第33話 動き出した悪魔

文字数 6,181文字

 まったくどいつもこいつも口先だけで、簡単な使いさえ全うできねぇ。
 来島は廃人と化した徳二の頭を、怒りに任せてビール瓶でぶん殴った。手ぶらで帰って来た挙句、もう二度とあの屋敷には行きたくないと、それだけを繰り返し呟くからだ。
 白髪を真っ赤に染めて床に転がる徳二を見下ろしながら、森原に、歌舞伎町の街に捨てて来い、と命じた。

 アヤカとて、ずっとあの屋敷に隠れているわけにはいかないだろうから、部下に命じて気長に待てばいいのだが、今回はそういう気に成れなかった。
 初めてピンクパンサーでアヤカを見たときに、欲望が膨れ上がった。
 何としてもこの女を服従させて自分の傍に置きたいと思った。
 しかし、アヤカは何度自分の女に成れと口説いても、首を縦には振らなかった。最後は他の指名がいると席を立って、二度と戻って来なかった。怒りで店の黒服を半殺しにしようと思ったが、それは思いとどまった。
 ピンクパンサーは清和会の資金源の一つだ。ここで暴れて清和会を敵に回したくない。来島の率いるハングレ組織の主要な資金源は、清和会から流れてくる覚せい剤の売り上げだ。それを失うことは避けたかった。

 大人しく引き下がったが、その日以来アヤカを手に入れたいという欲望は、日増しに大きくなる。しかし攫うにしても、ピンクパンサーとの関係がいったん切れなければ、動けなかった。
 そんなときに徳二が現れた。これでアヤカを攫っても名分は立つ。たまたまカモにした男がアヤカの身内で、その絡みで自分の売春組織の女にしたというシナリオに酔った。
 だがまたもや邪魔者が現れた。北条という男がアヤカを匿ったのだ。一般人だと高を括って徳二を送り込んだが、見るも無残な姿になって帰って来た。
 最早、自分自身が乗り込むしかあるまい。アヤカへの欲望とは別に、この世界ではなめられたら終わりだと言う、危機感がある。
 来島たちが関わると何をされるか分からない、そういう恐怖心を植え付けることによって、他人は自分の理不尽に押し黙る。
 恫喝的な効果が薄れれば、自分たちの存在意義に関わる。
 いずれこの話は歌舞伎全体に広まるだろう。来島はもう引くことができないところに、自分が追い詰められたように感じた。
 だが乗り込む前に北条のことを調べてみた。この辺りの用心深さが、単なるハングレ集団ではなく、清和会とも結びつく歌舞伎の一大勢力にのし上がった来島の凄みであった。

 清和会は現代風のビジネス優先型のインテリヤクザ集団である。最前線で身体を張る行為は来島たちのような集団に任せ、情報収集・分析を最大の武器として、違法なマーケットニーズを巧みに探り当て、ここまでのし上がった。
 当然、その情報収集網は政界、財界、あらゆる分野に張り巡らされている。来島は清和会でも一、二を争うリサーチャーの香田を、徳二を嵌めたバーに招いた。目的は北条についての情報を得るためだ。
 来島は、奥のボックス席で香田の左右にユカとアツミを付け、機嫌を取りながら話を盛り上げる。香田のテンションが上がって来たところで、頃合い良しと本題を切り出した。
「ところで香田さん、久我山に大邸宅を構えている北条という男について、何か知ってますか?」
 快調にグラスを進めていた香田の手が止まる。雰囲気が変わったことを察して、女たちも静かになった。沈黙の中で香田が品定めでもするように、来島の顔に冷徹な視線を送る。
「お前、北条家と揉め事か?」
「いや、揉めてはいませんが……」
 清和会でもトップクラスのインテリヤクザの険しい表情に、来島は多少うろたえ気味に返答した。
「なら、北条家を詮索するのは止めておけ。お前の所だけじゃなく、場合によっては清和会もつぶされる恐れがある」

