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文字数 3,418文字

荒野に一人取り残されて以降、テスが他人の姿を目にしたのは、丸一日歩き続けて眠り、また目を覚ましてからのことでした。

木立の向こうに、鋭い三角屋根の教会堂を見つけたのです。

教会堂の近くには、盛り土の上の柵に囲まれた、小さな村がありました……。

『律法が霊的なものであることを、わたしたちは知っています』

村は打ち捨てられて久しいようでした。

聞こえてくる音は、柵と柵の間、家と家の間を吹き抜ける風の音、そして、どこかで開いたままになっている戸板が風にあおられバタン、ギィ、バタン、と壁にぶつかる音ばかり。

人が生活している音も臭いもありません。

『しかし、わたしは肉の弱さをまとった人間で、罪に売り渡されたものです』
ところが、風に乗って女の声が聞こえます。
『私は自分の行っていることが分かりません。なぜなら、自分が望んでいることはせず、かえって憎んでいることをしているからです――』

村と教会堂の間も木立で遮られています。

足音をたてぬよう細心の注意を払いながら、テスは声をたどって木々の合間を縫い歩きました。

少し進むと、影が薄れ、木々の向こうが見渡せるようになりました。
そこは教会堂の裏手の墓地でした。

修道者の衣に身を包んだ中年の女が、手にした本を読み上げながら墓の間をゆっくり歩いています。

『――そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに住んでいる罪なのです。

わたしは自分のうちに、すなわち、わたしの肉のうちに、善が住んでいないことを知っています。

善いことをしようという意志はありますが、行いが伴いません。

わたしは自分が望む善いことをせず、望まない悪いことをしているのです』

夕日を浴びるその女の髪は、テスと同じ暗緑色。
『だが、もし、わたしが自分の望まないことをしているとすれば、それを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに住んでいる罪なのです……』

女はパタンと音を立てて本を閉じました。

そして、聖職者にふさわしい、柔和で慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべ、撫でるように墓の一つに手を置き、こう締めくくりました。

わかりましたか? ガキども。

女は前を向き、木立から出てきたテスを見ました。

テスが二、三歩歩み寄っても、微笑んだまま動きません。

テスは意を決してその女のすぐ前まで歩いていきました。

少し教えてほしいんだ。

ここはどこだ?

*:・。,・゚'・:*:・。,墓です。,。・:*:・゚'★,。・:*
そうですね。

ここは、とりわけ愛されずに死んだ子供たちの墓です。

私はその霊に、愛されずに死んだことについて納得させなければいけません。

そのために、ここにいるのです。

テスは頷き、とりあえず女に話しを合わせました。
神に(つか)える者として愛してやろうっていうんじゃないんだな。
親の代わりに神を求めること、愛情に満ちた母乳を神に要求することは、神学ではありません。
すると、教会の裏口の戸の奥から、よろめき歩く軽い足音が聞こえてきました。
隠れてください。

テスは大気の力を借りて跳躍し、裏口の戸の庇の上でくるりと回転し、そこに着地しました。

裏の戸が開き、痩せ細った老人が出てきました。老人は覚束(おぼつか)ない足取りで女に歩み寄りました。

今、誰か()なんだか。
女が答えずにいると、老人は墓に手をつきながら、緑の髪の女へとさらに近付いていきます。
アルカディエーラ、アルカディエーラ、今……。
そして、十分に距離が縮まると……。
アルカディエーラと呼ばれた女は老人の手を邪険に払いのけ、うっとりするような柔和な笑顔のまま、老人の僅かに残った真っ白い後ろ髪を鷲掴みにし、顔を上げさせました。
何かご用ですか? カス。
(!?!?)
腰の曲がったその老人は、(ひさし)の上で伏せるテスに背を向けているため、テスにその顔は見えません。ですが怯えているはずです。
アルカディエーラ、人が……。
アルカディエーラは微笑みながら膝を上げ、老人の顔面を膝頭(ひざがしら)に叩きつけました。
今日はどの歯をへし折ってほしいのですか? クズ。
…………。

それから、老人の頭をまた上げさせて、腕を動かし、強引に左右の様子を見させました。

実に優しそうに言葉を続けます。

妄言ばかり言っていないで、引っこんでなさい、白痴。
……………………。

老人は血まみれの顔で、よろめき、苦しげに(うめ)きながら教会堂の中へ戻っていきました。

裏口の戸が閉まると、テスは(ひさし)から飛び降りました。

アルカディエーラは完璧な笑顔で、テスが下りてくるのを待っていました。

ああ…………

……その。…………。

…………なんであんなことを?

