第55話 失踪
文字数 3,425文字
樹希は机の前で立ち止まった。
いつもと違う違和感を感じる。
椅子を引くと、座面に複数の押しピンがテープで張り付けられていた。
「樹希、平常心」
隣で明良が注意した。
呼吸を落ち着けてから、明良と杏里紗に手伝ってもらって押しピンを剥がして捨てた。
処理を終えて、ようやく席につける。
鞄から教科書とノートを出して、天板の下の棚に入れようとしたとき、
「樹希、棚の中を確かめて」
と、明良に言われた。
棚の中を覗き込むと、異臭がする。
「明良、手伝って」
二人で机を持ち上げて、九十度に傾けると、棚から猫の死骸が出て来た。
気持ち悪さと怒りで、樹希の顔が真っ赤になる。
「フー」
明良が大きくため息をついた。
「僕の机と交換しな」
明良は猫の死骸を拾って樹希の机の上に置き、そのまま洗い場に向かった。
それにしてもおかしい。
これだけ、明良と一緒にドタバタやってるのに、全員が無関心だ。
まるで自分たちが誰にも見えていないようだった。
明良が帰って来た。
「樹希、これをやったのは中本と大槻だ」
「ちょっと、明良、声が大きいよ」
明良はクラス中に聞こえるほど大きな声で、犯人の名を告げた。
「大丈夫だ。誰にも聞こえてない。いや、杏里紗を除くここにいる全員、樹希と僕のことを認識してない。中本と大槻も、もう猫の死骸を入れたことを忘れているはずだ」
「どうして、そんなことに」
「洗い場で天眼を使って調べてみたら、学校全体が、誰の者か分からないが大きな思念で覆われてる。思念の持ち主は、隣のクラスにいる」
明良の説明が終わらぬうちに、生徒が全員立ち上がった。教室に入ったときのように、全員が明良と樹希を敵意に満ちた目で見た。
「おっと、攻撃スィッチが入ったようだ」
樹希の前後の生徒が樹希めがけてパンチを繰り出した。樹希がスェイして避けると、互いのパンチを受けてひっくり返った。
「樹希、本気で打つなよ。操られてるだけだ」
明良に向かった者が、腰を抜かして座り込んだ。明良の思念干渉だ。
数人の男が樹希めがけて突進して来た。
「女の子に何するのよ!」
樹希が正拳ではなく掌底で、男たちを打つ。それでも男たちはひっくり返って尻餅をついた。
「あっちだ」
明良が教室の扉に向かって走り出す。樹希も後に続く。
女子がタックルしてきたので、ジャンプして交わす。
着地すると男が掴みかかって来たので、掌底で飛ばす。
何回かこれを繰り返して、ようやく教室の外に出た。
「何を騒いでいるのかな」
副担任の大杉が見かねてやってきた。
樹希が説明しようとするのを明良が制した。
大杉は手に持った木製の定規で樹希を殴ろうとしたが、足元がすくわれたようにひっくり返った。
「学校全体と言ったろう。油断するな」
「杏里紗、置いて来たけど大丈夫かしら」
「少なくとも、俺たちと一緒にいるよりは安全だ。それよりここだ」
明良は隣の教室の扉に手をかけ横に引いた。
全員が項垂れて座っている中で、沙也が一人立っていた。
「沙也……」
樹希は名前を読んで絶句した。
沙也の瞳は丸ではなく十字になって、口から二つに割れた舌を出したり引っ込めたりしている。
「お前が進藤や他の大勢の人たちを殺したんだな」
「この娘が望んだことだ。我は手を貸したのみ」
沙也の口から出て来た言葉はずっしりとした重みのある男の声だった。
「お前は誰だ」
「我が名はオロチ、豊穣と誕生を司る大地の神だ」
「神、なぜ神が人間を殺す?」
「なぜ? 人間は人間を欲のために殺すではないか。この女もそうだ。自分の欲のために人を殺したいと願った。我はその手助けをしたまでだ」
「人間は他人を殺したいと思っても、実際には殺さない。そうやって心の均衡を保つだけだ」
「それは違う。人間はわずかな欲のために人を殺す」
教室にいる者が一斉に立ち上がった。
また、明良たちを襲わせるようだ。
「明良」
「分かっている」
明良は天眼を開いた。
天眼は光を発し、沙也の身体を照らした。
「鴉か、懐かしいのう。それに異国の力も混じっておるか。なかなかのものだ」
言い終わった瞬間、沙也の顔が元に戻り、教室の床に崩れ落ちた。
他の生徒もバタバタと床に倒れた。
