2-4
文字数 3,695文字
誰かに呼ばれた気がして目が覚めました。
夢でしょうか。
暖かい気配がそばにいたように思います。
ふと、目が枕もとの半月刀に吸い寄せられました。
柄頭に彫刻があります。
『アラク』
テスはそれが誰だかわかりません。
だけど、夢の中でなら知っていた気がするのです。
頭さえ通らないような小窓から、固いベッドに
テスは白いゴムで後ろ髪を結び、マントとストールを着込みます。寒さは変わりません。
暖かい気配は眠りの夢と共に消えてしまいました。
誰かが歩いてきます。
老婆は、覚えのある冷たい気配をまとっています。
そして、胸には『亡国記』を抱えていました。
すると、家一つ叩き潰すが如き轟音が、そう遠くないところから聞こえました。
男女の金切り声が続いて起こります。
空気が恐怖で震えます。
老婆が唇を片方だけ吊り上げる、嫌な笑いを見せました。
でもすぐに誰かが走ってきて、鍵と鎖を外し始めました。
戸が開きました。
黄色い光に染まった雲が空一面を覆っています。
雲の中から真っ黒い二本の腕が伸びて、村の家々のすぐ上に浮いていました。
しなやかな女性の腕です。
二本の腕は家々の屋根の上で交差し、離れ、また交差し、空気をかき回していました。静かな舞いを連想させる
指が、一つの家の屋根を撫でました。
指はその屋根を這い伝い、壁にそって下りていきます。その動きにあわせて腕が伸びました。肩も肘もない、のっぺりした腕です。
指は、壁を伝って一つの窓に入っていきました。窓の向こうから女と子供の泣き叫ぶ声が聞こえ――。
飛んで屋根に上がり、その上を走り続け、屋根と屋根の間隔が開いているところは、風の助けを借りて飛び越えて化生に近付いていきます。
空中をかき回す二本の腕も、テスという餌に気付いて動きを止めました。
テスは化生の真下にある家の屋根に飛び乗り、両手で銃を構えて掌を片方撃ちました。
銃弾を浴び、掌がひらひらと踊りました。すると、指や関節の部分に、何か白いものが見えた。
歯です。
口があるのです。
先ほど悲鳴をあげた人は、あれに食われたのでしょう。
二本の腕が揃ってテスに伸び、蚊でも叩くかのように、左右から掌で挟もうとしました。
真上に跳び上がって避け、テスは銃を化生の手首に向けて立て続けに連射します。
地面に体を接していない状態ゆえに、かなりの反動を体に受けました。
肩に痛みを感じ、顔をしかめ。
それでも振り回される腕をかわし、攻撃を続けます。
時間稼ぎさえできればいいのです。
飛び上がり、落下し、屋根から屋根へ飛び移り。
黒く大きな両手が、一つの家の屋根をぐしゃりと押し潰しました。
女の人が叫びます。
怒りの声が、辻から屋根の上のテスに突き刺さります。
老婆がこう語るのが、空を切る腕の音や銃声の
テスは戦い続けていました。
腕は痺れ、肩には感覚がなく、銃を撃てば痛みが走ります。構わず撃てば、銃を持った両手が顔の前に跳ね上がってきます。
振り回される腕を空中で回避したテスは、着地すべき家の屋根が破壊されていることに気付きました。
やむなく路上に降り、道を走り抜け、まだ壊れていない屋根の上に飛び乗り、すぐに化生の注意を自分に引きつけるべく銃を撃ち、体が大きくよろめいて、銃を落としそうになったとき――。
戦いのさなかだというのに、悪魔めいた疑問が頭に浮かびました。
ヘロヘロなのは間違いありません。肩が壊れそうです。
それでも。
もう撃ちたくない。
だけど撃つしかない。
撃たないわけにはいかない。
だけど、だけど、
……そろそろもう撃てない。
誰かが頭の中で叫びました。
老いの気配が兆す男の声です。
夢の気配。
あの温かい気配が背中に触れました。背後から、肩に、腕に、そして指先にまで、温かさが広がっていきます。
痛みを吸い取り、庇い、支えるように。
頭の中も、目の前も、真っ白になって、テスにはわかったのです。
夢は夢であるがゆえに、妄想でも幻覚でもない、と。
気付けば化生が消えていました。
見上げれば、二本の腕、二つの掌は、ずっと上のほうで何もない場所を撫でていました。
それが結界の表面、村を守る、修復された天蓋です。
掌は、結界を押し、壊そうとしていました。
不安を誘う光景です。
老婆が、作業をしていた辻で横ざまに倒れていました。
胸にしっかり抱えていた書物、キシャ、『亡国記』は消えていました。
老婆を抱き起こした男が脈を取り、震える声で告げました。
結界修復の負荷に耐えられなかったのか、またはキシャ、あるいはあの書物の憑依に耐えられなかったのか、テスにはわからないし、両方かもしれません。
結界はようやく一個、しかも村人たちと修復師の最初の契約にはなかったであろう、壊れたばかりの一個が直されただけでした。修復師はもういません。
彼らに背を向けて、村の出入り口に歩いて行きます。
背後で低いざわめきが生じました。
こんなやり方じゃもう駄目なんだ。
これからは、自分たちのことは自分たちで何とかしないと……。
数々の声が後ろ指をさします。