第79話 大いなる意志

文字数 3,875文字


「これでお前は一人だ」
 雷との意識のつながりを絶たれ、時間の位相がずれた空間に残された八雲に対し、スホは嘲るように笑った。
「約束通り、令子さんの魂を解放しろ」
 八雲の要求に対し、スホは軽く令子の後頭部を叩いた。
 令子の顔から険がとれ、そのまま床に崩れ落ちた。

「この女はもう鬼の心を失った。だがこの女はこれから辛い毎日を送ることになる。人を憎むことで抑え込んでいた、悲しみ、寂しさ、後悔が毎日のようにこの女を痛めつけるからだ。果たして生きていけるかな」
 八雲はスホが少しだけ見せた悲しそうな顔を見逃さなかった。
「イ・スホ、お前はなぜ平和に暮らしている人を不幸に突き落とす? それは北の指令ではなく、お前個人の意思に見えるが」
 スホの目から感情が消えて、氷のように冷たい意識が全身を覆った。
「日本で生まれ育ったお前たちには分からない真理に気づいたからだ」
「真理?」
 八雲の身体に意志とは無関係な緊張が走った。
 本能がスホの言葉に警戒したような感じだ。

「教えてやろう。この世界では人間に与えられる幸福の量には限りがある。だから全ての人間が穏やかで幸せな生活を送ることなどできない。だから日本のように平和で豊かな国が存在すれば、その反動で邪悪な意志と貧しさに包まれた国が生まれる。一方が幸せに成れば、もう一方はどんどん不幸になっていく。だから鬼が生まれて、その差を埋めようと働き始める」
「それは違う。努力によって全ての人は救われていくはずだ」
 八雲は即座にスホの言葉を否定した。
「お前たちはそう信じたいだけだ。だが、俺の言っていることの方が正しい。これは地球の意志なのだ」
「地球の意志だと」
「そうだ。地球に生存する全ての生物に、地球が与えることができる恵みは有限だ。だから自然界は食物連鎖を形成し、各生物に天敵を作った。大いなる知恵だ。人に対しては土地神たちが時折力を振るって、気づきを促していた。だが、人は愚かな思想とちっぽけな知恵でそれに背く。だから、人に対する天敵として鬼が生まれるのだ」
 スホから鬼の禍々しさが消えていた。代わりに白い光が身体を包んでいる。

「そんな話を受け入れるわけにはいかない。私は人はみな幸せに成れると信じて戦う」
 八雲はスホの言葉に動揺することなく、きっぱりと否定した。
 それを見てスホの表情に笑みが零れた。
「それでいい。所詮言葉で理解することはできない。人間は理想を同じにして共に生きる存在がいるときは強くなる。ただ、非合理な別れを経験したとき、それを保てるかどうかは別だ」
 八雲の目の前からスホが消えた。
 周囲に目を配ると、スホは雷の前に現れていた。

「雷!」
 思わず八雲が叫ぶ。
 雷の口が動いて何か叫んだように見えるが、声が聞こえない。
 すぐそこに見えるのに、やはり違う次元にいるのだ。雷がずっと遠くにいるような感じて、不安が心に広がる。
 そんな八雲の気持ちにおかまいなしに、戦闘が開始された。
 スピードに乗った動きから雷の連打がスホを的確に捉える。
 だがスホにダメージは見られない。
 スホの左手が手刀となって雷の頭上に振り下ろされた。
 雷のフットワークはこれを軽々と交わし、なおも攻撃を続けている。

 相変わらず雷の攻撃は確実にスホの身体を捉えるのだが、ダメージを受けた様子が全く見えない。
 業を煮やした雷が、大きく踏み込んで強い一撃を打とうとしたとき、スホの右足が前方に蹴り上げらた。
 紙一重でこの一撃を交わした雷の頬に、蹴りが掠ったのか一筋の血が滲む。
 雷は臆せず攻撃の構えを取り続ける。

 何かがおかしいと八雲は思った。
 雷はまるで肉体を持たない力の塊と闘っているように見えた。
 これは地球の意志なのだ――先ほどのスホの言葉が蘇って来る。
 地球の意志が鬼の力を生み出し、雷はそれと闘っている――だとすれば、人間の力がそれに及ぶはずもない。
 今目の前で行われている戦いは、それを証明しているものなのか。
 雷を失う予感に、八雲の感情が逆立った。
 心に黒い炎が燃えあがり、身体を焼き尽くしそうになる。

「えっ」
 結界の向こうで、雷がこっちを見て笑ったように見えた。
 その笑顔は、不安な感情に支配されそうになった八雲の心を察して、落ち着かせようとしているように思えた。
 つながっている――結界で離されていても、自分と雷の心はつながっていると、その笑顔を見て八雲は確信した。

