第61話 試練
文字数 3,531文字
「ねぇ、どうして明良は裸なの?」
樹希が恥ずかしそうに訊いてくる。
「それは、もうすぐ君も同じになる」
「えっ」
「我の結界内では、我の認めた者以外は、生まれたままの姿でいなければならない」
オロチの声が響き渡ると、樹希の雨に濡れた服は全て崩れ落ちた。
「きゃっ」
樹希は慌ててしゃがみこむ。
「ほらね。でも恥ずかしがってる場合じゃない」
明良は正面を向いたまま、樹希からは視線を外した。
「わけ分からないんだけど。なんで零士さんがあそこに寝てるわけ? 杏里紗はどうなったの?」
「君は、杏里紗を救うために、土地神の水を飲んだ。覚えているか?」
「ええ、飲んだわ。そこから記憶がない」
「あの水は、土地神の生贄に成ることを承諾する水なんだ。君が飲んだから、杏里紗は解放された。僕は杏里紗と、オロチが造った偽物の君を北条屋敷に連れ帰った」
「じゃあ、杏里紗は無事なのね」
樹希の顔に安堵の表情が現われた。
「僕と零士さんは、君を救い水没しようとしている東京を救うために、ここに来た。今君の首にかかっている妖狐のペンダント、それが発する呪力に導かれて、今ここにいる。ただ、土地神の結界に持ち込んでいいものは、自然物のみ。衣服はそのために脱ぎ捨てた。例外は、呪力の塊であるそのペンダントや、霊木の運び手、オロチの生贄のみだ」
「もしかして、零士さんは私の身代わりになるために、土地神の水を飲んだの?」
明良は小さく頷いた。
樹希の顔から恥ずかしさが消え、立ち上がって明良に訊いた。
「どうしたら、みんな一緒に帰れるの?」
「僕は、これから土地神の下部と成り、年に四度聖なる作物を奉納する者となる。そうすれば、東京を水没から救うことができるし、みんなでここから出ることもできる。だがそのためには、誠実でありながら悪意に負けない強き者であることを、オロチに認めてもらわなければならない」
「どうしたら、認めてもらえるの?」
「僕が誠実であることは、既に認めてもらえた。後は人の悪意に負けない、強き者であることを示すだけだ。そこで君に協力して欲しい」
「何をすればいいの?」
樹希も覚悟を決めたようだ。
「僕の傍で、僕を抱きしめながら、どんなことがあっても僕の心を支え続けると強く念じて欲しい」
「いいわ。そんなことなら簡単」
樹希はすぐに始めようとした。
「樹希、途中でどんなことがあっても、僕を信じ続けてくれ。頼む」
明良はそれまで見せたことがない真剣な表情だった。
その顔を見て、樹希はこれが容易ならざることだと悟った。
樹希が覚悟を決めて頷くと、明良はゆっくりと両手を広げた。
樹希は明良の胸の中に飛び込み、明良の身体に身体を重ねて両腕を明良の背に回した。
明良は樹希の肌の温もりを感じ、樹希の思念を心に満たしながら、零士が横たわる神殿を見た。
「オロチ殿、これから僕らの強さを見せる。何なりと試してくれ」
「よかろう。それでは、始めよう」
どこからともなく現れた緑の霧が二人の身体を覆った。
樹希は心の中で、何があっても明良を支えると念じ続けていた。
明良の身体の温もりは、樹希の心を強くするのに十分だった。
幸せな気分に成りながら、これなら負けないと思った。
突然、強い光が差し込み、目を開けると樹希は一人で立っていた。
目の前に、うつ伏せになって倒れている明良がいた。
「明良!」
樹希が声をかけると、明良がゆっくりと顔を上げる。その顔は腐って皮膚が崩れ落ちていた。目玉もなく、目の前で鼻がぽつりと落ちた。頭蓋骨の一部が覗き、頭髪がごそっと抜け落ちた。
醜く変わった明良が、樹希に触れようと手を伸ばしてくる。
樹希は驚いて腰を抜かしそうになったが、歯を食いしばって堪えた。
――大丈夫、例えどんな姿に成っても、私は明良を信じる
堂々と仁王立ちした樹希の前で、醜く変わった明良が崩れ落ちた。
突然、樹希の頭に強い痛みが走った。
――何、何が起きたの?
樹希は今しがた起こったことの記憶がなかった。
――明良はどこ?
