第10話 襲撃

文字数 5,320文字

「杏里紗!」
 樹希が慌てて立ち上がり、ドアに向けて駆け寄る。
「寝てなくて大丈夫なの?」
「大丈夫、ここで休んだらなんだかすっきりした」
 確かに杏里紗は、ナイフを振り回したときの青白い顔色ではなく、薄っすらと血の気が通ったように見えた。
「それよりも、さっきはごめんなさい。私、人を殺してしまったのね」
「それは操られたからであって……」
 零士が慌てて擁護しようとしたが、言葉が続かなかった。

「杏里紗、どこから聞いていたんだ?」
 明良が冷ややかに杏里紗に確認する。
「零士が来た時に、何かに起こされるような感じがして目が覚めた。ここはどこか分からなかったので、とにかく零士に会おうと部屋を出て一階に降りたの。そしたらこの部屋から零士の声がして、申し訳ないけど全部聞かせてもらったわ」

 零士が立ち上がった。
「杏里紗、すまない。まだ中学生の君に、こんな選択を迫ることになってしまった。全て俺が悪い」
 謝っている零士を制して杏里紗が言った。
「謝らなくてもいい。あのとき零士は私に帰れと言った。それでもついて行くと決めたのは私だから。でも一つだけ聞かせて、あの出会った日、零士は私のことをパートナーになる女だと分かっていたの?」
「分かっていた。杏里紗が渋谷に現れ始めたとき、狛犬が知らせてくれた」
「狛犬?」
「里見家の守護獣は狛犬なんだ」

 八咫烏が現れた以上、もうたいていのことには驚かないと思ったが、狛犬が実在すると聞いて、さすがに樹希も動揺した。何しろあの神社に座っている石像が生き物として動くのだ。
 だが杏里紗は平然と受け入れている。
――やはりパートナーに選ばれる女性は、少し普通の人間とは違うのかもしれない。
 過酷な運命が待っているにも関わらず、少し杏里紗を羨ましいと思った。

「そうなんだ。それを聞いて安心した。零士が私をパートナーとして求めたってことでしょう。それなら私は迷わない。零士について行く」
「ちょっと待て、今それを決めていいのか? 命がかかってるんだぞ」
 明良が顔色を変えて杏里紗に忠告すると、綾香がそれを制するように割って入った。
「明良、いくらクラスメートでもあなたが口出しすることじゃないわ。例え中学生でも女は好きな男の子供を産むときは、いつだって命を掛ける覚悟はあるの。あなたは私のときも、必死でここから追い出そうとしたでしょう。でもそれはあなたが立ち入るべき問題じゃないのよ」
 綾香の言葉に明良は反論の術がなく、言葉を無くして、ただ唇を噛みしめるだけだった。

 樹希は女として杏里紗の決心を否定できないが、必死で止めたかった明良の気持ちも理解できると思った。
――ここで納得しても、杏里紗や綾香さんの出産のときに、明良は気が狂うような後悔と自責の念に駆られるんだろうな。
 そのとき支えているのが自分でありたいと樹希は思い、一方でその資格はないのだろうと悲しくなった。
 綾香や杏里紗と違って、自分は普通の女だと自覚しているからだ。

 何か家が振動しているように感じる。
「地震?」
 樹希は叫びながら、家ではなく自分が揺れていることに気づく。足がぐらぐらして倒れそうになる。
「樹希!」
 明良が立ち上がって、樹希を支える。
「思念干渉だ。それもかなり強い」
 零士も立ち上がって、杏里紗を支えている。
「この強さは、素目羅儀か?」
 コーマの言葉の後で、カアと鴉の啼き声がした。ツノだと樹希が思った瞬間、部屋の片隅に老いた男が立っていた。

「素目羅儀儀介!」
 コーマと零士が同時に叫んだ。
――いったいいつ、このお爺さんは入って来たの?
 ドアが開いて人が入って来る気配は一切なかった。
「何をしにわざわざうちまで来られたのですか?」
 コーマはもう冷静な状態に戻っていた。
 素目羅義儀介と呼ばれた老人はニヤリと笑った。
「さすがよのう、北条の若き当主よ。だが、(われ)がここに現れた目的は既に分かっておろう」
「里見家の新事業を止めさせることですか?」
「事業? 違うであろう。これはクーデターだ。そのような秩序の乱れを許すわけにはいかぬ」

 樹希は身体を揺さぶる圧力が、ますます強まっていることに気づいた。頭もガンガン揺らされてるような気がして、気持ちが悪くなってきた。
「樹希、動揺するな。僕を信じて気持ちを落ち着かせろ」
 明良が耳元で囁く。忠告通り、明良がいれば大丈夫と心の中で呟きながら、息吹をやって気持ちを落ち着かせる。少しずつ圧力が弱まっていく気がした。
「苦しい」
 杏里紗が喉を押さえて蹲る。
「しっかりしろ、俺を信じろ、動揺するな」
 零士が懸命に杏里紗に呼びかけるが、回復しそうもない。
 一方、綾香は少しだけ苦しそうだが、平静を保ちながら儀介の動きを警戒している。

