第35話 呪われた家

文字数 5,465文字

 トントンとドアがノックされた。
「どうぞ」
 と答えると、ドアが開いてセバスチャンが顔を覗かせる。
「綾香様、お食事でございます」
 それはいつも通りのセバスチャンだった。
「すぐ行くわ」
 綾香はドレッサーに向かい、髪を整えて手早くメークをした。
 身支度が終わったら、部屋を後にしてダイニングに向かう。
 ダイニングには既にコーマと明良が着席していた。何となくコーマと顔を合わせるのが恥ずかしかった。昨日、裸の自分をベッドに運んだのは、きっとコーマだと思ったからだ。
 北条家の朝食は豪華だった。近所のパン屋が毎朝焼き立てパンを持って来る。特に三種類の味のクロワッサンは絶品だった。これを主食として、今朝はホワイトオムレツ、ハムとカマンベールチーズの盛り合わせ、ベジタブルプレート、生絞りのオレンジジュースにワッフルが、食卓に彩りを添える。食べ盛りの明良は更にヨーグルト付きシリアルを大量に胃袋に放り込む。
 これらを毎朝三人分用意するセバスチャンの、料理人としての腕の確かさと手際の良さには、女性として頭が下がる思いだ。
 クロワッサンに手を伸ばす。サクッとした感触の後で、口の中いっぱいに広がる芳醇なバターの香りを味わいながら、コーマの顔を盗み見る。

 優し気な瞳の奥に潜む冷たい光とシャープな顎のラインは、優しいお金持ちの青年よりも、戦国の世に生きた侍のイメージに近い。常に生き死にのライン上を歩いているからこそ身につく、研ぎ澄まされた刃のような切れ味が全身から漂っている。
 この雰囲気に触れた者は、自ずと死を意識して真剣に相対することを強要される。そしていつも車椅子の台座の中に隠された、三本目の足の存在を知った者は、異世界の住人の放つ毒を身体に吸い込み、屈服することを余儀なくされる。
 昨夜、綾香は正にそのままの体験をして、屈服の証である差し伸べられた手を掴んだ。そのとき躰中を駆け巡った甘美な感覚は、まだ躰の中心部に残って甘い疼きを呼び起こす。

「綾香、話があるんだ。後で私の部屋に来てくれないか」
 綾香の意識が宙に向かってフワフワと飛び始めたとき、コーマの呼びかけが現実世界に引きずり戻した。
「話って?」
「後で話す」
 それっきり二人の会話は途絶えた。
 明良から昨夜の挑発的な言動を放った表情が消え、むしろ心配そうな表情が見えた。
 考えてみれば今朝はみんな無口だ。昨夜あれだけの乱闘があったにも関わらず、今朝はまったくその話題に触れない。一人甘い世界に浸ってしまった自分を除き、微妙な緊張感が食卓の上に漂っていた。
「ご馳走様」
 朝食の終わりを告げて、学校に行くために明良が席を立つ。セバスチャンは明良の食べた食器を片付けるために、キッチンに向かう。綾香はコーマと二人で、ダイニングに残された。
「私もご馳走様、じゃあ後で部屋に伺うわね」
 ようやくそれだけ言い残してダイニングを後にする。

 部屋に戻っても、期待と不安がごちゃ混ぜに成って、何とも落ち着かない。
 昨夜定まったこれからの自分の運命が、これから宣告されるのだと自覚して、早く知りたい気持ちと、もう少し先延ばしにしたい気持ちが、心の中で葛藤している。
 もう一度ドレッサーの前に座り、入念に化粧を始める。
 眉を描き、アイシャドウを塗りながら、チークの陰影を調整する。仕上げにルビーレッドのルージュを引きながらふと思う。

――自分は誰のために化粧をしているのだろう?
 コーマのためではない、紛れもなく自分のためだった。

――人生の岐路を悔いのない美しい自分が迎えたい。
 その思いが自分を美しく変身させる行為に掻き立てる。

 自分はどこまでも行っても女なのだと、強く意識させる瞬間だった。
 それに気づくと今度は髪をアップにして、強い意志を示す作業に移行した。

 鏡の中に映った顔は、今までにない強くて美しい綾香の顔だった。
 クローゼットを開けて、今の自分に相応しい服を選びなおす。

 そこには綾香のためにコーマが用意した、いろいろなジャンルの服が吊るされていた。
 綾香が選んだ服は、肩から袖にかけてがレース地で、プリーツスカートが上品なイメージを与えるワインレッドのドレスだった。胸元のアクセサリーに、ゴールドチェーンに色と大きさの異なる、パールとクリスタルを散りばめたネックレスを着ける。

