6-5

文字数 3,489文字

この子供の体を使う。……自分が選んだ戦いかたの結果を目に焼き付けろ。

本を抱くために胸の前で交差していたサイアの両腕が、解き放たれました。

テスは冷たい予感に()き動かされて身を乗り出します。

やめ――

本は足許(あしもと)に落下することなく、キシャの――サイアの――頭上に浮きました。

いつか沼のほとりで見たように、空中高くで重たげな表紙を開き、光を放ちます。
光に刺され、キシャの爪先で、影の進行が止まりました。

そして、恐怖の目がテスを迎えます。
サイアの両目に宿るのは、沼のほとりで見た十六歳の少女の目。

八百年を経ていない、本来のキシャの目。

あなたは……。

それでも、声は幼いサイアです。

体はサイアです。

細く短い子供の指を持つ手が、テスにむかって伸びてきます。

テスは無意識に、(すが)りつくようなその手を取ってやろうとしました。

指先がふれあう直前、キシャに憑依されたサイアの体が後ろ向きに遠ざかりました。

何らかの強い力が、後ろから彼女を引いています。

その体が宙に浮きます。
思わず口を開いたテスに、空中の書物から言葉が降ってきました。

〈あなたはあなたのしたことで、悲しまないでください。すべての起きることは神によって予定されていたのですから〉
その言葉は、文字として目に見えたようでもあり、声として耳に聞こえたようでもあり、頭の中に自分自身の思念として浮かんだようでもありました。
キシャ!!

サイアの体が鉄の棒にはりつけられました。

その胴に、吊り上げられた両腕に、空中で揃えられた両足に、誰の手にもよらず荒縄が巻かれていきます。

テスはもう客車の屋根の上には立っていませんでした。

砂が打たれた広場にいました。

広場の中央に、火刑台が設置されています。

サイアは、十六歳のキシャは、火刑台に縛り付けられていました。

足許には薪が組まれ、獣脂の臭いを放っています。

広場の向こうには市場の通りが延びています。でも、人の姿は見えません。
キシャ!!!
火刑台に手を伸ばし、駆け出そうとしたテスの胸の前で、二本の槍が交差されます。

突如として広場が人の気配に満ちたます。
テスの前で槍を交差させるのは、二人の神官兵でした。

神官兵たちが、円形に火刑台を取り囲んでいます。

押し掛けた無数の群衆が、神官兵たちが作る円の外側にいたます。

顔、顔、顔。

もう、人の姿に遮られ、広場の向こうの通りは見えません。

……………………!

広場の左右の端に、旗の列が掲げられています。

矢の印。矢の家の御旗(みはた)です。

テスの正面、そして振り返れば真後ろには、射手の印の旗の列が掲げられています。

射手の家の御旗(みはた)です。
火刑台の下、組まれた薪の中央に、不可視の荒々しい手が本を次々と投げ入れます。

本は薪の中央から溢れ、外側にこぼれ、周囲に散乱しました。

テスには表紙の金文字が見えた。

そのタイトルは――

『亡国記』

そして、夜に塗られた空を、白く輝く編み目が覆っていました。
天球儀です。

夕闇の国のアースフィアとは異なる世界。並行世界。ここは、夜の国のアースフィア。

夜の王国で、一つの処刑が行われようとしています。

群衆は火刑台の少女に口汚い罵声を浴びせています。

また、何人かは、胸の前で手を組み、少女に涙と祈りを捧げています。

火刑台の真上に浮かび、金色の光を放つ書物は、テス以外の誰にも見えていないようです。

火刑台の少女は顎を上げ、夜空を、または、天球儀を見ていました。

そのため、下にいるテスには、彼女の表情は見えません。

ただ、顎が微かに動いていて、彼女が何かを呟いていることだけがわかります。

〈白い花を集めてください。私のために〉
暴力を期待する喧噪の中で、テスに言葉が降り注ぎます。
〈私が焼かれたその跡で、白い花を焼いてください〉
タターリス・エルドバード。
神官兵たちによる円陣の内側、火刑台の前、テスの正面に、瑠璃色の髪をした男が現れました。
人の言う予言者よ。
神官将の装束をまとう男は尊大に、侮蔑を込めて、テスに冷たく笑いかけました。

