第72話 恨みの力
文字数 3,293文字
亜久良は目の前に立つ北の男から、今迄触れたことのない尋常ではない暗闇を感じていた。闇は次第に大きくなって、亜久良の心を覆い始める。
まずいと思ったときは、既にイ・スホの結界に取り込まれていた。
「我々北の国の民は、貧しさと理不尽の中に生きている。日本人はそれを知らずに生きているが、それを知らないからいけないとは思わない」
イ・スホは亜久良を結界内に引きずり込みながら、特に攻撃をかけることなく、唐突もなく語り始めた。
「それならばやはり、富を奪うだけの侵略行為がお前の目的なんだな」
亜久良は怒りを覚えた。
日本の平和と罪なき人々の生活を、侵略者から守る義憤で力がみなぎった。
「それは違う。俺は富になど何の興味もない」
「ならばなぜ、日本で破壊行為を行う?」
イ・スホの返答が途絶えた。
「答えろ、イ・スホ。お前は何のために上杉に攻撃をかけた」
イ・スホの沈黙と連動して、亜久良を取り巻く闇はより色濃く強くなっていく。
「私は負けんぞ。半端な気持ちで張ったこんな結界など破ってみせる」
「お前は何も分かってない」
イ・スホの身体が闇の中で浮かび上がってきた。
亜久良は攻撃に備えて、正面の敵に意識を集中する。
「本当に残虐なのは、平和を貪り自分たちの安寧が永遠に続くと信じている人間だ。人間の本質は他者への冷酷さの中にある。お前たちは人間の本性を知らずに生きている。人間とは自分が絶対的に優位な立場になったときに、限りなく残酷になる生き物だ。それを教えるために、俺は日本にやってきた」
亜久良の身体を取り巻く闇が、一層濃くなる。
――早く決着をつけないと危険だ。
研ぎ澄まされた亜久良の防衛本能がそう告げていた。
目の前のイ・スホに攻撃を加えようとしたとき、四肢が見えない鎖に縛り上げられているのに気づいた。
腕も足もがっちりとつながれてピクリとも動かない。
動かないどころか、両足はゆっくりと左右に開かされ、両腕は真上に吊り上げられた。
イ・スホが近寄って来る。彼の顔が息が触れるほど近づいた。
「さあ、俺はお前に対し絶対優位な立場に立った。今俺の身体の中は、お前に対しどんな残虐な行為もできる喜びであふれている。真の残虐さがどのようなものであるか、お前に教えてやる。まずは、右腕から貰う」
亜久良の目の前に大きな植木ばさみが出現した。イ・スホはそのハサミを開き、その間に吊り上げられた亜久良の右腕を入れる。
「やめろー」
亜久良の絶叫と共に、右腕が地面に落ちた。
草次郎はイ・スホと対峙したままピクリとも動かないのに、大量の汗をかいて息の荒い亜久良の様子に異変を感じた。
「一番元気な男はスホの罠に落ちた。もはや助からぬ」
目の前のキム・ジウは攻撃もしないで、亜久良とイ・スホを見て楽しんでいる。
「お前は戦わないのか」
「死に急ぐことはあるまい。お前は感じないのか。今スホが芸術的な音楽を奏でてるところだ。もうすぐ心がぽきっと折れる音がする。お前を殺すのはその後だ」
何が起きているのかは分からないが、亜久良が危機に陥っていることは理解した。時間をかけている場合ではない。草次郎は速戦を決意した。
草次郎の技の極意はその足さばきにある。流れるようにキム・ジウに近寄り、背後に回って両腕を極めた。もう一刻も猶予は許されない。そのまま両肘の関節を外すために力を込めた。
「せっかちな男だな。せっかくの名演を聞かぬとは勿体ない」
草次郎は驚いた。背後から両腕を極められているにも関わらず、キム・ジウの顔が目の前にあった。
「化け物か」
「これほどの美女をつかまえて化け物呼ばわりとは無粋な男だ」
決めているはずのキム・ジウの両腕がするりと抜ける。
キムジウは背中に顔を向けたまま嫣然とする。
草次郎はその顔に向けて蹴りを放った。
キム・ジウは顔をこちらに向けたまま、後方に首を傾けてその蹴りを交わした。
