第63話 北から来た男

文字数 3,756文字

 男はにこやかな笑顔の裏に、冷酷な顔を隠し持っていた。
 人の意識を感じ取れる康子には、男を見ただけでそれが分かった。

「何の用だ。盗る物などないぞ」
 康子は男を強盗の類と思った。それが通じたのか、男は笑顔をさらに崩して満足そうに頷いた。
「さすがだな、余康子。だが私は強盗ではない」
「では何の用で来た」
「お前は鬼の声を聞ける者だと聞いてきた」
 康子はフッと笑った。そんなものが聞けてどうなる。邪悪に満ちた存在が、行動の自由を封じられ、何百年も積もった怨嗟の声を向けて来るだけだ。

「それがどうしたと言うのだ。この家を見て私の暮らしを想像してみろ。何の役にも立たぬことが分かるであろう」
 男は康子にぐいと近づいて来た。
 男の全身から漂う冷気が恐ろしい。人を殺すことに躊躇うことがない人間が持つ気だ。
「鬼はどんなことを叫んでいる」
「ほとんどが恨みの声だ。聞いていて気持ちが悪くなる」
 いつの間にか康子は男の話に乗っていた。このどこの誰とも分からぬ男には、そういう雰囲気があった。

「恨みの声か。いいだろう」
 男はなぜか、鬼が恨みの声を発していると聞いて、満足そうな顔をした。
「何がしたいのじゃ」
「ある男に鬼が発する恨みの声を聞かせて欲しい」
「何のために」
 男は翳りのある顔を上向かせて、遠くを見るような目をした。

「その男も心の底に、認めてもらえぬ自分への恨みを持っている。そして小さくて深い劣等感も抱えている。だから強大な力を持っているにも関わらず、闇に封じ込められた鬼と共感できるのだ」
「共感してどうする。膨れ上がる自分の恨みを制御しきれなくなって、狂い死にするだけじゃ」
「ハハハハハ」
「ヒッ」
 家の中に響き渡るような大声で男は笑った。あまりに大きな笑い声に、康子は驚いて身を反らした。

 男は康子の顔に自分の顔を近づけて来て、康子の顔を射るように見ながら言った。
「その男は死なんよ。その男は身体の内に大きな力を持っている。恨みが大きく成れば成るほど、力が解放されて強くなる。欲望を果たそうとすればするほど、その男の心は闇に落ちていき、膨れ上がった黒い力は最終的に鬼を開放する」
「そんなことをしたら、この世が地獄に変わるぞ」
「いいではないか。お前は困るのか。このどこまでも貧しい暮らしは、地獄ではないのか?」

 康子は男の瞳の奥に激しい怒りとは別に、深い悲しみがあることに気づいた。
「お前の話を聞かせろ。私はお前のことを何も知らぬ。お前の名を知り、お前の深い闇の理由を知り、その上でお前に共感するようなら、お前の言うことに協力しよう」

 男は康子が本気であることに気づいたようだ。本気で自分の過去を知ろうとしていることに驚きさえ示した。しばし考えた後に目を細めて酷薄な笑いを浮かべた。
「いいだろう。お前には聞かせてやろう」
 男は康子の隣に腰を下ろして話し始めた。

「俺の名はイ・スホ。この国では伊藤茂と名乗っている。もう分かったと思うが、俺はこの国の生まれではない。北の国からこの日本にやって来た」
 康子は思わず最近核兵器を装備し、軍事強化を進めている独裁者の国を思い浮かべた。
「俺が生まれた家は貧しかった。食事は一日二回、驚くほど少ない量しかない。だから年中腹を空かせ、あまりに腹が減ったときは道に生えている草さえも食った」
 日本人が聞けば、顔をしかめるような酷い生活だが、イ・スホはそんな生活にそれほど嫌悪を示してなかった。この男の闇の理由はもっと別のところにあるのだ。

「俺の父はもはや北の国に生きる術はないと言った。父は近所の大人たちと中国への亡命を企てた。国境警備はブローカーがうまく仲介して、抜けることができた。なぜブローカーが父たちが用意したなけなしの金でOKしたのか、そのときは謎だった。だが、国境を抜けて中国の大地に立ったときには、子供心にこれで人間に戻れると思ったものだ」
 イの顔に皮肉な笑いが浮かんだ。康子を見る目はだんだんと狂気を増してきている。

「異変が起きたのは街に近づいてからだ。ブローカーはまず男と女を別々に分けた。後で会えるということだったが、そのときが父と最後の別れになった。俺は子供だったのと母がどうしても離れないと聞かなかったので、女たちと帯同を許された。だが、そこで本物の地獄を見ることに成った」
 イの形相が変わった。思い出すのも苦しいことなのだろう。普段は心の底に押し込めている感情が、堰を切って流れ出す。

