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文字数 2,765文字

沼を離れ、荒れた石畳の道を歩くうちに、霧の向こうに見張り塔の尖った屋根が見えてきました。
張り巡らされた木の柵と、その向こうの建物の影も、ぼんやり見えるようになってきました。

見張り塔に人はいないようです。

村に接近するテスを見咎(みとが)める人はいません。

ですが、ぼうっとしていた旅人テスの目がいきなり鋭くなり――

素早く振り向きます。
誰だ。

 尋ねてから、尋ねた相手を確かめて、テスは動揺しました。
 少女だったのです。

 年の頃は十五、六といったところでしょう。
 大きな目でテスを見つめていました。

 凍りついた目は、剥き出しの冷たさで存在感を放っています。

 髪は、霧に煙る黄昏にあってもそうとわかるほど、はっきりした青でした。

気付いてたんだ。

ぼーっとしてるかと思った。

少女は革表紙の大きな本を、両手で胸に押し付けるように抱いていました。
こんな所で下りる奴、普通いない。どうして下りた? 運賃がなくなったか。

少年を装うように、少女は低い声で話します。

見かけ通りの非力な少女ではなさそうだ、とテスは考えます。

この無人の荒野にあって、あまりにも落ち着き払っているからです。

ふ、と目の力を緩め、答えました。
なんとなく。

フン……

だったら教会で施しを受けるといい。

名前は?

テス。

冷たい風が渡ります。

テスの熱を奪います。

首をぎゅっと竦めます。

少女は名乗りません。

なのでテスは尋ねます。

……お前は?
キシャ。

少女が身じろぎしました。

本を抱く手が動き、題名が読み取れるようになりました。

金色の文字が、茜の霧を照り返します。

亡国記(ぼうこくき)
……私はキシャ。キシャ・ウィングボウ。

キシャは村へと爪先を向けました。

テスはそっと身構えました。ですが、キシャは彼に危害を加える素振りは見せませんでした。

案内してやる。
(ああ……そうか)
テスは気付きました。

 抑揚に欠けた声。
 質問への答え方。
 表情を変えぬことも。

 キシャは、自分を真似ているのです。

キシャの長い髪を追って、村を囲む柵を超えながら、テスは尋ねました。

なあ……。

お前は、『影』か?

だとしたら。

テスは思います。

――だとしたら俺も、あんなに凍りついた目をしているのか?

キシャが動きを止めます。

すぐには振り返りません。

背中で、重い威圧を放っています。

後悔させてやるとばかりに。

恐怖せよと。


……キシャは答えました。

二度と当てようとするな。

二人はそれから黙って、砂が打たれた無人の村を横切っていきました。

村の広場を越え、連なる屋根の向こう、夕闇を乳白色に溶かした霧の先に、聖堂のいくつもの尖塔が見えるようになりました。

時を止めた鳩時計のそばを通り過ぎながら、テスは疑問を口に出しました。

どう考えてもおかしい。
村の大きさに比べて教会が大規模すぎる。神殿……大聖堂と言ってもいい。どうしてあんなものが?
馬鹿だから。

その答えの意味をはかりかねているテスを置いて、キシャが走り出しました。

テスもついていきました。

村の奥に立つ教会まで来れば、圧倒されるほどの大聖堂でした。

テスはその前階段まできて足を止めました。

見上げても、聖堂の高さを目測できません。

遠い屋根は霧の中に隠れています。

偉い聖職者たちがきた。

自分だけは助かろうとした。

それで聖堂を建てた。

神を敬うふりを見せれば救いを得られると思ってた。

立派な聖堂を建てれば神はそれを(よみ)したまうと本気で信じてた。

馬鹿だから。

早口になっていきます。

そいつらは人々を働かせた。

人々も働いた。

競うように働いた。

他にすることがなかったから。

どいつもこいつもろくでなしだから。

己自身が救済になろうとした。

でも無理がある。観念、概念、すなわち非物質の言語へと移り変わるにはずば抜けた知性と受容性と神との同一性が必要。物質の言語に移り変わるのとはわけが違う。

例えば一羽の鳥がヒトという言語――。

すると、大聖堂の扉が内側からゆっくりと開き始めました。

テスが息をのみ、腰を落として力を溜める横で、キシャは唾をのんでから話を続けました。

――だからほら、結局彼らは物質になるしかなかった。

見て! 

この建物、自我があるだろ!

セージの葉を焚く匂いが中から流れてきました。
キシャは心のない目をしています。

口角(こうかく)だけ大きく上げて笑います――

入ろう?

テスは身構えるのをやめて、白い石の前階段を一段ずつ上がり始めました。

今度はテスが前を、キシャが後ろを歩くかたちとなりました。

神殿のエントランスは、先ほど通り抜けてきた村の広場が丸ごと入るだけの広さがありました。

正面の通路の両脇に円柱が立ち並び、大理石の床が続く先に、次の大扉が黒く見えます。

照明はありませんが、縦長の窓が壁際に並んでいるため、暗さは感じません。

進め、

というように、エントランスの奥で、再び扉が勝手に開きました。

裾広がりの階段が、扉の先に広がっていました。右手側の壁面が全て窓になっており、窓の間に等間隔に円柱が並びます。

霧のない日には、さぞや西日が眩しいことでしょう。

人は一人もいないのか?
いるよ。いくらでも。

テスは慎重に階段を上り始めました。

後ろを歩きながら答えるキシャの声に、冷たい笑いが混じります。

あのね、入り口の松明(たいまつ)台。あいつのことを覚えてるよ。

望んで処刑人になったの。

火炙りが好きだったんだ。

それまで強がってた異端宗派の信奉者が、いざ足許(あしもと)に火がついたら泣き叫んで改宗を叫ぶのが最高だったんだって。

それでいつまでもいつまでも火を焚いていられるようになったんだ。

自分自身が焼かれながら。

……。
あとね、この先の大廊下の赤い絨毯(じゅうたん)の一家。あいつら、最高に馬鹿なんだ。

もとは染物屋でね、大口の注文を受けたは良いけど、染料を買う金がなかったんだ。頭悪いだろ?

傑作なのがさ、そこであいつら、祈ったんだよ。神のための神殿を建てるんだから神が助けてくれるって。それで自分たちが絨毯になったんだ。

それとね――

キシャは言葉を切り、腕を振って窓を指しました。

そこの()め殺しの窓。こいつはもの凄いケチだったんだ。

大雪の日にね、宿賃の尽きた旅人を裸で閉め出したの。

窓の外で凍えているのを見て笑ってね。

そして――

……人間の形をした人間がいい。
キシャのお喋りが止まりました。
白けた気配が放たれて、静寂が戻ります。
衣擦(きぬず)れの音、靴音が、高い天井に木霊(こだま)します。
階段の終わりが見えてきて、キシャが不機嫌に呟きました。
おまえ、それ、わがままだよ。

そうか……。

……わがままなのか……。

階段の上の空間から、野太い咆哮(ほうこう)が聞こえてきました。

人間の声ではありません。ですが、如何(いか)なる獣の声にも似ていません。

黒く邪悪な圧力を感じさせる、低く腹に響く声、化け物の声でした。

―つづく―
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