2-4

文字数 3,695文字

――ス……
――ステス……
――
「!」

誰かに呼ばれた気がして目が覚めました。

夢でしょうか。

暖かい気配がそばにいたように思います。

ふと、目が枕もとの半月刀に吸い寄せられました。

柄頭に彫刻があります。

『アラク』

テスはそれが誰だかわかりません。

だけど、夢の中でなら知っていた気がするのです。

頭さえ通らないような小窓から、固いベッドに黄昏(たそがれ)の光が差していました。

テスは白いゴムで後ろ髪を結び、マントとストールを着込みます。寒さは変わりません。

暖かい気配は眠りの夢と共に消えてしまいました。

誰かが歩いてきます。

昨日、食事の出し入れが行われた小窓から、老婆が中を覗き込みました。
キシャだな。

老婆は、覚えのある冷たい気配をまとっています。

そして、胸には『亡国記』を抱えていました。

今度の憑依先はその人か。
そうさ。
それにしても、結構な待遇だな。こんな扱いをする連中を本当に助けてやるつもりか?
あの人たちは俺に助けてほしいと思っている。
おまえは助けてやりたくないと思うこともできる。
……。

……まあ、よかろう。それでおまえ、あのデカブツと本当にやり合うつもりか?

滅ぼすことはできない。そうできれば一番だけど。俺は言葉つかいが修復作業を行う間、化生(けしょう)を引きつけておくだけだ。
よくそのような危険を冒す気になったものだね。

……どうにか、する。

それよりキシャ。どうしてお前は体を乗り換えてまで俺についてくるんだ?

おまえは面白い。それだけだ。
面白いものは、いずれ飽きる。
だが今すぐじゃないだろう?

すると、家一つ叩き潰すが如き轟音が、そう遠くないところから聞こえました。

男女の金切り声が続いて起こります。

空気が恐怖で震えます。

老婆が唇を片方だけ吊り上げる、嫌な笑いを見せました。

また結界が壊れたようだね。
テスは窓から離れて戸に飛びつきました……が、外から鍵がかかっており、鎖がわたされています。
でもすぐに誰かが走ってきて、鍵と鎖を外し始めました。

戸が開きました。

お、追い払ってくれっ!!
どこにいる?
答えを待つまでもなく、外に出ればすぐにわかりました。

黄色い光に染まった雲が空一面を覆っています。

雲の中から真っ黒い二本の腕が伸びて、村の家々のすぐ上に浮いていました。

しなやかな女性の腕です。

二本の腕は家々の屋根の上で交差し、離れ、また交差し、空気をかき回していました。静かな舞いを連想させる所作(しょさ)で、指が優雅に動いています。

指が、一つの家の屋根を撫でました。

指はその屋根を這い伝い、壁にそって下りていきます。その動きにあわせて腕が伸びました。肩も肘もない、のっぺりした腕です。

指は、壁を伝って一つの窓に入っていきました。窓の向こうから女と子供の泣き叫ぶ声が聞こえ――。

――すぐに聞こえなくなりました。

村の中心地には一番頑丈に結界を巡らせたんだけどねぇ。

やれやれ、どうしてこんな破れかたをしたんだか。

先生! いらしてたんですか!
この老婆が、結界修復に呼ばれた言葉つかいだったようです。
さて。手伝ってくれるかね、若いの。
テスは返事をせずに走り出しました。

飛んで屋根に上がり、その上を走り続け、屋根と屋根の間隔が開いているところは、風の助けを借りて飛び越えて化生に近付いていきます。

空中をかき回す二本の腕も、テスという餌に気付いて動きを止めました。

テスは化生の真下にある家の屋根に飛び乗り、両手で銃を構えて掌を片方撃ちました。

銃弾を浴び、掌がひらひらと踊りました。すると、指や関節の部分に、何か白いものが見えた。

歯です。

口があるのです。

先ほど悲鳴をあげた人は、あれに食われたのでしょう。

二本の腕が揃ってテスに伸び、蚊でも叩くかのように、左右から掌で挟もうとしました。
真上に跳び上がって避け、テスは銃を化生の手首に向けて立て続けに連射します。

地面に体を接していない状態ゆえに、かなりの反動を体に受けました。

肩に痛みを感じ、顔をしかめ。

それでも振り回される腕をかわし、攻撃を続けます。

時間稼ぎさえできればいいのです。

飛び上がり、落下し、屋根から屋根へ飛び移り。

黒く大きな両手が、一つの家の屋根をぐしゃりと押し潰しました。

女の人が叫びます。

私の家が!
ちらりと見ると、辻で、言葉つかいの老婆が木の杭に文字を書きこんでいく様子が見えました。
どうしてくれるのよ、よそ者! 私の家が壊れたじゃない!
ざまぁみろじゃん! あんた、あたしの家の栗の木に火ぃつけたことあるじゃん。バチが当たったんだよ!
あの少女の性格が悪いのはどうやら元からのようだ、と、化生の気を引き続けながらテスは思いました。
冗談じゃねえ! 俺の家の屋根から下りろ!