周囲を見渡すと、一匹の熊がいた。
グルルと唸りを上げる熊に、樹希はとっさに正拳を打つ構えをした。
熊の顔が明良に変わった。その顔は目が吊り上がった凶悪なものだった。
明良の顔に気を取られていると、熊の右の前足が樹希に向かって振り下ろされた。
樹希は打ちかけた正拳を止め、心の中で思った。
――大丈夫、明良は私を傷つけない
またもや頭に痛みが生じて、目を閉じた。
目を開けると、目の前に明良が立っていた。
悪い薬でも打ったかのように、目はうつろで、口から涎を垂らし、樹希を押し倒した。
明良が身体に触れると変な快感で、何のためにここにいるのかを忘れそうになる。
――いいわ、何をされても、明良は私が守る。
そう念じて、襲って来る明良の身体をやさしく抱きしめた。
三度目の強い痛みが頭を襲った。
次に樹希が見たのは、裏切られて打ちひしがれる明良の姿だった。
多くの人々の悪意が、明良に突き刺さっていることを感じた。
以前として雨が降り続けている。裸の二人の肌を雨が伝い流れる。
間違いなく、先ほど二人で抱き合った場所だった。
雨は地面に溜まり始め、足首まで水に浸かった。
「もうこの雨を止めることはできない。それだけ、人々の心の悪意は大きかったんだ」
「明良、諦めてしまったの」
樹希の心に折れてしまった明良の失意が伝わって来る。
「樹希、頑張ってくれてありがとう。でも、僕の力は及ばなかった。僕には崩壊の流れを止めることはできなかった。僕らは水の中で死を迎えることに成る。でも、君が僕の隣にいてくれれば、僕は救われる。どうか最後まで一緒にいてくれないか」
明良は憂いを帯びた表情で、そのまま樹希を抱きしめた。
樹希は明良の肌の暖かさに、大切なものを感じた。
失意の想い人を、やさしく慰めたくなった。
明良と唇を合わせようとした。
――ダメ、ここで挫けてはダメ。私たちは例え二人だけに成っても、最後まで戦い誇り高くあるのよ。
強い思いが明良を押しやった。
「明良、挫けちゃダメ。私たちは戦い続けるの」
その瞬間、再び閃光がきらめき、目を閉じた。
目を開けたとき、樹希は明良と抱き合ってままだった。
「鴉の使いよ、お前の想い人は強くて折れぬ心を持っているな。もし耕三郎の隣にそのような強き者がいたならば、耕三郎も、そして息子の岳人も、心が折れることはなかったのだろう」
オロチの声には威圧する強さは消えたが、まだ深い悲しみが残っていた。
「オロチ殿、僕をあなたの下部と認めるか?」
「認めよう。お前たちの強さに、希望を託そう。我の心を癒すための献納を、お前の血筋に許す」
オロチの声が響いた後に、降り続く雨が止んだ。
太陽が顔を覗かせ、日差しが冷え切った二人の身体に熱を送り込み始めた。
「零士さんを起こさなくては」
明良が寝台に近づくと同時に、零士は目覚めた。
「明良か、予想通り俺たちを救ってくれたんだな」
「ええ、僕の血筋は今後土地神の下部として、大地の神に癒しを与える者として認められたようです」
零士はフッと笑った。
「お前、だんだん神がかってきたな」
「今回は樹希の力が大きいです」
「いよいよ、頭が上がらなくなるな」
「さあ、早く結界を出ましょう。雨が上がったから公園に人が押し寄せますよ。こんな姿を見られたら、警察に通報される」
「そうだな、車まで戻れば、替えの服はある」
「私の分もある?」
樹希がもじもじしながら、明良の後ろから訊いてきた。
「大丈夫だ。杏里紗が選んだ服が置いてある」
「よし、じゃあ、早く車に行こう。二人とも、前を歩いて」
樹希に促されて、二人は急いで来た道を引き返した。
道の先に丸い穴が見え、それを出た瞬間に三人は公園内に戻った。
「早く車に行こう」
樹希が急かす。幸い、公園内には人影はなかった。
「一応、結界を張っておこう」
零士が車まで結界を張った。
これで結界内に誰か踏み込まない限り、三人の姿は見えない。
車まで着くと、零士は運転手に命じて着替えを出させた。
手早く着替えて、車に乗り込む。
「フー、今迄生きてて、一番恥ずかしかった」
樹希はまだ顔を赤らめている。
「何にしても、これで終わったな」
車の窓から晴れた空を見上げて、零士はホッとした顔で表情を緩めた。
今頃儀翔が仲間たちと、封印を掛けている頃だ。
