第32話 恐怖の館

文字数 3,876文字

 目が覚めたときはまだバーにいた。来島の姿は既に無く、ユカとアツミもいなくなっていた。エリと森原だけが残っている。
「あら、徳さん起きたの?」
 エリが笑いながら水の入ったグラスを差し出してくれる。
 森原は無言でカウンターに座っていた。
 頭が割れるように痛い。どれほど飲んだのか記憶がない。間違いなく新記録だろう。
「昨日はお世話になりました。楽しかったです」
 早く帰って寝たかった。こんな楽しいひと時を過ごしたのは生まれて初めてだ。
 立ち上がって帰ろうとすると、エリが制止する。
「徳さんちょっと待って、悪いんだけど、ちょっとお高くなっちゃった」
 エリが伝票を差し出す。そこには、三百万円と記されていた。
 息を飲んだ。
 声が出ない。
 一晩の飲み代が三百万円!
「ごめんね。ここって時間制なの。女の子二人付けて、昨日の夕方から今日の昼までだから仕方ないよね。だいぶドリンクも出たし」
 まったく聞いてない話だ。テレビの特番で視た「ぼったくりバー」という単語が脳裏に浮かんだ。
 抗議しようと口を開きかけると、森原がこちらを一睨みした。ライオンの前に立つとはこういうことかと思った。
「ごめんなさい。払えないです。カードも持っていません」
 徳二は震えながらエリに詫びた。
「それは通らないわ。徳さんには内臓売ってでも払ってもらわないと」
 恐ろしい言葉を口にするエリに、徳二はただ震えているだけだった。
「そうだ、いいことがある。来島さんに貸してもらえばいいじゃない」
「返せません……」
 徳二の声は一層か細くなり、消えてしまうように縮こまっている。
「大丈夫よ。アヤカちゃんがいるじゃない」
「綾香が……駄目ですよ、俺なんかのためにびた一文出す女じゃない」
「でも保護者なんでしょう?」
「名目だけです」
「大丈夫よ。こっちの借用書にサインしてこのハンコを押して。そしてこっちの契約書には二ヵ所にハンコを押すだけでいいから」
 徳二は二つの書類を見比べた。一つは何の変哲もない借用書だ。これにサインしてハンコを押せば、来島に三百万借りたことに成る。
 もう一方は、移籍承諾書と書かれてあった。綾香が今の店からこっちの店に移籍する旨書かれていて、移籍時に三百万円徳二に支払い、綾香は徳二のために給料から差し引く形で返済すると書かれている。
 エリの顔をじっと見て考えた。もしかしたらこれで綾香を自分と同じところまで、引きずり落とすことができるかもしれない。
 いずれにしても自分に選択肢はない。徳二は言われた通り、書類にサインしてハンコを押した。

 どこまでも忌々しい女だった。
 昨日、来島に呼び出され、綾香が逃亡したことを知った。
 この前と打って変わって、鬼の形相になっていた。
 俺はサインするだけで、逃げられたのはお前たちの責任だろ、と言いたかったが怖くて声が出なかった。
 来島は、逃げ込んだ場所は分かってるから、保護者として連れ戻して来いと、怒鳴った。
 新宿から京王線に乗って、明大前で井の頭線に乗り換え久我山に向かう。
 駅から指示された屋敷迄徒歩で向かう。周囲は閑静な住宅街だ。こんな街で働かずに、平和に暮らせたらどんなに楽しいだろう。ナマケモノの血が騒ぐ。反面、あのハングレたちに立ち向かえるような者が住む街には、とても思えなかった。

 指示された住所には巨大な敷地の中に、子供のころに一度だけ行ったことがある、神戸の異人館のような屋敷があった。
 少し離れた場所には、ハングレたちの黒いバンが停まっている。綾香が逃げ込んでから、ずっと見張っているのだろう。
 門のインターフォンに手を伸ばしたが、押すのは躊躇われた。何か人が触れてはならないものに関わることを、本能が告げていた。来島に締められるよりも、もっと悲惨な結果が待っていそうで怖かった。
 躊躇っていると、横で車のクラクションが短く聞こえた。横を見ると、バンから見張り役のハングレが顔を出して、早く押せと合図している。
 どんな結果に成ろうと、もう後には引けないことに気づいた。
「はい、北条です」
 意を決して呼び出したインターフォンの先から、低い男の声がした。
「こちらに朱音綾香が来ていると聞きまして、訪ねてまいりました。私は朱音徳二と申します、綾香の叔父で保護者となります」
 自己紹介しただけで汗が噴き出してきた。それ程この屋敷に近づくと、プレッシャーが大きくなる。
「少しお待ちください」
 そう言ってインターフォンが切れた。