 八雲に冷静さが戻って来た。
 スホの話は本当かもしれない。巨大な地球の意志と闘っているのであれば、人間のちっぽけな意志など対抗できるはずがない――そう思ってしまっていた。
 しかし、意志に大きさなど関係ない。身体の小さな人の意志が、大きな人の意志を圧倒することは多々ある。
 そう考えれば、人間は有史以来、地球、言い換えれば自然の大いなる意志と戦い続けてきた。
 武器を持たない頃の人間は、自然の中で最弱な存在で、鋭い爪や牙を持った猛獣の脅威に晒されてきた。正体の見えない疫病に多くの人が命を落とした。ある日当然起きた大津波に全てを飲み込まれても、そこからしぶとく這い上がって立ち上がってきた。
 それでも人間は挫けない信念と、仲間を信じる力でこれらの脅威を克服してきた。
 だから地球の意志だとしても、恐れることはない。
 雷が強い意志を失わずに闘うためには、自分は何をすればいいか――八雲は目を瞑って一心にそれを考えた。

 八雲は静かに正対して闘いを見ていた。
 その目には勝敗の決着に拘らず、ただ雷と一緒にあるという強い思念が込められていた。
 だんだんと八雲の気が高まっていくと、八雲の身体から稲妻が走り、次元の壁を突き抜け雷の身体に達した。
 雷の身体が八雲の発した金色(こんじき)のオーラに包まれる。

 スホのパンチを雷は避けずに受け止めた。
 地球の意志を纏ったスホのパンチは、雷の身体を消滅させてしまうのではと思わせる衝撃をもたらしたが、その衝撃は全て雷の身体を覆うオーラの前に消滅した。
 今、八雲ははっきりと認識した――全人類の幸せでありたいと願う気持ちが、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、自分の身体に取り込まれていくことを。
 それは八雲の放つ電撃に姿を変え、絶えることなく雷の身体を包んでいく。
 送り込まれてきた何十億という意志の持ち主の顔も、はっきりと見えた。中には明良や樹希、智成に礼美、コーマ、綾香、昂亜の顔まである。
 人はつながれる。つながった意識は地球の意志にも負けはしない。

 スホが呆れたような顔で雷を見ていた。
「そんなことができるのか」
 そう呟いて、スホは両手を上げた。
「参ったな、これでは勝負はつかない」
 スホから攻撃の意志が消えたように感じた。
 雷はスホに対する構えを解いた。
「地球の意志と全人類の願いか。この戦いの意味はなくなったな」
「終わるのか」
 今、八雲は結界に隔てられながらも、二人の会話がはっきりと聞こえた。いや、音として聞こえているのではなかった。つながった雷の意識を通じて、会話の内容が伝わるのだ。

「終わりはしない。人が生存する限り、地球の意志は消えない。だが」
 スホはそこで言葉を切った。
「俺はここで日本を去ろう。そのつながりがある限り、俺の力は人類の天敵に成りえないからな。だが終わりはしない。そのつながりが絶たれたときに、もう一度俺は現れる」
 スホの身体がだんだんと透けていって消えてしまった。
 スホの身体が消えると同時に結界も消え、八雲と雷は康子の家にいた。あの果てしなく広い何もない空間は影も形もなかった。
 全ては夢のように思えたが、床に倒れている令子の姿が現実であったことを証明していた。

「私たちの闘っていた相手が、地球の意志だったなんて、誰も信じてくれないね」
 そんな話は、本当はどうでも良かった。全人類の願いを束ねて雷に送ったとき、八雲は雷との将来を描いた願いを隠すことができなかった。今はそれが恥ずかしい。
「ああ、話し方は難しいな」
 雷も照れていた。八雲が自分の心を開いたとき、雷の心の中も強制的に開かされて、全てが伝わったからだ。
 人類の天敵を退けた英雄は、その戦果を誇ることもなく、喜びに震えることもなく、ひたすら照れ続けていた。

「こんな感じだったのかな」
 雷がぽつりとつぶやいた。
「何が」
「いや、明良がオロチの手から樹希を救ってきたときって、きっと二人の心はつながったと思う。だから、こんな感じだったのかなと思って」
 そう言われれば、コーマの屋敷に着いたとき、二人とも無事に帰った喜びより、お互いに何かを意識して恥ずかしがっていたことを思い出した。
 それは初めて裸を見せ合ったからだと八雲は思っていたが、実際には心が触れ合ったからだと、改めて気づいた。

「心の中を見せるのって勇気がいるね」
 八雲はできることなら二度としたくないと思った。
 心の中には、綺麗なだけの自分だけではなく、相手を束縛し我儘を聞いて欲しいと思う醜い自分もいた。それが全部雷に伝わったのだ。
「きっと、普通なら全てを見せることはないんだろう。でも信頼が強く成れば徐々に見せていくんじゃないかな」
「がっかりした」
 本当に心配になった。
 雷はゆっくりと首を横に振る。
 両手が八雲の背中に伸びて、しっかりと抱きしめられた。
 そのとき、八雲は初めて安堵した。
 雷と二人でこれからも生きていけると思った瞬間、涙がこぼれた。
 しばらくこうしていたい。
 剱山への報告も令子の介抱も、全て後だ。
 命を賭けて戦ったご褒美が、今二人の心を包んだ瞬間だった。

(鬼編 了)
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