 靴もワインレッドのパンプスに履き替える。合わせてみると、全てコーマがこの日の来ることを予想して、自分のために用意してくれた装いであると気づいた。
 クローゼットの扉の内側に貼られた姿見を見て、どんな運命にも負けない意志が表れていることを確認して、綾香は部屋を出てコーマの部屋に向かった。

 ドアをノックすると、「どうぞ」と返事が返ってくる。
 部屋に入ると、コーマは車椅子を離れ、三本足用のスーツを着て綾香を待っていた。
 ふと、いったい誰がこのスーツを仕立てたのかと疑問に思ったが、すぐにセバスチャンの顔が思い浮かんだ。あの万能執事ならこんな仕事も造作なくこなしそうだ。

 コーマは綾香のために紅茶を入れてくれた。
 三本足で歩く姿を初めて見たが、想像していたよりずっと自然な姿だった。紅茶をいただきながら、あまりにも自分が遠慮なく観察していることに気づき、コーマが気を悪くしたのではないかと心配になった。

「三本足での動きは気に成るかい?」
 コーマが笑顔で訊いて来る。
 そうかコーマには私の心が伝わるんだと、昨夜心がつながったことを思い出した。試しに無心に成って自分の心の中を除くと、その中にコーマの意識がしっかりと交じり合っていることが分かる。
 大丈夫、コーマの心は静かな波のままだった。

「想像してたよりも、ずっとエレガントに動くのでびっくりした」
「実は歩くよりも走る方が得意だ。全力で走るとやや人間離れした動きになるが、実は百メートルを六秒台で走ることができる」
 それは、人間よりもオオカミや犬の走るスピードに近かった。

 こんな話を平気で受け入れてる自分が不思議だった。一夜にして、今迄自分が築いてきた常識や価値観が全て変わってしまったことを実感した。
「綾香、あなたに話しておかなければならないことがある」
 心の中にあるコーマの意識が変わった。穏やかで緩やかな波が、短い波動になって硬質な感じが伝わって来る。

「あなたに私の花嫁に成って、三本足の子供を産んで欲しいんだ」
「えっ?」
 意表を突かれて綾香は顔が引きつった。
「私は真剣に言ってる」
「真剣って、だってまだ出会ったばかりだし、第一私は高卒でキャバクラで働いてんだよ」
 思わず自分を卑下してしまった。実際にそんな風に思ったことは一度もない。
 大学卒業してキャバクラで働いて、自分よりダメな生活を送っている子はたくさんいる。
 一流企業に勤めてキャバクラに嵌ったダメ男もたくさん知っている。
 大事なことは別にあると思っているのだが、コーマの求愛が唐突過ぎて混乱してしまったのだ。

「三本足の子供を産める女性は限られている」
 何かコーマの様子がおかしい。単なる求愛ではなさそうだった。コーマの言った言葉を振り返ると、常に三本足の子供に拘っている。
「その資質を持った女性をツノが探し出した。それがあなただ」
「言ってることが、よく分からないんだけど」

「北条家に三本足の男児が生まれたのは、今から四百年以上前だ。豊臣秀吉の小田原攻めによって北条家は滅び、一族だった僕の祖先は城を逃れ残党と成り、徹底的に追われた。武蔵の国の奥深くまで逃げ込んだ先で出会ったのが八咫烏だった」
「八咫烏?」
「古事記や日本書紀に出てくる、天皇家を導いた三本足の鴉のことさ」
「それって、もっと西の方にいるんじゃない」
「熊野のことを言ってるんだね。実は八咫烏の言い伝えは、中国にも、遠くアレクサンダー大王の時代のマケドニアにもある。いずれも人を導くもの、そして太陽の化身として存在している」
「日本だけじゃないんだ」
「そう、我々の祖先は武蔵野国で出会い、そして戦乱を治める道へ導かれた」
「戦乱を治める道?」
「北条家が豊臣秀吉に滅ぼされた後で、関東に入って来たのは徳川家康だった。家康は混乱し反発する関東の治安を治めるのに苦慮していた。そこに私の祖先は一族の一人を天海と言う名の僧に仕立て、家康の下に送った。家康は天海を通じて我が祖先の助力を得て、関東の治安維持を成し遂げた。そのとき大きな道しるべに成ったのが、八咫烏の描く治世への道だった。以後、現代に至るまで、政界、財界に大きな影響力を持つ存在として、北条家は存続している」

「それは分かったわ。この屋敷と言い、あんなにハングレが襲ってきても、警察が来ないところとか、力があるのだと思う。それと三本足の子供を求めることは、どういう関係があるの?」
「北条家は、以後の繁栄を維持するために、八咫烏と契約を結んだ。それは、一族の当主と成る者の妻を八咫烏に捧げるというものだった」
「生贄……?」
 綾香の脳裏には神話の世界にあるような、恐怖の神に捧げられる生贄の娘の絵が浮かんだ。今、その生贄として自分に白羽の矢を立てられた。