「学校を覆っていた力が消えた」
明良も天眼を閉じた。
「終わったの?」
あっけない幕切れに、樹希がきょとんとしている。
「学校からはオロチは去ったみたいだ」
「沙也たちは?」
「目が覚めたら、何も覚えてなくて戸惑うだろう」
「ふーん、まあとりあえずいいか。相手は神様だもんね」
考えても分からないことを察して、樹希は質問することを止めた。
「あっ、雨だ」
外は突然黒雲に覆われ、激しい雨が降り出していた。
「天気予報、大外れじゃん。いくら梅雨と言っても外し過ぎ!」
言葉とは裏腹に、梅雨にしては激しすぎる雨を見て、オロチの事件はまだ終わってないと、樹希は感じていた。
朝方から突然降り始めた雨は、夕方になっても降りやまず、強い雨勢に携帯用の折り畳み傘はないも同然で、樹希、杏里紗、明良の三人は全身びしょ濡れになって北条屋敷に帰って来た。
樹希は部屋に戻って髪の毛をドライヤーで乾かし、着替えてからリビングに戻ると、智成と礼美、八雲と雷が実家から帰って来ていた。
既に着替え終わった明良が、オロチの事件をみんなに説明していた。
「土地神が暴れだしたか」
智成が何か思い当たるような言い方をした。
「智成は何か知ってるの?」
樹希が遠慮なく尋ねると、珍しく智成が難しい顔で話し始めた。
「土地神の暴走はここだけではない。九州や中国でも同じように暴れ始めた」
「北陸や東北でも同じような事件が起きてるようだ」
八雲が付け加える。
「土地神は人間の悪い思念を受けて凶悪になり、豊かな自然がそれを打ち消す。地方はともかくとして、東京はまずいかもしれないな」
「全国で一斉に暴れだしたとすると、何かきっかけがあったはずだ」
「それはよく分からん。各地で連動して騒ぎ出したという感じではないな」
明良たちは考え込んだ。
神に関しては人の知ってることは、あまりにも少ない。
リーン、通用門の呼び鈴が鳴った。誰かが来たようだ。
しばらくすると、零士が入って来た。
「杏里紗はいるか?」
零士は顔色が変わっている。
「杏里紗なら部屋にいるよ。今日はいろいろあって疲れてるから、休んでるんじゃないかしら」
樹希の言葉が終わらぬうちに、零士が二階に駆け上がる。
ただならぬ雰囲気に、みんな後に続いた。
零士が杏里紗の部屋をノックするが応答がない。
思い切ってドアを開けると、そこには誰もいなかった。
零士は窓際の机に向かい、机の上に置きっぱなしになっている杏里紗のスマホを食い入るように見る。
「どうかしたの?」
樹希が血相が変わっている零士に尋ねる。
「スマホにくっつけてある狛犬のストラップは、俺が杏里紗に贈ったものだ。杏里紗の状態を知らせるように俺の思念が込めてあった。だが、今このストラップから俺の思念が消えている。昨夜から何も知らせてこないので、おかしいと思ったのだが」
「杏里紗はどこに行ったの!」
樹希も顔色を変えて、大声を上げる。
「落ち着け。騒いでも何も見えてこない」
今日二回目の明良の注意に、樹希はハッとして息吹を行う。
「この屋敷にはいないようです」
得意のスピードを活かして屋敷内を調べ上げた雷が、杏里紗の不在を告げた。
「こんな雨の中をいったいどこに行ったんだ」
零士が心配して両手で頭を抱えた。
「井の頭公園のようです」
振り向くと、ドアのそばにコーマが立っていた。九家会議以来、コーマは屋敷内では車椅子を使わなくなった。仕事に加え昂亜の面倒も綾香に頼まれるので、機動力重視に切り替えたようだ。
「杏里紗が出て行くのをツノが見ていました。ツノが追うだけで必死に成るほど凄いスピードで、しかも裸足で走って行ったようです」
「この雨の中を裸足で走ったのか」
その尋常でない姿を思って、零士は心配で天井を見上げた
明良がさっきから思案している。
「ツノは杏里紗に何か憑いてるようなことは、告げませんでしたか?」
「何かが憑いてることは間違いないが、人ではないと告げてた」
「もしかして」
樹希の顔が曇った。
「そうだね。オロチかもしれない」
「オロチなんだそれは?」
零士が険しい顔で詰め寄った。
コーマが憤る零士を宥めながら言った。