「女の顔を狙うとはひどい奴だな。今ちょうどいい声が出たところだ。もう少ししたら殺してやるから、おとなしく待っていろ」
晋平は攻めあぐねていた。目の前の康子の容姿が、老婆と若い女に目まぐるしく変化する。その度に思念の波が変わり、攻撃をかわし損ねる。腕、腹、足、耳と紙一重でかわし続けているが、小さな傷があちこちにできている。
康子の攻撃は肉体による直接打撃ではない。当主剱山と同じように、思念の刃が四方から飛んでくる。接近戦に持ち込むために飛び込もうとしても、間断なく刃が飛んでくるので、その隙を掴めないでいた。
「めんどいなぁ、ええ加減にしてくれんか?」
晋平の似非関西弁に、今日は笑う味方は一人もいなかった。誰もがぎりぎりの戦いをしている証拠だ。
そして目の前の敵も顔色一つ変えず、攻撃の手を緩めない。
よけ続けているうちに、身体に痺れを覚える。
「毒か……」
師範代や雷が披露してくれたことがる。思念を猛毒に変えて、残留思念として相手の肉体に残す。
猛毒を残された肉体は、だんだんと痺れて、ある一定量を超えると死に至る。
「ほんまにまずいことになってきましたな」
龍児の攻撃は速かった。次々に繰り出される拳の速さに、令子は防戦一方だった。
――速い。このスピードは師範代や雷と比べてもそん色ない。
これに蹴りが加われば避けきれずに、自分は敗ける。
令子は四天王で唯一、弥太郎から極意を授けられてる。反応速度と身体の柔らかさが、極意を会得するに相応しいと判断されたのだ。最早極意を出さなければ、この相手を倒せないと令子は判断した。極意を出せば、この強敵を倒せたとしても、令子はしばらくの間戦闘不能になる。仲間を信じるしかなかった。
「上杉流極意、流水掌」
龍児の打撃に令子の腕が絡みついて顔面を打った。初めてのクリーンヒットだ。
続く拳にも同様の打撃を与える。
究極のカウンター攻撃が龍児の攻撃を封じる。
――もう一撃で倒せる。
龍児の攻撃に合わせて腕を絡めたタイミングで、令子の攻撃が止まった。弥太郎が令子の側面に現れ、上杉流最大の防御技、十字受けで新手の攻撃を防いだからだ。弥太郎の両腕に切り傷が刻まれ、一筋の血が流れる。
弥太郎の前には暁斗が立っていた。
「真杉、気をつけろ。この子の方が父親より強い。その子は思念の鎌を放って来る。今、お前の首が狙われたところだ」
「師範、お手を煩わせました」
令子は首筋に寒いものを感じた。
龍児への対処に気を取られ、暁斗への警戒が疎かになった。
暁斗が龍児に駆け寄り、肩の上に飛び乗った。
暁斗の鎌が上空から襲って来る。
それをかいくぐって攻撃を加えても龍児が防御に徹して、一撃も許さない。究極の攻防一体であった。
弥太郎は焦っていた。この局面での思念の強さは敵が味方を圧倒している。特にイ・スホと闘っている亜久良が危機的な状況にある。
弥太郎は亜久良の精神崩壊を避けるために、思念を分流させて送り続けている。味方が一人でも倒れたら、均衡が破れて全滅する。草次郎や晋平にも敵に対して不足する思念を送り続けねばならない。
勝機は一つだけ、剱山、八雲そして息子の雷が三人揃って、この場に現れてくれるのを待つ。それまで自分の思念が持てばこちらの勝ちだ。
目の前の敵の攻撃も時間が経つほどに、鋭さが増してきている。
弥太郎が前面に立ち暁斗の鎌を防ぐ間に、令子が龍児に攻撃をしかける。これを何度も仕掛けているが、龍児の防御が厚いのと、令子の疲れが増してきて、二人の呼吸が揃わなくなってきた。
ついに令子の攻撃が遅れた。一瞬の遅れを逃さず、暁斗の鎌が攻撃のために前面に出た令子を襲う。カバーのために前に出ようとした弥太郎に、龍児の隠し持った思念の槍が襲う。避けたら令子が真っ二つにされる。
弥太郎は覚悟を決めた。
令子を救うために思念の防御を自分の身から外して令子に向けた。龍児の槍が弥太郎に迫る。
――雷!