「いや、あなたが描いているような直接的なものじゃないんだ。言い伝えによると、最初に出会った八咫烏は、自分の三本目の足を食いちぎって、そこから出る血をその当時の当主の息子に飲ませたと言う。それ以来、北条家の当主には三本足の子供が生まれるようになった。つまり、八咫烏の血脈を帯びた血筋と成ったんだ。ただ子供を産んだ妻は力尽きて死んでしまう」

「じゃあ、あなたのお父さんや、お祖父さんもそうなの」
「祖父や父は違う。日本には天皇家を代々守護してきた素目羅義という家がある。人間の思念を操り、皇室から手渡された守護獣と呼ばれる、特殊な生き物の能力を使うことができる一族だ。素目羅義の当主は、日本の歴史が混乱に陥るたびに帝を守ろうと、仲間を増やしていった。今はそういう家が全部で九家あり、皇援九家と呼ばれている」

「北条家は皇援九家の一つなの?」
 コーマは微かに悲しい色を浮かべた。
「そうだよ。戦後米軍に日本が支配されたとき、素目羅義は新たに四つの家を追加し、今の九家体制を作った。そのときに北条家も加わったんだ」
「それがお父さんやお祖父さんが、三本足じゃないことと関係してるの?」
「皇援九家には素目羅義から守護獣を手渡されるのだが、北条家には渡されなかった。なぜなら八咫烏は元々は皇室の守護獣だったんだ。それが、戦乱を嘆く八咫烏の思いで北条家と関係を結んでしまった。それも通常よりも強い結びつき方で。素目羅義は宗主より強いその力を嫌ったから、力を落とすために三本足の子を封じた」
「じゃあ、どうしてコーマは三本足なの?」
「ある理由があって、私の父の代で素目羅義と北条は意見が対立してしまった。家の危機が再び三本足の子供を現代に蘇らせたんだ」

 あまりに複雑な話に、綾香はため息をついた。
「じゃあ、呪いのような妻の生贄はまだ続いているの?」
「元々皇援九家の当主の妻は、守護獣の力が強くて死ぬことが多いが、帝の加護もあるのでその確率は三割といったところだ。ところが北条家だけは帝の加護がどこまで効くか分からない。私の父の妻は二人とも、力のある子を産むと命を落とした」
 心なしかコーマの顔は寂しそうに見えた。

「本当に呪いなのね」
 綾香は深いため息をついた。
「そうかもしれない。だが、今世界は一つの緊張状態を迎えている。北の血迷った核ミサイルの発射が、第三次世界大戦、俗にいう最終核戦争(アルマゲドン)を引き起こしたとしても不思議はない。もしかしたらどこかの国で研究している強力な細菌兵器が、世の中に漏れ出す可能性だってある」

 コーマの口から飛び出した世界の破滅を意味する危険は、綾香にとっては実感の湧かないフィクションの世界だった。それよりも綾香にとっては拘るべき問題があった。
「さっきコーマは、私のことはツノが見つけたと言ったわね。じゃあ、あなたの意志とは無関係に私と結婚して、子供を儲けようと思ったわけ」
「そういうことだ」
 何ら否定しないコーマの態度に、腹が立ってきた。

「私は嫌だ! 愛されてない男の子供は産めない」
 コーマと視線がぶつかった。
 綾香は負けまいと目に力を籠める。
「もう無理だ。時間が経てば経つほど、あなたは僕の子を産みたい気持ちが強くなっていく。昨夜の儀式はそういう呪いをかけるものだったんだ」
「そんなの信じない。私はあなたを愛したりしない」

 そう言いながらも、既に自分がコーマに愛されたいと思うようになっていることに気づき、悔しさがこみ上げてくる。頭に血が上って、酷い言葉で罵ろうとしたとき、コーマの瞳に深い悲しみの色が浮かんだのに気づいた。
「何か、教えてくれてないことが、まだあるんじゃない」
「ないよ」
 コーマは天を仰いだ。
 二人の間に沈黙が流れた。

 再び口を開いたのは綾香だった。
「そんな話を聞いて、私があなたの妻に成ると思う?」
「成るんだ。自分の意志で成ってしまうんだ。その運命は昨夜決定した」
 苦しかった。不思議なことに既にコーマのことを愛し始めている。
「もう、部屋に戻るわ。これ以上は今日は無理」
「受け止めきれなくても無理はない。もしあなたが私のことを愛すことがなければ、この残酷な運命から逃れることができるかもしれない」
「もういいわ」
 綾香は逃げるようにコーマの部屋を出た。
 とにかくもう一度寝よう。今の疲れた頭では、考えることは無理だから――。
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