてくると、こんなにも、せつなく、辛い感情で苦しむとは思いもよらなかった、
儀翔は、新たな土地神の下部には明良がなるべきだと言った。だが、下部となる資格を得るには、明良がしっかりとしたパートナーを持ち、その者と純粋な愛で結ばれ、代々下部の役割を果たすことを証明しなければならない。
だが樹希は今オロチに囚われている。樹希を開放するために、樹希よりも攻撃的な思念の高い者が、オロチが審査する間、身代わりにならなければならないと言われた。
そうなると、ここにいる五人のうち誰かということになる。
零士は自ら志願した。杏里紗を救ってもらった恩を返すためにも、この役目を果たす者は自分でなければならない。儀翔の話では、明良が下部として認められなければ、明良と樹希の命はその場で失う。そして零士は生贄として、生命力全てを雨を降らすことに使われると言うことだった。
樹希のために命を捨てることは何も惜しくない。ただ、こうして杏里紗を見ていると、一人にして悲しませることが、身体を切り刻まれるよりも辛かった。
「零士殿、もうそろそろ行かないと、東京の河川はもたない」
儀翔が呼びに来た。
「分かった。時間を取らせてすまなかった」
儀翔は無言で首を振った。
明良は既に出かける用意は済んでいた。
コーマはツノのために祈祷中なので、別れの挨拶はできない。
綾香には事の仔細を話して、別れを告げたらしい。
昂亜はひたすら眠っていたと言うことだった。
智成や八雲たち四人は、明良が新しい下部として土地神の怒りを鎮めた後で、儀翔が土地神を封印する手助けをするために、ここに残る。五人の力を合わせないと封印は難しいということだった。
「では行くか」
「零士さん、もう杏里紗とのお別れは十分ですか?」
「ふっ、正直顔を見ていれば踏ん切りなどつくはずもない。儀翔殿の言葉で心を奮い立たせて、やっと出てくることができた」
「辛いですね」
「樹希のためだ。構わんよ」
「では、参りましょう」
二人は北条屋敷を出た。
明良にとってもツノの見送りなしに、ここを出て行くのは初めてだった。
いつもはどんな困難に向かう時でも、ツノのおかげで勇気が湧いた。
改めてツノの存在の大きさを知った。
二人は零士の車に乗り込んだ。
運転手に井の頭公園までと告げる。
雨は凄まじい勢いで車のフロントガラスの視界を奪った。
ワイパーをハイスピードで回しているのに、薄っすらとしか視界が取れない。
「凄まじいですね」
「樹希の力がなまじ強まっていたからな。強くなると言うのも、いいことばかりではないな」
特に神のような絶対的な力の前で、人間の力の脆弱さを思い知った。
和解でしか解決できない相手がいることを、明良は身に染みて感じた。
車が井の頭公園駅に着いて二人は降りた。
もう傘など何の役にも立たない。
ずぶぬれに成りながら、妖狐の札の微かな呪力をたどって前に進んだ。
前に進むにつれて、妖狐の呪力は徐々に強まってゆく。
狛江橋の辺りで、呪力はピークに達した。
「この辺りですね」
「そうだな」
儀翔の話では、霊木なしにオロチの結界内に入るためには、生まれたままの姿になる必要があるということだった。
二人は自ら結界を張って自分たちの姿を他の者の目から隠し、すっかり水を含んだ服を脱ぎ、全裸になった。
妖狐の呪力に、自分たちの思念をシンクロさせると、新たな道が開けた。
再び前進を始める。
目指すは樹希のいる寝台だ。
いよいよ近づく正念場の交渉に、二人は再び気力を高めた。