「なるほど、儂の思念干渉に耐えられるとは、お前たちの嫁も大したもんだな。だが、一人だけもうすぐ長い眠りに入りそうだぞ」
「ああ」
 杏里紗はもうちゃんとした言葉を発するのも苦しそうだった。零士に支えられながらうめき声をあげている。
「やめろ、やめてくれ」
 零士が儀介に向かって懇願した。
「では、お前の企みを諦めると儂に誓うか?」
 儀介は杏里紗を人質に、零士に事業を断念するように迫っている。
 なんて卑怯なやり方なんだと、樹希は腹が立ってきた。
「早く、誓わぬとその女は声を失うぞ」

 儀介が零士に答えを迫ったとき、樹希の怒りは沸点に達した。
「杏里紗、根性見せなよ。こんな妖怪爺(ようかいじじい)にいいようにされて、悔しくないの!」
 樹希は頭に血が上って、再び冷静さを失ったが、身体を揺らす感じは消滅した。
「樹希! 凄いね。君の怒りのエネルギーが思念干渉を跳ね返してるよ」
 明良がお見事と言わんばかりに称賛する。
 樹希の声に力を得たのか、杏里紗は唇を噛みしめて踏ん張り直した。

「コーマ様」
 セバスチャンが全員立て直したことを目で合図した。
「儀介殿、なぜ里見の企てを潰そうとする。あなたの思念干渉は外国人には通用しないではないか。このままでは、日本の平和だって維持できなくなりますよ」
「日本人には守らなければならない正しい生き方がある。帝を心の拠り所とした精神性を失っては、日本は滅びたと同じだ」
「今の帝はそんなことは望んではいない」
「帝自身のお気持ちは関係ない。正しい形は崩してはいけないのだ」
 儀介は傲然として、コーマの言葉に反発した。
「ならば話し合う余地はありません。去れ!」
 コーマは車椅子から立ち上がった。
 樹希は目を疑った。足が三本ある。
「ウォー」
 零士が吼え、頭に角が現れた。
 二人は気合を込めて儀介を見据え、人差し指を向けた。
 儀介の身体が消えた。

「やはり影か」
 零士が呆れたような顔をしてる。
「影でこの力とは、実態であったらどこまで力を発揮するのか、想像がつきませんね。やっかいな爺様です」
 コーマもやれやれといった表情で車椅子に座り、零士の角もいつの間にか消えていた。
 樹希は今見たことが信じられなくて、呆然としていた。
「樹希、口が開いてる」
 明良の指摘に慌てて口を閉じる。

「コーマ、影とは何ですか?」
 綾香は落ち着いている。
「思念の力によって作られた分身です。物理的に存在するし、戦闘もできる。ただ、そこから発せられる思念は実態に劣りますが。まあ、こんな真似ができるのは、儀介殿以外いませんが」
「コーマは前に見たことあるの?」
「ああ、四年に一度開かれる九家会議のときに見ました。そのとき会議に出ていた儀介殿は影だった」
「ホントにあなたたちの世界は人間離れしてますね」
 綾香がクスリと笑う。

「ちょっと待って。今コーマの足が三本あったよね。零士の頭にも角が生えてた」
 樹希が半分パニックに成りかけてる。
「ああ、驚かせてしまったね。九家の当主は、守護獣と生まれたときから関係があって、身体に守護獣と同じ特徴を持って生まれる。私の場合は三つ目の足を持って生まれた」
「俺は頭に角があるように見えるだけだ。コーマのように実態ではないから力が少し弱い」
「私は零士さんの角は知ってたわよ。初めて抱かれた日に見えたから」
 杏里紗が涼しい顔で告げる。
「あんた、それ見て平気だったの?」
「うん、その時は胸に零士さんの名前のタトゥーを入れられた方が気になったから」
「胸にそんなことされたの?」
「あら、私の腿にもコーマの名前があるわよ」
「なんでそんなことするんですか?」
「パートナーだからよ」
 綾香は涼しい顔で平然と言い放つ。
「そうなんですね。これがパートナーの証なんですね」
 杏里紗は嬉しそうにした。
「杏里紗さん、今度ゆっくり話しましょう」
「ぜひ、お願いします」