 三分ほど待つと、門の脇の通用口が開いた。待ってる間、永遠に開かなければいいと思った扉だった。
 そこから現れた大男を見て背筋が冷たくなった。
 黒いスーツを身に纏ったその男は、二メートルはあろうかという長身を、流れるような動作で動かす。そのしなやかな動きは、像や熊ではなく、ライオンやトラのようなネコ科の猛獣を連想させた。
「朱音徳二様でございますね。私は北条家の執事をしている瀬場須知亜と申します」
「朱音徳二です。よ、よろしくお願いします」
「本日は、綾香様にどんなご用件でしょうか?」
 保護者が会うのに用事が必要なのかと、言いたかったが、瀬場の雰囲気に気圧されて言えなかった。黙っていると、瀬場の方から提案して来た。
「それでは、邸内にご案内いたします」
 通用門から「お入りください」と促される。足を運んで瀬場に背を向けたとき、食われてしまうような錯覚に陥った。

 門の中には見事な庭園が広がっていた。門扉から屋敷迄それなりの距離があったが、庭の景観を楽しむうちに着いてしまった。
 あっさりと屋敷の中に招かれ、リビング迄通される。置いてある調度品の豪華さに思わずため息が出る。
「綾香様がいらっしゃいました」
 瀬場の声と同時にドアが開いて、綾香が入って来た。自分の目の前のソファに座る。今日は特別きつい目をしていた。
「よく私の前に現れることができたわね」
「俺はお前の保護者だ。会いに来て何が悪い」
「あんた、相変わらず最低ね。保護者、笑わせるわ! 自分が何をしたのか分かって言ってるの?」
 まあ、予想通りの反応だった。だが、この屋敷と瀬場という執事から感じる恐ろしさに比べると、綾香からの罵倒はなんてことはなかった。
「そう突っかかるな。お前は何か誤解してるようだ」
「何が誤解よ! いいわ、はっきり言うわ。あなたは保護者と言いながら、中学生の私をレイプしたのよ!」
 綾香は涙目になっている。
「あれはすまなかった。だが、思春期になって、お前も男に興味を覚えて俺を誘ってきたのは確かだ。事実一回きりで、お前に男ができてからは指一本触れてない」
 綾香は顔が真っ赤に成っている。興奮状態でうまくしゃべれない感じだ。
「綾香様」
 瀬場が声を掛けると、徐々に綾香の興奮は治まっていった。
「あんたみたいなジコチュー男と、過ぎた話をしてもしょうがないわね。顔を見るだけで腹立たしいから、すぐに帰って」
「ちょっと待て、このまま手ぶらで帰ったら、俺は来島に契約不履行で何をされるか分からない」
「されればいいじゃない。だいたい何が契約よ。私はそんなものに関わった記憶はない。あんたが私を売り飛ばしただけでしょう」
「誤解だ。私が来島から金を借りたことと、お前の契約はまったく別物だ」
「あなたと話してると、頭がおかしくなりそう。いいからもう帰って」
「そういうわけにはいかない。俺はお前の保護者だ。家出した娘を放っておくことはできない。契約がいやなら、力になるからいったん家に帰ってこい」
 綾香はこれ以上話すのが嫌になったのか、立ち上がって去ろうとした。
「お前が帰って来ないなら、この家の主が家出娘を匿ったと警察に訴えるぞ」
 綾香が振り返ってこっちを睨んでいる。思った通り、この家に迷惑を掛けるのは避けたいみたいだ。

 カア。
 外で鴉の声が聞こえた。直後にドアが開いて、車椅子に乗った青年が現れた。
「北条家を警察に訴えると言われるのですね」
 その青年のやや高い声は、徳二の脳に突き刺さり、脳内でリフレインする。すぐに身体全体に響き渡って、心臓を、胃を、手足の筋肉を、ワイヤーのように締め付けた。
 急速に気力が萎えてゆく。これ以上ふざけたことを口にしたら、ワイヤーに全身が切り裂かれるような恐怖に駆られた。
「も、もうしわけありません。帰ります」
 徳二はもう逃げ出すことしか考えてなかった。そそくさと立ち上がり、挨拶もそこそこにドアの方に向かう。リビングを出ると小走りに玄関に向かう。靴を履いて玄関を出て、門まで全速力で走る。通用口の前で待っていると、瀬場がやって来て開けてくれた。
 屋敷の外に出た瞬間、緊張が解けた。ズボンに生暖かい感触がしたので、下を見ると股間を中心にびしょびしょになっていた。気づかないうちに失禁したのだ。
 徳二が一人で出て来たのを見て、見張りの男が車から出て近寄って来た。
 徳二が失禁しているのを見て顔をしかめる。
「おい、話が違うぞ。どうするんだ」
「俺はもういい、どうにでもしてくれ。でもこの屋敷の中に入るのはもう嫌だ。来島に殺される方がまだましだ」
 突然男が驚いたような顔をした。身体が震えている。
「お前、どうしたんだ」
 男は震える手で自撮りモードにしたスマホを手渡す。
 そこには、真っ白な髪の老人の顔があった。その顔が自分のものだと気づくのに、しばらく間があった。
 あの青年との一瞬のやり取りで、恐怖のあまり身体に異変が起きたのだ。
 もう二度と思い出さないと誓いながら、徳二はスマホを握りしめたまま、ヘナヘナとその場に尻餅をついた。
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