弥太郎は後事を雷に託し、静かに目を瞑る。
「弥太郎殿、こいつらは何者ですか?」
目を開けると龍児と暁斗が地面に倒れていた。
そして、自分の横には見覚えのある男の顔があった。
「少弐智成!」
まずいと思ったときは、既にイ・スホの結界に取り込まれていた。
「我々北の国の民は、貧しさと理不尽の中に生きている。日本人はそれを知らずに生きているが、それを知らないからいけないとは思わない」
イ・スホは亜久良を結界内に引きずり込みながら、特に攻撃をかけることなく、唐突もなく語り始めた。
「それならばやはり、富を奪うだけの侵略行為がお前の目的なんだな」
亜久良は怒りを覚えた。
日本の平和と罪なき人々の生活を、侵略者から守る義憤で力がみなぎった。
「それは違う。俺は富になど何の興味もない」
「ならばなぜ、日本で破壊行為を行う?」
イ・スホの返答が途絶えた。
「答えろ、イ・スホ。お前は何のために上杉に攻撃をかけた」
イ・スホの沈黙と連動して、亜久良を取り巻く闇はより色濃く強くなっていく。
「私は負けんぞ。半端な気持ちで張ったこんな結界など破ってみせる」
「お前は何も分かってない」
イ・スホの身体が闇の中で浮かび上がってきた。
亜久良は攻撃に備えて、正面の敵に意識を集中する。
「本当に残虐なのは、平和を貪り自分たちの安寧が永遠に続くと信じている人間だ。人間の本質は他者への冷酷さの中にある。お前たちは人間の本性を知らずに生きている。人間とは自分が絶対的に優位な立場になったときに、限りなく残酷になる生き物だ。それを教えるために、俺は日本にやってきた」
亜久良の身体を取り巻く闇が、一層濃くなる。
――早く決着をつけないと危険だ。
研ぎ澄まされた亜久良の防衛本能がそう告げていた。
目の前のイ・スホに攻撃を加えようとしたとき、四肢が見えない鎖に縛り上げられているのに気づいた。
腕も足もがっちりとつながれてピクリとも動かない。
動かないどころか、両足はゆっくりと左右に開かされ、両腕は真上に吊り上げられた。
イ・スホが近寄って来る。彼の顔が息が触れるほど近づいた。
「さあ、俺はお前に対し絶対優位な立場に立った。今俺の身体の中は、お前に対しどんな残虐な行為もできる喜びであふれている。真の残虐さがどのようなものであるか、お前に教えてやる。まずは、右腕から貰う」
亜久良の目の前に大きな植木ばさみが出現した。イ・スホはそのハサミを開き、その間に吊り上げられた亜久良の右腕を入れる。
「やめろー」
亜久良の絶叫と共に、右腕が地面に落ちた。
草次郎はイ・スホと対峙したままピクリとも動かないのに、大量の汗をかいて息の荒い亜久良の様子に異変を感じた。
「一番元気な男はスホの罠に落ちた。もはや助からぬ」
目の前のキム・ジウは攻撃もしないで、亜久良とイ・スホを見て楽しんでいる。
「お前は戦わないのか」
「死に急ぐことはあるまい。お前は感じないのか。今スホが芸術的な音楽を奏でてるところだ。もうすぐ心がぽきっと折れる音がする。お前を殺すのはその後だ」
何が起きているのかは分からないが、亜久良が危機に陥っていることは理解した。時間をかけている場合ではない。草次郎は速戦を決意した。
草次郎の技の極意はその足さばきにある。流れるようにキム・ジウに近寄り、背後に回って両腕を極めた。もう一刻も猶予は許されない。そのまま両肘の関節を外すために力を込めた。
「せっかちな男だな。せっかくの名演を聞かぬとは勿体ない」
草次郎は驚いた。背後から両腕を極められているにも関わらず、キム・ジウの顔が目の前にあった。
「化け物か」
「これほどの美女をつかまえて化け物呼ばわりとは無粋な男だ」
決めているはずのキム・ジウの両腕がするりと抜ける。
キムジウは背中に顔を向けたまま嫣然とする。
草次郎はその顔に向けて蹴りを放った。
キム・ジウは顔をこちらに向けたまま、後方に首を傾けてその蹴りを交わした。
「女の顔を狙うとはひどい奴だな。今ちょうどいい声が出たところだ。もう少ししたら殺してやるから、おとなしく待っていろ」