 楽しそうに話している綾香と杏里紗を見ながら、樹希は切なくなった。
 自分だけ置いてけぼりになった気分だ。
「杏里紗、何かあったら私に言ってね」
「ありがとう、樹希。私、零士さんのことが不安でイライラして、あなたに酷いことした。本当にすまないと思う」
 杏里紗は心から悪いと思ったのか、顔色が悪い。
「杏里紗は気にすることないよ。あれも儀介の思念干渉だと思って間違いない。それに気づかなかった零士さんの方が問題だ」
 明良の言葉で、杏里紗の顔に少し赤みが差した。
「本当に済まない。計画を進めることに必死でまったく気づかなかった」
「零士さん、事業の完成に向けて共に頑張りましょう。日を改めて計画の内容と進捗を教えてください」
 コーマの要請に零士は力強く頷いた。
 なんか歴史の一シーンを見ているみたいだ。薩長同盟とかこんな感じだったのかなぁと、二人を見ながら樹希は思った。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。テラスには灯がついていた。
「そろそろ帰った方がいいね。零士さんは杏里紗さんを送っていくだろう。明良、樹希さんを送って行くよね」
「ああ」

 綾香の指示で、明良が送ってくれることになって、樹希の心が浮足立つ。
 屋敷の外は風が強かった。
「寒いね」と、樹希が言うと、
「暖かくなったら高校生だな」と、明良が応えた。
 頬に当たる風は冷たかったが、明良と共に高校に通う姿を思い描いて、樹希の心はポカポカしていた。
「ねぇ、明良ももちろん種子を持ってるんだよね?」
 樹希は気に成っていることをついに口にした。
「うん、コーマ程強くは発動しないけどね」
――やっぱり私じゃあダメだ
 浮足立ってた心が急速に冷え込んでくる。

「どうしたの?」
 樹希の元気が無くなっていくので、明良が心配そうな顔で訊いてきた。
「じゃあ、やっぱりパートナーに成る人は、種子を持っている人から選ぶんだよね」
 自分で言って、余計に傷ついた。
「あー」
 明良はやっと樹希の心配の原因に気づいたようだ。
「樹希も種子持ってるよ。それもかなり強いのを」
「えっ?」
 耳を疑った。明良はニコニコしながら樹希を見ている。
「だって私、綾香さんや杏里紗とは違うじゃない」
「ずいぶん、話せるようになったね。写生のときとは大違いだ」
 明良は初めて会ったときの様子を思い出して笑っている。
「何、ごまかそうとしている?」
「ハハ、違うよ。二人はもう結ばれてるだろう。だから種子の力が開花しているだけさ」
 改めて結ばれてると言われて、樹希はなんだか身体が熱くなった。
「そうなの?」
「そうだよ。既に覚醒して人心操作能力が出始めていた杏里紗の虐めに、意志の力で対抗できるなんて、普通の人じゃ無理だよ。なにより影とは言え、儀介の攻撃に耐えられるなんて相当強い力だよ。それに……」
 珍しく明良が口籠った。
「それに何?」
「うーん、秘密にしとく」
 樹希には口には出さない明良の気持ちが、伝わって来る気がした。
 もしかしたら勝手に都合よく考えてるだけかもしれないけど、今はそれで十分幸せだと樹希は思った。

「樹希、気をつけて」
 突然明良が足を止めた。
 次の瞬間、目を開けてられないほどの強風が吹きぬけた。
「誰だ」
 樹希たちの目の前に、高校生ぐらいの年恰好の二人の男女が立っていた。
「初めまして、戸鞠明良君に緒川樹希さん。僕は少弐智成(しょうにともなり)。少弐家次期当主で、君の二つ上の高校二年生だ」
「私は唐木田礼美(からきだれみ)。智成のパートナーよ」
「僕たちは、来年君と同じ学校に転校する。その挨拶に来たわけだけど、ちょうど良かった。北条昂麻によろしく伝えといてくれ」
 再び目が開けられないぐらいの突風が吹き抜けた。
 目を開けたときには、二人の姿はなかった。
「また影なの?」
「いや実体だろう。風使いか…… 来年は学校が騒がしくなりそうだ」
「少弐って、あの人たちも九家なの?」
「ああ、少弐家、守護獣は妖狐。九州の経済を仕切り、その影響力は韓国や中国にも伸びていて、立場的にはこちら側だと思っていた」
 新たな敵の可能性に、明良は顔を曇らせる。
「まだ敵って決まったわけじゃないでしょう。心配するのは分かってからでいいんじゃない」
「はっ?」
 楽観的な樹希の顔を、明良はまじまじと見つめ、次いで噴き出した。
「そうだな」
 明良の右手がそっと樹希の左手を握って歩き出す。
 歩いているのに樹希の心臓は、まるで走っているかのように急速に拍子を刻む。
 上空では、まるで二人を照らすダウンライトのように、満月が淡い光を放っていた。

(境界編 了)
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