「そこは脱北した女たちを凌辱する場所だった。それも妻や愛人にするというレベルじゃない。文字通り狂った男たちによる凌辱だった。何人もの男たちが女を代わるがわる犯していく。当時十歳だった俺には耐え切れなかった。怒りで我を忘れた俺は、近くの男の足に噛みついた。他の男たちに、殴られ蹴られたがそれでも噛みついたままで、最終的にその男の足の肉を食いちぎった」
 語っているイの顔は悪鬼のようだったが、康子はその顔を見ても怖いとは思わなかった。
 むしろ鬼に成らなければならない必然が、まだ話の奥に潜んでいる予感がした。

「男たちは怒り狂った。足の肉を食いちぎられた男は、奥に行って植木ばさみを持ち出してきた。俺の下半身を裸にして、俺の男根をはさみで切り落としたんだ。そいつは痛みで泣きわめく俺を見て、へらへら笑いながら俺の男根を拾い、絶叫をあげた俺の母親の口の中にねじ込んだ」
 康子はその地獄のような光景を想像し、胃液が逆流し始めたことに気づいた。
 急いで据えた流しに駆けよって、口に上って来たものを吐き出した。

「俺はそのまま、脱北者として北の国に送り返された。それ以来母親とも会っていない。まあ、もう生きてないだろう。そのときからだ。俺は破壊への欲求にいつも悩まされ、暴虐と殺戮に憧れた。この世を地獄にしたいと切に願った。そんな俺が裏社会に身を投じるのは早かった。気が付いたときには、北の国の謀略を為すための工作員に成っていた」
 イは既に来たときの冷静な顔に戻っていた。

「どうだ。この裕福な国の民を地獄に落としたいと願う、俺の気持ちに共感できたか?」
 康子はイを受け入れている自分に気づいた。単なる同情心ではない。この男の凶悪な心を満たしてやりたいと熱くなった。それは康子の母性だったのかもしれない。

 康子には一人だけ息子がいた。康子が二六才のときに産んだ子だ。

 康子の父は祈祷に人生の全てを捧げているような男だった。祈祷を通じて神の声を聞き、その導きに従い依頼人の人生の道しるべを示す。
 依頼人の幸せを願っているわけではなかった。自分が神の声をより鮮明に聞けることに情熱を傾けていた。あるいは自分が神に成りたかったのかもしれない。

 康子の母は普通の女だった。自分の男がそんな妄想に憑りつかれ、夢中に成っていく様に精神が持たなかったようだ。
 康子が八才のとき、母は康子の手を引いて父の元を逃げ出そうとした。父が祈祷で稼いだ金の大半を貯金した通帳を持って。
 だが、神の声を聞く父には全て見通しだった。父は母に金を持っていくことはかまわないと言って。次いで、迷うお前が傍にいるのは、自分の祈祷を高める上で妨げになると言い切った。
 ただし康子は置いて行くように言った。それが金を渡す条件だと伝えた。
 母は、不安げに自分を見る康子の目を見ず、我が子の手を離した。そのまま家を出て、二度と戻ってこなかった。

 父と二人きりになったが、別に父は康子が可愛くて手元に置いたわけではない。康子の中に自分と同じ祈祷師の血が流れていて、康子の力を借りて、自分の祈祷の力を高めたいだけだった。

 それから二人で祈祷に明け暮れる毎日が続いた。そんな日常が変わる日が来た。
 康子は恋をしたのだ。男は腕のいい大工だった。父親の目を盗み逢瀬を重ねるうちに、二人は結ばれた。思えばこの頃が康子の人生にとって、一番良かった頃かもしれない。
 康子は男の家に逃げ込み、二人で暮らし始めた。
 やがて男との間に男の子を儲けた。三人でありきたりの普通の生活が待っているはずだった。

 ところがその生活は一か月も持たなかった。
 男と子供が同時に病に倒れたのだ。高熱が続き、まず男が死んだ。その翌日に男の子も死んだ。医者も原因が分からない熱病だった。
 失意の康子の前に現れたのは父だった。
 父は康子の前で、これは運命だと言って、醜く笑った。そのとき康子は二人を殺したのは父だと知った。二人は父によって呪い殺されたのだ。

 康子は父と共に家に帰って、再び祈祷を始めた。今度は康子の方が熱心に祈祷を研究した。祈祷の力を高めることだけが康子の生きる目的となった。鬼の声が聞けるように成ったのもこの頃のことだ。

 父は二年後に死んだ。康子が呪い殺したのだ。父は死ぬときに康子に一言だけ言い残した。
「よくやった。お前は神に成れる」
 その後の康子にとって祈祷への情熱は冷めた。食うためだけに祈祷する毎日が続く。
 やがて祈祷に頼みに来る者もいなくなった。

 イ・スホの話を聞いて、理由は分からないが死んだ息子が帰って来たような、不思議な感情が芽生えた。
「いいわよ。その男をここに連れて来な。鬼の声を聞かせてあげる」
 再び現れた息子のために、人の世を終わらせようと決意した。
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