久々の太陽に、人々も一斉に外に出たのか、道が混み始めた。
渋滞の中で、助手席の零士が軽くいびきをかき始めた。
気が付くと、隣の樹希も目を閉じて、眠っている。
その寝顔を見ていると、明良にも睡魔が襲ってきた。
それは東京を救った三人への、ささやかなご褒美かもしれなかった。
(オロチ編 了)
樹希が恥ずかしそうに訊いてくる。
「それは、もうすぐ君も同じになる」
「えっ」
「我の結界内では、我の認めた者以外は、生まれたままの姿でいなければならない」
オロチの声が響き渡ると、樹希の雨に濡れた服は全て崩れ落ちた。
「きゃっ」
樹希は慌ててしゃがみこむ。
「ほらね。でも恥ずかしがってる場合じゃない」
明良は正面を向いたまま、樹希からは視線を外した。
「わけ分からないんだけど。なんで零士さんがあそこに寝てるわけ? 杏里紗はどうなったの?」
「君は、杏里紗を救うために、土地神の水を飲んだ。覚えているか?」
「ええ、飲んだわ。そこから記憶がない」
「あの水は、土地神の生贄に成ることを承諾する水なんだ。君が飲んだから、杏里紗は解放された。僕は杏里紗と、オロチが造った偽物の君を北条屋敷に連れ帰った」
「じゃあ、杏里紗は無事なのね」
樹希の顔に安堵の表情が現われた。
「僕と零士さんは、君を救い水没しようとしている東京を救うために、ここに来た。今君の首にかかっている妖狐のペンダント、それが発する呪力に導かれて、今ここにいる。ただ、土地神の結界に持ち込んでいいものは、自然物のみ。衣服はそのために脱ぎ捨てた。例外は、呪力の塊であるそのペンダントや、霊木の運び手、オロチの生贄のみだ」
「もしかして、零士さんは私の身代わりになるために、土地神の水を飲んだの?」
明良は小さく頷いた。
樹希の顔から恥ずかしさが消え、立ち上がって明良に訊いた。
「どうしたら、みんな一緒に帰れるの?」
「僕は、これから土地神の下部と成り、年に四度聖なる作物を奉納する者となる。そうすれば、東京を水没から救うことができるし、みんなでここから出ることもできる。だがそのためには、誠実でありながら悪意に負けない強き者であることを、オロチに認めてもらわなければならない」
「どうしたら、認めてもらえるの?」
「僕が誠実であることは、既に認めてもらえた。後は人の悪意に負けない、強き者であることを示すだけだ。そこで君に協力して欲しい」
「何をすればいいの?」
樹希も覚悟を決めたようだ。
「僕の傍で、僕を抱きしめながら、どんなことがあっても僕の心を支え続けると強く念じて欲しい」
「いいわ。そんなことなら簡単」
樹希はすぐに始めようとした。
「樹希、途中でどんなことがあっても、僕を信じ続けてくれ。頼む」
明良はそれまで見せたことがない真剣な表情だった。
その顔を見て、樹希はこれが容易ならざることだと悟った。
樹希が覚悟を決めて頷くと、明良はゆっくりと両手を広げた。
樹希は明良の胸の中に飛び込み、明良の身体に身体を重ねて両腕を明良の背に回した。
明良は樹希の肌の温もりを感じ、樹希の思念を心に満たしながら、零士が横たわる神殿を見た。
「オロチ殿、これから僕らの強さを見せる。何なりと試してくれ」
「よかろう。それでは、始めよう」
どこからともなく現れた緑の霧が二人の身体を覆った。
樹希は心の中で、何があっても明良を支えると念じ続けていた。
明良の身体の温もりは、樹希の心を強くするのに十分だった。
幸せな気分に成りながら、これなら負けないと思った。
突然、強い光が差し込み、目を開けると樹希は一人で立っていた。
目の前に、うつ伏せになって倒れている明良がいた。
「明良!」
樹希が声をかけると、明良がゆっくりと顔を上げる。その顔は腐って皮膚が崩れ落ちていた。目玉もなく、目の前で鼻がぽつりと落ちた。頭蓋骨の一部が覗き、頭髪がごそっと抜け落ちた。
醜く変わった明良が、樹希に触れようと手を伸ばしてくる。
樹希は驚いて腰を抜かしそうになったが、歯を食いしばって堪えた。
――大丈夫、例えどんな姿に成っても、私は明良を信じる
堂々と仁王立ちした樹希の前で、醜く変わった明良が崩れ落ちた。
突然、樹希の頭に強い痛みが走った。
――何、何が起きたの?
樹希は今しがた起こったことの記憶がなかった。
――明良はどこ?