あれは私のです。

私が幼い頃から、私を性の対象として見てきた倒錯者です。ああした扱いを受けるのは、彼の自業自得なのです。

彼女が語る『神学』とやらは……それが果たして神学であるかどうかは別として……彼女自身の親への恨みに由来するものだろうとテスは考えました。
さっきの話だけど、もし神さえも愛さないなら、愛されずに死んだ子供たちの霊は誰が救うんだ?
この子たち自身です。
アルカディエーラは白い石の墓標を一瞥(いちべつ)します。
神に愛されたいのなら、まずは自分自身を愛さなければなりません。何故だかわかりますか?

神は、全ての人間を価値ある尊いものとして作りました。神に失敗作はあり得ないのですから。

ところが、自分自身を愛さず、そして全ての他人を愛さぬとなると、それは神に失敗作があると言っていることになりませんか?

(どの口が言ってるんだ?)
テスは、アルカディエーラが老人に与えた仕打ちを思い出しながらも黙って話の続きを待ちました。

誰しもが、そして己もまた、神の無数の側面の一つ、神の天性の一つ、神の一欠け、神の一しずくであるのですから、誰もが己自身を認め、愛さなければなりません。

己の内の神を愛することによって、神に己を愛させなければならないのです。

そういうわけで、神を愛し尊ぶのなら、まず自分で自分をよくする努力をしなければなりません。

アルカディエーラはいきなり、手にした聖典で墓をぶん殴りました。

いいですか? とはかくも厳しいものなのです。

たかだか親から愛されなかったくらいのことで、ガタガタ抜かしてはいけません。

忌まわしい、嫌な影が、二人の上を飛びました。

テスの肌を鳥肌が覆います。

真っ黒い、翼あるものが、咄嗟(とっさ)に見上げた空を舞っていました。
それは鳥に見えますが、正しい鳥ではありません。
化生(けしょう)とも違います。

気配でわかります。

言葉つかいがいます。
あれは、その使いです。
(追っ手か!?)

テスは急いで墓地から走り去り、小さな教会堂をぐるりと半周してその玄関口に来ました。

教会堂の前庭からは、丘の下を一望できました。

偽物の鳥が、丘の下の一台のジープへと向かっていき、消えました。

七人の男たちがジープを下りて、教会堂を目がけて丘を駆け上ってきます。

木立の向こうの低地にいる彼らからは、まだテスの姿は見えていないはずです。

それでも確かにテスがいることを、鳥越しの視界によって知っています。

足取りに迷いがありません。

言葉つかいである彼らなら、その位置からでもテスへの攻撃を開始できるはずです。

アルカディエーラがいるから手控(てびか)えているのでしょう。

アルカディエーラが追いついて来て、テスの横に並びました。
あら、お友達?
敵だ。
あなたを殺しに来たのかしら?
ああ。
……。
……『全ての他人を愛さなければならない』のなら、こういうときどうするんだ?
皆殺しになさい、ぼけなす。
思わず目を丸くするテスに、彼女は重ねて言いました。
いいですか? あの人たちは、あなたを卑しめ、あなたを認めず、あなたの命を奪うために来た人たちです。
他者もまた神の一しずくなんじゃないのか?

寝言は寝てからほざきなさい、ど阿呆(あほう)。人の姿をしている(うち)は人です。

いいですか?

真に敵を尊ぶことができるのは、人ではなく、所詮(しょせん)神だけです。そのことで、また、敵の命を奪うことで、自分を責めてはいけません。

ああ……まあ……。
神の教えがどうであれ、あなたの人生は、あなたの人生じゃないですか。

アルカディエーラは丘を駆け上ってくる男たちの姿を見据えます。

敵を見なさい。

現実逃避をしてはいけません。

気取り澄ましたことを言う前に、まずは己の人生を生きるのです!

全身全霊で!!!

―つづく―
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