第37話 楠木屋敷の夜

文字数 3,215文字

 大阪府豊中市の楠木屋敷では、久々の当主の帰還に活気が溢れていた。
 楠木家は関西経済の影のフィクサーとしての存在だけではなく、西日本最大の反社勢力に対しても強い影響力を持っていた。
 その楠木家を実質上取り仕切っているのが正臣の弟の正長(まさなが)で、家祖楠木正成の再来ともいうべき知略に溢れた政策を駆使し、楠木家は隆盛を迎えていた。

 楠木家の客間では、久しぶりに帰宅した当主と里見家の当主を迎えて、主だった者が集まり、祝宴を催していた。
「コーマの息子は無事生まれ、名前は『昂亜(こうあ)』と名付けられたということだ」
 正臣は新たな生命の誕生に、満足そうに笑顔を浮かべた。
「それで、コーマ殿の奥様はどうなりましたか?」
 亡き妻の残してくれた正純(まさずみ)を膝に抱きながら、正長が心配そうに尋ねた。
「無事だったらしい。生まれた子は相当の麒麟児で、生まれたときに天眼を既に持ち、叔父の明良に母を助けよと思念で呼びかけたらしいぞ」
 零士は興奮気味に新たな生命の偉才を語った。
「それはめでたい」
 正長は我が子の頭を撫ぜながら、まるで自分のことのよう晴れ晴れとした表情で喜んだ。
 今年四才になる正純は頭を撫でられて、あどけない顔で父を仰ぎ見る。傍らでそれを見た執事の森烈(もりれつ)は、九家のならひとは言え母を亡くした不憫な幼子を思い、目を潤ませていた。

「素目羅義家の動きはどのような按排かな」
 明日の儀介との会談を控え、正臣が最も気に成るところを口にすると、烈の息子で大学生の(しん)が、座卓の上の料理と酒を隅に寄せ、関西主要部の地図を広げた。その地図には赤丸と日付がびっしりと記載してあった。
「儀介殿がファカルシュによって倒されてから、北からの干渉は高槻の手前で止まっています。鬼塚遼真(おにづかりょうま)は元々楠木に対して、悪い感情は持ってないので、儀介殿の指示が止まった今、積極的には動かない様子です」
 鬼塚遼真は素目羅義家の第二執事で、第一執事の鬼堂新治(きどうしんじ)と並んで素目羅義の『二つ鬼』と称されている男だ。六十才を超えた新治と違って、まだ四十才と正臣たちの世代に近いせいか、北畠、楠木とは友好的に接してくれている。
 それでもいったん主家の命が下れば、私情を挟むことなくその知略、胆力、武力にものを言わせて、一気に侵攻してくるので油断できない。

「ある意味、ファカルシュ家には感謝だな」
 当主の正臣を東京の政局争いに巻き込んでる手前、楠木の脅威が減ったと聞いて、零士はホッとした顔で正臣に呟いた。
 そんな零士に気を使って正長が言った。
「東は鬼堂の手が伸びていると聞いております。鬼堂は目的のために手段を択ばぬ苛烈な性格ですから、西のことはこちらに任せて兄の助けを十分にお借りください」
 正長の気遣いに、どこまでも気配りの絶えない弟だと、正臣は頼もしく思った。

「一つ気に成ることがございます」
 信が年齢にそぐわない思慮深そうな顔で、正臣を見た。
「伊勢を拠点に奈良と大阪南部に干渉していた、今川家執事の朝比奈康則の手がぱったりと止まっています。もしかしたら侵攻先を東に向けたのではないかと案じられます」
 信の危惧に対し、正臣と零士は顔を見合わせた。
「それはいつからだ」
「ここ二週間ほど、そんな状態です」
「明良と共に生命の石を取り戻したころか」
「里見の者から特に報告はないが、あの魔女がやって来るとなると、それなりの備えは必要だな。とりあえず警戒するようにコーマに連絡しておこう」
「コーマのことだからすでにサキヨミで、ある程度予期してるかもしれないな」