晋平は攻めあぐねていた。目の前の康子の容姿が、老婆と若い女に目まぐるしく変化する。その度に思念の波が変わり、攻撃をかわし損ねる。腕、腹、足、耳と紙一重でかわし続けているが、小さな傷があちこちにできている。
康子の攻撃は肉体による直接打撃ではない。当主剱山と同じように、思念の刃が四方から飛んでくる。接近戦に持ち込むために飛び込もうとしても、間断なく刃が飛んでくるので、その隙を掴めないでいた。
「めんどいなぁ、ええ加減にしてくれんか?」
晋平の似非関西弁に、今日は笑う味方は一人もいなかった。誰もがぎりぎりの戦いをしている証拠だ。
そして目の前の敵も顔色一つ変えず、攻撃の手を緩めない。
よけ続けているうちに、身体に痺れを覚える。
「毒か……」
師範代や雷が披露してくれたことがる。思念を猛毒に変えて、残留思念として相手の肉体に残す。
猛毒を残された肉体は、だんだんと痺れて、ある一定量を超えると死に至る。
「ほんまにまずいことになってきましたな」
龍児の攻撃は速かった。次々に繰り出される拳の速さに、令子は防戦一方だった。
――速い。このスピードは師範代や雷と比べてもそん色ない。
これに蹴りが加われば避けきれずに、自分は敗ける。
令子は四天王で唯一、弥太郎から極意を授けられてる。反応速度と身体の柔らかさが、極意を会得するに相応しいと判断されたのだ。最早極意を出さなければ、この相手を倒せないと令子は判断した。極意を出せば、この強敵を倒せたとしても、令子はしばらくの間戦闘不能になる。仲間を信じるしかなかった。
「上杉流極意、流水掌」
龍児の打撃に令子の腕が絡みついて顔面を打った。初めてのクリーンヒットだ。
続く拳にも同様の打撃を与える。
究極のカウンター攻撃が龍児の攻撃を封じる。
――もう一撃で倒せる。
龍児の攻撃に合わせて腕を絡めたタイミングで、令子の攻撃が止まった。弥太郎が令子の側面に現れ、上杉流最大の防御技、十字受けで新手の攻撃を防いだからだ。弥太郎の両腕に切り傷が刻まれ、一筋の血が流れる。
弥太郎の前には暁斗が立っていた。
「真杉、気をつけろ。この子の方が父親より強い。その子は思念の鎌を放って来る。今、お前の首が狙われたところだ」
「師範、お手を煩わせました」
令子は首筋に寒いものを感じた。
龍児への対処に気を取られ、暁斗への警戒が疎かになった。
暁斗が龍児に駆け寄り、肩の上に飛び乗った。
暁斗の鎌が上空から襲って来る。
それをかいくぐって攻撃を加えても龍児が防御に徹して、一撃も許さない。究極の攻防一体であった。
弥太郎は焦っていた。この局面での思念の強さは敵が味方を圧倒している。特にイ・スホと闘っている亜久良が危機的な状況にある。
弥太郎は亜久良の精神崩壊を避けるために、思念を分流させて送り続けている。味方が一人でも倒れたら、均衡が破れて全滅する。草次郎や晋平にも敵に対して不足する思念を送り続けねばならない。
勝機は一つだけ、剱山、八雲そして息子の雷が三人揃って、この場に現れてくれるのを待つ。それまで自分の思念が持てばこちらの勝ちだ。
目の前の敵の攻撃も時間が経つほどに、鋭さが増してきている。
弥太郎が前面に立ち暁斗の鎌を防ぐ間に、令子が龍児に攻撃をしかける。これを何度も仕掛けているが、龍児の防御が厚いのと、令子の疲れが増してきて、二人の呼吸が揃わなくなってきた。
ついに令子の攻撃が遅れた。一瞬の遅れを逃さず、暁斗の鎌が攻撃のために前面に出た令子を襲う。カバーのために前に出ようとした弥太郎に、龍児の隠し持った思念の槍が襲う。避けたら令子が真っ二つにされる。
弥太郎は覚悟を決めた。
令子を救うために思念の防御を自分の身から外して令子に向けた。龍児の槍が弥太郎に迫る。
――雷!
弥太郎は後事を雷に託し、静かに目を瞑る。
「弥太郎殿、こいつらは何者ですか?」
目を開けると龍児と暁斗が地面に倒れていた。
そして、自分の横には見覚えのある男の顔があった。
「少弐智成!」