周囲を見渡すと、一匹の熊がいた。
グルルと唸りを上げる熊に、樹希はとっさに正拳を打つ構えをした。
熊の顔が明良に変わった。その顔は目が吊り上がった凶悪なものだった。
明良の顔に気を取られていると、熊の右の前足が樹希に向かって振り下ろされた。
樹希は打ちかけた正拳を止め、心の中で思った。
――大丈夫、明良は私を傷つけない
またもや頭に痛みが生じて、目を閉じた。
目を開けると、目の前に明良が立っていた。
悪い薬でも打ったかのように、目はうつろで、口から涎を垂らし、樹希を押し倒した。
明良が身体に触れると変な快感で、何のためにここにいるのかを忘れそうになる。
――いいわ、何をされても、明良は私が守る。
そう念じて、襲って来る明良の身体をやさしく抱きしめた。
三度目の強い痛みが頭を襲った。
次に樹希が見たのは、裏切られて打ちひしがれる明良の姿だった。
多くの人々の悪意が、明良に突き刺さっていることを感じた。
以前として雨が降り続けている。裸の二人の肌を雨が伝い流れる。
間違いなく、先ほど二人で抱き合った場所だった。
雨は地面に溜まり始め、足首まで水に浸かった。
「もうこの雨を止めることはできない。それだけ、人々の心の悪意は大きかったんだ」
「明良、諦めてしまったの」
樹希の心に折れてしまった明良の失意が伝わって来る。
「樹希、頑張ってくれてありがとう。でも、僕の力は及ばなかった。僕には崩壊の流れを止めることはできなかった。僕らは水の中で死を迎えることに成る。でも、君が僕の隣にいてくれれば、僕は救われる。どうか最後まで一緒にいてくれないか」
明良は憂いを帯びた表情で、そのまま樹希を抱きしめた。
樹希は明良の肌の暖かさに、大切なものを感じた。
失意の想い人を、やさしく慰めたくなった。
明良と唇を合わせようとした。
――ダメ、ここで挫けてはダメ。私たちは例え二人だけに成っても、最後まで戦い誇り高くあるのよ。
強い思いが明良を押しやった。
「明良、挫けちゃダメ。私たちは戦い続けるの」
その瞬間、再び閃光がきらめき、目を閉じた。
目を開けたとき、樹希は明良と抱き合ってままだった。
「鴉の使いよ、お前の想い人は強くて折れぬ心を持っているな。もし耕三郎の隣にそのような強き者がいたならば、耕三郎も、そして息子の岳人も、心が折れることはなかったのだろう」
オロチの声には威圧する強さは消えたが、まだ深い悲しみが残っていた。
「オロチ殿、僕をあなたの下部と認めるか?」
「認めよう。お前たちの強さに、希望を託そう。我の心を癒すための献納を、お前の血筋に許す」
オロチの声が響いた後に、降り続く雨が止んだ。
太陽が顔を覗かせ、日差しが冷え切った二人の身体に熱を送り込み始めた。
「零士さんを起こさなくては」
明良が寝台に近づくと同時に、零士は目覚めた。
「明良か、予想通り俺たちを救ってくれたんだな」
「ええ、僕の血筋は今後土地神の下部として、大地の神に癒しを与える者として認められたようです」
零士はフッと笑った。
「お前、だんだん神がかってきたな」
「今回は樹希の力が大きいです」
「いよいよ、頭が上がらなくなるな」
「さあ、早く結界を出ましょう。雨が上がったから公園に人が押し寄せますよ。こんな姿を見られたら、警察に通報される」
「そうだな、車まで戻れば、替えの服はある」
「私の分もある?」
樹希がもじもじしながら、明良の後ろから訊いてきた。
「大丈夫だ。杏里紗が選んだ服が置いてある」
「よし、じゃあ、早く車に行こう。二人とも、前を歩いて」
樹希に促されて、二人は急いで来た道を引き返した。
道の先に丸い穴が見え、それを出た瞬間に三人は公園内に戻った。
「早く車に行こう」
樹希が急かす。幸い、公園内には人影はなかった。
「一応、結界を張っておこう」
零士が車まで結界を張った。
これで結界内に誰か踏み込まない限り、三人の姿は見えない。
車まで着くと、零士は運転手に命じて着替えを出させた。
手早く着替えて、車に乗り込む。
「フー、今迄生きてて、一番恥ずかしかった」
樹希はまだ顔を赤らめている。
「何にしても、これで終わったな」
車の窓から晴れた空を見上げて、零士はホッとした顔で表情を緩めた。
今頃儀翔が仲間たちと、封印を掛けている頃だ。
久々の太陽に、人々も一斉に外に出たのか、道が混み始めた。
渋滞の中で、助手席の零士が軽くいびきをかき始めた。
気が付くと、隣の樹希も目を閉じて、眠っている。
その寝顔を見ていると、明良にも睡魔が襲ってきた。
それは東京を救った三人への、ささやかなご褒美かもしれなかった。
(オロチ編 了)