「やはり、北条のサキヨミは群を抜いてますね」
 正長は一度ため息をついて、羨ましそうに語った。
「経済界の動きをみても北条家の躍進は凄まじい。特にグローバルな拡大に目を見張ります。北条昂麻だけでなく、弟の戸鞠明良の打つ手が全て外れない。海外の銀行に分散して保有している外貨は、総計で七千億ドルを超えているのではと推定されます」
 そのあまりに巨大な蓄財にその場の皆が息を飲んだ。
「凄まじいな。北条だけで国家予算並みの金を動かせるわけだ。まあ、未来が見えるのだからそれも合点がいくな」
 零士が改めて味方の力強さを感じて嬉しそうにする。

「関西では、特に東アジア系の進出が激しいですから、これに対抗するためにも、北条家とは強く結んでおきたいですな」
 新たな勢力の台頭頭を悩ませている烈が、北条の対国外勢力への強さを、羨ましそうに語る。
「東アジアというと、中国と韓国ですか?」
 同じく国外政策を重視する零士が、心配そうな表情で烈に尋ねる。
「表向きにはその両国ですが、実態としてはむしろ中国系マフィアと、北朝鮮のスパイを中心にした勢力が、裏社会へ進出してくるのに手を焼いております」
「これらと対するときには思念干渉は効かないですから、力と力のぶつかり合いになる。当然犠牲も大きいので、素目羅義も手を焼いてるようです」
「力と力ということになると、北畠が主力に成るわけか」
 零士は北条屋敷の戦いで、危うく顕恵に右腕を切断されそうになったことを思い出して、首をすくめた。
「先日も顕恵殿が、中国系の無頼派集団のボスを一刀両断したという話があります」
「顕恵自身は心優しいから、辛いだろうな」
 正長の話に正臣が遠い目をする。

「いずれにしても国内をどう纏めるか、明日の会議の首尾次第だな」
 零士の言葉に皆が頷く。
「儀介殿が実際に外国人の手にかかってみて、どう感じたかが知りたいところだ」
 正臣は少しでもいいから、儀介に危機感を感じて欲しかった。
「プライドが高いから、危うく死にかけたなど、認めないでしょうね」
 信が首を振りながら、あきらめ顔で言うと、正臣が笑いながら同意した。

「そう言えば、明日は顕恵様も同席するという話です」
 交渉を担当していた正長が、今思い出したかのように言った。
「顕恵が、なぜ?」
 零士が不審そうな顔をする。
「理由は分かりませんが、遼真様がそうおっしゃってました」
「理由を言わない?」
 零士が首を傾げながら、正臣をじっと見る。
「俺は何も聞いてないぞ」
「お前が原因じゃないのか?」
「知らん」
 他の者は零士と正臣のやりとりを好奇心むき出しで聞いている。
「行けば分かるだろう」
 正臣は、このやり取りを終わらせたいかのようだった。
「まあ、そうだな。でも、できれば理由を知っておきたいな」
 零士は少しにやけ顔になっている。

「コーマからの知らせでは、明良が綾香を救った技は、他の九家の出産でも使えるらしいぞ」
 正臣が話題を変えたくて、綾香の出産時の話を持ち出した。
「それは吉報でございますな」
 なぜか、烈が激しくこの話に食いついてきた。
「なんでも、助け終わって床に伸びてる明良のところに、智成と雷がやって来て自分のときもよろしくと頼んだらしい。零士、お前も頼んでおかなくていいのか?」
 今度は零士が慌てた。
「いや、俺は……。俺が別に頼まなくても、明良はやってくれるだろう」
 しどろもどろだ。
 座に笑いが巻き起こる。

「それにしても素晴らしいことですなぁ。今後の九家には、この子のような寂しい思いをする者は減るのでしょうな」
 正長が膝の上で眠っている正純の頭を撫ぜながら、感慨深げに眼を細めた。
「正臣様も母体の安全が図られたこの機会に、ぜひお子を儲けてはいかがですか?」
 烈が真剣な顔で正臣に迫る。
「おお、それはいい考えだ。兄上は常日頃から、母と成る者の命を奪うことなど忍びないと言って、結婚を拒否しておられた。これでその障害も取り除かれる」
 正長も烈の考えに大きく賛同した。
 自分で振って、このような形で自分に返って来て、まずいことになったと、正臣は後悔した。してやったりと隣でにやつく零士が忌々しい。
「まずは、明日の会議だ。気を引き締めてかからねば」
 またもや無理やり話を終わらせたが、やはり皆、明日の会議は大変なものだという認識があるのだろう。顔つきが変わって、真剣な顔に変わった。
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