 香田の予想もしなかった警告に来島は思わず怯んだが、アヤカのことも諦めきれない。もう少し詳しい事情が知りたくて、恐る恐る訊いてみた。
「そんな力を持った家なんですか?」
 ハー、香田はため息をついて、来島の顔をしげしげと見やりながらしばらく考えた。
「どうしても知りたいなら、さわりだけ教えてやろう。ただし条件がある。今晩エリを俺に寄越せ」
 エリは引きつった顔をした。今までエリに手を出した男は、誰であろうと来島は容赦なく制裁して来た。しかし来島は一切かまわなかった。
「もちろんOKです。ご教授いただけますか?」
「じゃあ教えてやる。北条家は戦国時代に関東一円を支配した北条家の末裔だ。それだけに北条家につながる実力者も多い。代々関東出身の政治家は、例外なく北条家の支援を仰いでいる」
 政治絡みか、それは少々厄介だな、と思ったが、それで清和会まで危うくなるとは思えなかった。
「だが、恐ろしいのはそのことだけじゃない。本当に恐ろしいのは、久我山に住んでいる北条昂麻という男だ」
「北条昂麻ですか……」
 裏社会でその名を聞いたことはない。来島は怪訝な顔をした。

「昔、東東京に坂田組って合ったのを覚えているか?」
「錦糸町から北千住迄仕切っていた組ですね。確か五年前に清和会に潰されたと聞いていますが」
「表向きはな。だが清和会が潰したわけじゃない。正確には潰れた後で、東に乗り込んで主要な島を抑えただけだ」
「じゃあどこが潰したんですか? 警察ですか?」
「北条昂麻だよ」
「北条昂麻って……まさかそんな戦闘ができるわけない。どこか大きな組か警察を動かしたんですか?」
「そのまさかだよ。正確には北条昂麻とその執事の二人で坂田組を潰したんだ」
 絶句した。
「坂田組って、構成員だけでも千五百人はいたんじゃないですか?」
「そうだ、二人が乗り込んだ坂田組事務所には、その時だけでも五十人はいたんじゃないかな」
「それを二人でやっちゃったんですか?」
「ああ、あの執事は実は化け物らしい」
「確か坂田組には武闘派で有名な人がいましたよね」
「若頭の時本だろう。殺人マシーンと呼ばれていた男だ」
「その人もやられちゃったんですか「
「時本と組長の坂田が一番酷い状態だったらしいぞ」
「死んじゃったんですか」
「いや、よっぽど怖い目に遭ったのか、その事件の後はいつも怯えてしまって、廃人のようになってしまった。それも組が潰れた原因らしい」
 廃人――その言葉を聞いたとき、北条家から戻って来た徳二の姿を思い出した。
「実は二人とも本当のところは気が弱かったりして」
 徳二のイメージが重なり、何となく来島が口にした言葉に、香田は激怒した。
「馬鹿野郎、時本は敵対する組に捕まったとき、もう二度と逆らう気が無くなるようにと、拷問された挙句にペニスを半分、植木バサミで切られたんだ。それでも次のときには、その組の奴らを半殺しにしたような奴だぞ」
 さすがの来島も血の気が引いた。時本も鬼の仲間に違いない。
「まあ、お前もこの世界でまだまだのし上がって行くつもりなら、あそこには手を出さないことだ」

 そこでこの話は終わった。香田は欲情した目でエリを見ながら、他の二人の躰を触って楽しんだ後、エリを連れてバーを出て行った。
 残された来島は二人の女を追い出して、一人で北条家の話を思い出していた。
 香田は噂話を鵜呑みにしたり、嘘やはったりを話に混ぜるような男ではない。おそらく十分に証言を集め情報分析し、検証していることは間違いない。
――関わるには危険すぎる相手だ。
 来島の理性がこの件を放置するように命じてくる。
――しかし、しかしだ。
 もし来島が北条家からアヤカを連れ出せれば、時本を上回る伝説を持つことになる。それにアヤカのことをどうしても諦めきれない。
――捕まえて思い切り辱めながら飼ってやる。
 薄汚れた欲望を捨てきれないでいた。
 それに森原がいる。北条家の執事がいかに屈強な男だとしても、森原の強さは底知れないものがある。簡単に後れをとるとは思えない。
――勝負してみるか。
 ダウンライトが放つ淡い光の中で、来島は腹を決めた。