「単純な話ではなさそうですね。一階でゆっくり話を聞くことにしましょう」
いつもと違う違和感を感じる。
椅子を引くと、座面に複数の押しピンがテープで張り付けられていた。
「樹希、平常心」
隣で明良が注意した。
呼吸を落ち着けてから、明良と杏里紗に手伝ってもらって押しピンを剥がして捨てた。
処理を終えて、ようやく席につける。
鞄から教科書とノートを出して、天板の下の棚に入れようとしたとき、
「樹希、棚の中を確かめて」
と、明良に言われた。
棚の中を覗き込むと、異臭がする。
「明良、手伝って」
二人で机を持ち上げて、九十度に傾けると、棚から猫の死骸が出て来た。
気持ち悪さと怒りで、樹希の顔が真っ赤になる。
「フー」
明良が大きくため息をついた。
「僕の机と交換しな」
明良は猫の死骸を拾って樹希の机の上に置き、そのまま洗い場に向かった。
それにしてもおかしい。
これだけ、明良と一緒にドタバタやってるのに、全員が無関心だ。
まるで自分たちが誰にも見えていないようだった。
明良が帰って来た。
「樹希、これをやったのは中本と大槻だ」
「ちょっと、明良、声が大きいよ」
明良はクラス中に聞こえるほど大きな声で、犯人の名を告げた。
「大丈夫だ。誰にも聞こえてない。いや、杏里紗を除くここにいる全員、樹希と僕のことを認識してない。中本と大槻も、もう猫の死骸を入れたことを忘れているはずだ」
「どうして、そんなことに」
「洗い場で天眼を使って調べてみたら、学校全体が、誰の者か分からないが大きな思念で覆われてる。思念の持ち主は、隣のクラスにいる」
明良の説明が終わらぬうちに、生徒が全員立ち上がった。教室に入ったときのように、全員が明良と樹希を敵意に満ちた目で見た。
「おっと、攻撃スィッチが入ったようだ」
樹希の前後の生徒が樹希めがけてパンチを繰り出した。樹希がスェイして避けると、互いのパンチを受けてひっくり返った。
「樹希、本気で打つなよ。操られてるだけだ」
明良に向かった者が、腰を抜かして座り込んだ。明良の思念干渉だ。
数人の男が樹希めがけて突進して来た。
「女の子に何するのよ!」
樹希が正拳ではなく掌底で、男たちを打つ。それでも男たちはひっくり返って尻餅をついた。
「あっちだ」
明良が教室の扉に向かって走り出す。樹希も後に続く。
女子がタックルしてきたので、ジャンプして交わす。
着地すると男が掴みかかって来たので、掌底で飛ばす。
何回かこれを繰り返して、ようやく教室の外に出た。
「何を騒いでいるのかな」
副担任の大杉が見かねてやってきた。
樹希が説明しようとするのを明良が制した。
大杉は手に持った木製の定規で樹希を殴ろうとしたが、足元がすくわれたようにひっくり返った。
「学校全体と言ったろう。油断するな」
「杏里紗、置いて来たけど大丈夫かしら」
「少なくとも、俺たちと一緒にいるよりは安全だ。それよりここだ」
明良は隣の教室の扉に手をかけ横に引いた。
全員が項垂れて座っている中で、沙也が一人立っていた。
「沙也……」
樹希は名前を読んで絶句した。
沙也の瞳は丸ではなく十字になって、口から二つに割れた舌を出したり引っ込めたりしている。
「お前が進藤や他の大勢の人たちを殺したんだな」
「この娘が望んだことだ。我は手を貸したのみ」
沙也の口から出て来た言葉はずっしりとした重みのある男の声だった。
「お前は誰だ」
「我が名はオロチ、豊穣と誕生を司る大地の神だ」
「神、なぜ神が人間を殺す?」
「なぜ? 人間は人間を欲のために殺すではないか。この女もそうだ。自分の欲のために人を殺したいと願った。我はその手助けをしたまでだ」
「人間は他人を殺したいと思っても、実際には殺さない。そうやって心の均衡を保つだけだ」
「それは違う。人間はわずかな欲のために人を殺す」
教室にいる者が一斉に立ち上がった。
また、明良たちを襲わせるようだ。
「明良」
「分かっている」
明良は天眼を開いた。
天眼は光を発し、沙也の身体を照らした。
「鴉か、懐かしいのう。それに異国の力も混じっておるか。なかなかのものだ」
言い終わった瞬間、沙也の顔が元に戻り、教室の床に崩れ落ちた。
他の生徒もバタバタと床に倒れた。
「学校を覆っていた力が消えた」