怒りの声が、辻から屋根の上のテスに突き刺さります。

老婆がこう語るのが、空を切る腕の音や銃声の合間(あいま)に聞こえてきました。

たぶん、あの彩喰(あやく)いはもう、形喰(かたく)いになるねぇ。
先生、形喰いになったらどうなるんですか?
彩喰いは、記憶を持つ生き物全てを食う。形喰いは……
……形ある全てのものを食う。
形あるすべて? じゃあ、家も? 村も?
そうとも。どこにも逃げ隠れできんぞ?
冗談じゃない! なあ、あいつを退治してくれ! 退治してくれよぉ!
最後の一言は、どうやらテスに向けられたようです。

テスは戦い続けていました。

腕は痺れ、肩には感覚がなく、銃を撃てば痛みが走ります。構わず撃てば、銃を持った両手が顔の前に跳ね上がってきます。

先生! あとどれくらいで終わるんですか! 早くしないと俺の家まで壊されちまう!
もうちょっと、もうちょっと。
おおい、ちょっと、その腕を結界の外に引っこませてくれんかね! その隙に閉じるでねえ!
どうやら、作業は仕上げの段階に入っているようです。

振り回される腕を空中で回避したテスは、着地すべき家の屋根が破壊されていることに気付きました。

やむなく路上に降り、道を走り抜け、まだ壊れていない屋根の上に飛び乗り、すぐに化生の注意を自分に引きつけるべく銃を撃ち、体が大きくよろめいて、銃を落としそうになったとき――。

あいつもうヘロヘロじゃない!
あざ笑う声が聞こえました。
テスは再び屋根の上を跳び、化生に近付いていきます。自分を笑うその人達を守るために。
戦いのさなかだというのに、悪魔めいた疑問が頭に浮かびました。
   ――どうしてこの人達を守らなければならないんだろう?

ヘロヘロなのは間違いありません。肩が壊れそうです。

それでも。

人を食う化け物を見ると、撃たずにいられないのです。

もう撃ちたくない。

だけど撃つしかない。

撃たないわけにはいかない。

だけど、だけど、

……そろそろもう撃てない。

銃口を上げます。
この一撃で最後かもしれません。
そのとき……
マリステス!!!
……!!!

誰かが頭の中で叫びました。

老いの気配が兆す男の声です。
夢の気配。
あの温かい気配が背中に触れました。背後から、肩に、腕に、そして指先にまで、温かさが広がっていきます。

痛みを吸い取り、庇い、支えるように。

声に打ち払われて、邪魔な思念が消えました。
頭の中も、目の前も、真っ白になって、テスにはわかったのです。
夢はあくまで夢であり、非存在ではない。

夢は夢であるがゆえに、妄想でも幻覚でもない、と。

気付けば化生が消えていました。

見上げれば、二本の腕、二つの掌は、ずっと上のほうで何もない場所を撫でていました。

それが結界の表面、村を守る、修復された天蓋です。

掌は、結界を押し、壊そうとしていました。

不安を誘う光景です。

あっ!
先生! しっかりしてください!

老婆が、作業をしていた辻で横ざまに倒れていました。

胸にしっかり抱えていた書物、キシャ、『亡国記』は消えていました。

老婆を抱き起こした男が脈を取り、震える声で告げました。

死んでる……。
たちまち村人たちが集まってきました。
ああ、先生、心臓が弱ってたから……。

結界修復の負荷に耐えられなかったのか、またはキシャ、あるいはあの書物の憑依に耐えられなかったのか、テスにはわからないし、両方かもしれません。


結界はようやく一個、しかも村人たちと修復師の最初の契約にはなかったであろう、壊れたばかりの一個が直されただけでした。修復師はもういません。

テスが辻へ歩いていくと、様々な目、とりわけ気まずさと、媚びるような目がテスを迎えました。でも、テスへの期待を明確に声に出す人はいませんでした。
テスは銃をホルスターに収めました。
じゃあ、契約終了ってことで……。

彼らに背を向けて、村の出入り口に歩いて行きます。

背後で低いざわめきが生じました。

あの野郎がさっさと片付けねぇから、先生が……。
立ち去るテスの足許(あしもと)に、一人の村人が呪いをこめて唾を吐きました。

こんなやり方じゃもう駄目なんだ。

これからは、自分たちのことは自分たちで何とかしないと……。

自分たちで? できるわけないだろう!
アミルダの横を通り過ぎる時、彼女は忌々しげに舌打ちしました。
数々の声が後ろ指をさします。
私の家を直して行きなさいよ!
役立たず!
テスは完全に村を出るまで、足を止めませんでした。
―つづく―
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