 時計は九時を回っていた。
 頭上には半分だけの月が妖しい光を放っている。
 今夜の襲撃に備えて十二人の精鋭を集めた。一人だけはピッキング専門だが、自分を含めた十二名は森原を始めとして、喧嘩では負け知らずの面子だ。
「よし、行くぞ」
 低い声で襲撃開始を宣言する。
 まずピッキング専門のシローが通用口の鍵を外しにかかった。シローは腕っぷしはからきしだが、ピッキングの技術はかなりのもんだ。電子錠でない限り開かないドアはないと言えた。事実通用口を開くのに二分掛からなかった。
 開いた瞬間、邸内からカアという鴉の啼き声が聞こえた。
 珍しいなと思いながら、森原を先頭に順次邸内に足を踏み入れる。
 全員が入り終わって、屋敷に向かって進んでいると、三人の人影が見えた。近づくに連れてはっきりと見えてきた。

 一人は車椅子に座っている。そして二メートルはありそうな巨漢、おそらくこいつが例の執事だろう。そしてまだ中学生ぐらいのひょろっとした男だった。
「わざわざお出迎えか?」
 来島の問いに返答はなかった。代わりに男にしては高い声で警告が来た。
「すぐにこの屋敷を立ち去ることをお勧めする。この不法侵入をこれ以上続けたら、今後の人生を保証できなくなる」
 言葉が終わると同時に、カアと再び鴉の啼き声がした。すると何か脳に突き刺さるような感じがして、その感覚が全身に広がり、痛みが生じているように錯覚する。
 思わず腕組みして両手で両肘を撫ぜてしまった。
「俺たちは何も手荒なことをするのが目的ではない。何も言わずアヤカを渡してくれれば、すぐに退散する」
 初めの勢いとは裏腹に、意志とは関係なく譲歩の言葉が口から出た。来る前は問答無用で、逆らった見せしめに骨の一本や二本は折るつもりでいたのだ。
「断る」
 相手はまったく交渉に応じる気配はない。
 譲歩した分だけ、恥ずかしい気持ちが生じた。
「じゃあ仕方ない、やれ!」
 全員に戦闘開始を指示した。
 巨漢と中学生が車椅子の前に出る。
 森原が先頭を切って執事に向かった。
 二メートル級の二人の激突はすさまじいものを予感させた。ただ、森原がレスラーのような体つきなのに対し、執事はかなり細身だ。
 森原がボクシングスタイルで拳を固めて構えるのに対して、執事は平手の儘で顔の前で八の字型に構えた。
 構わず森原が打って出る。凄まじい速度のパンチのラッシュだった。
 それをことごとく平手で撃ち払う執事も凄い。

 執事が森原と闘っている隙をついて、他の者が車椅子に向かって突進した。護衛は優男の中学生だけだ。しかし驚くべきことが起こった。
 一人、二人と向かった者が全て宙を切って地面に叩きつけられている。落ちたところが芝生でなく、固いアスファルトだったら間違いなく死ぬか、大怪我を負うところだった。
 中学生の使う技が何なのか分からぬまま、五人目が投げられた。
 残りの五人が一斉に車椅子に向かった。今度は二人が中学生を突破して車椅子に向かったが、二人とも触れることもできぬまま、宙に飛んで地面に叩きつけられた。
 男は車椅子に座ったままである。どうやって投げたのか見当もつかなかった。
 森原はまだ執事に攻撃を続けている。疲れ知らずの森原だが、来島には若干スピードが落ちてきている気がした。
 ついにタフな森原が膝をついた。執事が森原の顎に、カウンターの掌底を見舞ったのだ。そのまま地面に崩れ落ちた。