明良も天眼を閉じた。
「終わったの?」
あっけない幕切れに、樹希がきょとんとしている。
「学校からはオロチは去ったみたいだ」
「沙也たちは?」
「目が覚めたら、何も覚えてなくて戸惑うだろう」
「ふーん、まあとりあえずいいか。相手は神様だもんね」
考えても分からないことを察して、樹希は質問することを止めた。
「あっ、雨だ」
外は突然黒雲に覆われ、激しい雨が降り出していた。
「天気予報、大外れじゃん。いくら梅雨と言っても外し過ぎ!」
言葉とは裏腹に、梅雨にしては激しすぎる雨を見て、オロチの事件はまだ終わってないと、樹希は感じていた。
朝方から突然降り始めた雨は、夕方になっても降りやまず、強い雨勢に携帯用の折り畳み傘はないも同然で、樹希、杏里紗、明良の三人は全身びしょ濡れになって北条屋敷に帰って来た。
樹希は部屋に戻って髪の毛をドライヤーで乾かし、着替えてからリビングに戻ると、智成と礼美、八雲と雷が実家から帰って来ていた。
既に着替え終わった明良が、オロチの事件をみんなに説明していた。
「土地神が暴れだしたか」
智成が何か思い当たるような言い方をした。
「智成は何か知ってるの?」
樹希が遠慮なく尋ねると、珍しく智成が難しい顔で話し始めた。
「土地神の暴走はここだけではない。九州や中国でも同じように暴れ始めた」
「北陸や東北でも同じような事件が起きてるようだ」
八雲が付け加える。
「土地神は人間の悪い思念を受けて凶悪になり、豊かな自然がそれを打ち消す。地方はともかくとして、東京はまずいかもしれないな」
「全国で一斉に暴れだしたとすると、何かきっかけがあったはずだ」
「それはよく分からん。各地で連動して騒ぎ出したという感じではないな」
明良たちは考え込んだ。
神に関しては人の知ってることは、あまりにも少ない。
リーン、通用門の呼び鈴が鳴った。誰かが来たようだ。
しばらくすると、零士が入って来た。
「杏里紗はいるか?」
零士は顔色が変わっている。
「杏里紗なら部屋にいるよ。今日はいろいろあって疲れてるから、休んでるんじゃないかしら」
樹希の言葉が終わらぬうちに、零士が二階に駆け上がる。
ただならぬ雰囲気に、みんな後に続いた。
零士が杏里紗の部屋をノックするが応答がない。
思い切ってドアを開けると、そこには誰もいなかった。
零士は窓際の机に向かい、机の上に置きっぱなしになっている杏里紗のスマホを食い入るように見る。
「どうかしたの?」
樹希が血相が変わっている零士に尋ねる。
「スマホにくっつけてある狛犬のストラップは、俺が杏里紗に贈ったものだ。杏里紗の状態を知らせるように俺の思念が込めてあった。だが、今このストラップから俺の思念が消えている。昨夜から何も知らせてこないので、おかしいと思ったのだが」
「杏里紗はどこに行ったの!」
樹希も顔色を変えて、大声を上げる。
「落ち着け。騒いでも何も見えてこない」
今日二回目の明良の注意に、樹希はハッとして息吹を行う。
「この屋敷にはいないようです」
得意のスピードを活かして屋敷内を調べ上げた雷が、杏里紗の不在を告げた。
「こんな雨の中をいったいどこに行ったんだ」
零士が心配して両手で頭を抱えた。
「井の頭公園のようです」
振り向くと、ドアのそばにコーマが立っていた。九家会議以来、コーマは屋敷内では車椅子を使わなくなった。仕事に加え昂亜の面倒も綾香に頼まれるので、機動力重視に切り替えたようだ。
「杏里紗が出て行くのをツノが見ていました。ツノが追うだけで必死に成るほど凄いスピードで、しかも裸足で走って行ったようです」
「この雨の中を裸足で走ったのか」
その尋常でない姿を思って、零士は心配で天井を見上げた
明良がさっきから思案している。
「ツノは杏里紗に何か憑いてるようなことは、告げませんでしたか?」
「何かが憑いてることは間違いないが、人ではないと告げてた」
「もしかして」
樹希の顔が曇った。
「そうだね。オロチかもしれない」
「オロチなんだそれは?」
零士が険しい顔で詰め寄った。
コーマが憤る零士を宥めながら言った。
「単純な話ではなさそうですね。一階でゆっくり話を聞くことにしましょう」