 頼みの森原まで倒されてしまって、残っているのは来島と、戦力にならないシローだけだった。数の面でも逆転されてしまっている。
「ぶっ殺してやる」
 頭に血が上って、理性のタガが外れた。
 隠し持っていたUZI(ウージー)を取り出した。全長が二八二ミリの手に収まるサイズの携帯用サブマシンガンだ。装弾数は三十発、それを一.五秒で撃ち尽くす。
 当たらない拳銃と比べれば、まさに一撃必殺の武器だった。けたたましい銃声で警察が駆け付けてくるのは間違いないから、すぐに逃げなければならないが、このまま帰ったら面子が丸潰れで、結局この世界で生きていけなくなる。
「車椅子に乗っている奴が北条昂麻だな。お前だけはこいつでぶっ殺してやる」
 これで俺の勝ちだ――早くも勝利の陶酔感が脳内に漂い始めた。
「お前が引き金を引こうとした瞬間、お前は人間として最後の瞬間を迎える」
 カア、車椅子の男の言葉が終わると鴉の啼き声がして、またもや言葉が鋭い刃物のように脳内に突き刺さる。

 なんだか前が良く見えない。気のせいか暗さが増したように感じる。頭上の月も見えなくなった。それなのに、車椅子の男の顔が妙に鮮明に見え始める。美しい中に酷薄さが滲み出てくるような顔だ。
――怖い。
 咄嗟にその言葉が浮かんだ。打ち消そうとしても、次々に現れてくる。恐怖心を振り払うために、引き金を引こうとしても、指が、腕が、身体が拒否する。
 痺れたような感覚がして、UZIを持つ手に力が入らなくなり、地面に落としてしまった。拾おうとしても、膝が、腰が、腕がその動作を拒否する。
――ふざけるな! 殺す!
 殺意を振り絞ってそう念じたとき、心臓に何かが突き刺さった。
 全身の力が抜けてその場に崩れ落ちる。
 殺意や反発心が全て消え失せて、無気力になってしまった自分を感じる。
――負けた。
 そう思った瞬間、涙が出て来た。もう泣くことだけが唯一できる抵抗だった。
 元の暗さに戻ってゆき、自分を取り囲む三つの顔が見える。
 執事が口を開いた。
「終わりましたね」
「ああ、あっけないもんだ」
「初めから心を壊しに行けば良かったのに。ちょっと汗を掻いちゃったよ」
 中学生がさもめんどくさそうに言った。
 ちょっと汗! 俺たちはそんなものなのか……反発する気力すら湧いてこない。
「むやみやたらに人の心を壊したくない。ただ、この男の邪悪さと執念深さは、心を折らないと終わらなかった」
「ふーん、そんなもんなんだ」

 執事が気絶している森原のところに行って、活を入れた。意識を取り戻した森原は素早く周囲を確認して、襲撃が失敗したことを認識した。
「頼みがある」
「何だ言ってみろ」
「シローと二人で来島さんや仲間を、車に乗せて立ち去りたい。俺たちの負けを認めるから、見逃してもらえないだろうか」
「ご主人様も私も、元よりそのつもりだ。早く立ち去れ」
 森原とシローが自分のところに駆け寄って来る。
「申し訳ございません」
 森原が頭を下げる。
「いいよ。もうどうでもよくなった。チームもお前に譲る。引退させてくれ」
 来島のあまりの変貌に、森原は驚きの表情を見せた。
「社長髪が……」
 おそらく自分の外見は徳二のようになってしまったのだろう。来島は自分の心が恐怖によって破壊されたことに気づいた。
――漏らしてないだけまだましか。
 徳二を連れ帰った者の話を思い出した。
 森原の肩を借りて車まで戻る。シローが他の者を立たせて引き上げの準備をしていた。
「森原」
「なんですか、社長?」
「すまんな……」
 森原が、シローの手伝いをするために、無言で車を出て行く。
 もう自分は全ての他者に対し、戦いに挑む気には成れないだろう。それが自分の死につながることは容易に予想できる。歌舞伎には自分を恨んだり、邪魔に思う者はたくさんいる。こんな自分を守ってくれる者など誰もいない。
 気が付くと再び、涙が出ていた。
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