不確かな知識と邪念に基く憶測によって『予言』なる書を著し、()の大罪人の民衆煽動に荷担した罪は重い。

しかし貴様は彼の者の居場所を密告し、我らに棄教を誓った。

もし貴様が誓いを放棄し、忌むべき異端教徒なりの大儀と名誉を貫き、人としての責任を(まっと)うするならば、教祖と呼ぶあの大罪人との死を許そう。

または、この場で再度棄教を誓うなら、恥と不名誉にまみれた余生を過ごすことになろうぞ。

テスは何といえばいいのかわかりませんでした。

ですが。

「そうあらしめよ」
(!!)

勝手に言葉が出てきます。

恐らくは、キシャの記憶の通りに。

「我、タターリス・エルドバードは改めて、キシャ・ウィングボウ並び()の者の敷衍(ふえん)せしあらゆる教えに永久に背を向けることを再度誓う」

神官の表情に、軽蔑の色が濃くなります。

彼は大仰(おおぎょう)に振り向き、槍で火刑台を指し、息を大きく吸い込んで、高らかに宣告しました。

ザナリス神官団シリウス・ライトアローの名に()いて、このスリロスの地にて呪われた生を()けし『弓の家』のキシャ・ウィングボウ、暴動の煽動者、火と血に飢えた逆臣ウィングボウ一族の末裔の――
処刑を執行する!!!
空中より突如現れた弓の家の御旗(みはた)が、薪と本の上に掛けられ、燃え上がりました。

今、火がつけられたのだ、と、群衆の前列から後列へと情報が伝播(でんぱ)していきます。

火はよく乾いた薪へと、簡単に燃え移りました。

火が薪から本へ、本から薪へ移るにつれ、白い煙が増えていきます。
煙の向こうに霞むキシャは、まだ顎をあげて空を見上げていました。

でも、それはキシャではありません。

八百年前に処刑された、十六歳の少女ではありません。

サイアです。

何の罪もない、ただ、テスの近くにいただけの、幼い少女なのです。

キシャが、サイアが、煙にむせ、()き込み始めました。

タターリス! タターリス! なぜ裏切ったの!!
自分が選んだ戦いかたの結果を見ろと、キシャは言いました。
何故! 何故!!

見ていられるはずがありません。

火が、サイアの小さな足に届きました。テスは思わずきつく目をつぶりました。

何故!!!
キシャの絶叫が、容赦なく耳を刺します。

主よ! 神よ!! 何故(なにゆえ)私を見捨て(たも)う!!

なぜ!!!

それを最後に、続く声はすべて絶叫に変わりました。
サイア………………。

力が抜け、テスはその場でがっくりと両膝をつきました。

ストールの下から、紐を通した陶器の破片を引き出します。

それを両手で挟み、胸の前で両手を組みます。

記憶は壊れています。

祈りの句はわかりません。
祈るべき相手もわかりません。
テスは虚しく繰り返します。

ごめんな……ごめんな……。
〈私は煤の声で歌い、泣き濡れる人を慰めます。私は灰の声で誘い、大地の種子を芽吹かせます〉

絶叫は容赦なく続き、テスは(まぶた)の闇すら耐えられなくなり、また目を開きました。
火刑台の向こう。

人々の頭の向こう。

真っ黒い影が焼かれています。

実体なき記憶によって、形喰(かたく)いが駆逐(くちく)されていきます。

サイアの犠牲によって。

〈記憶たる霊の流れ、記憶たる霊の大河、記憶たる霊の脈動が、絶えず私を呼びます〉
かつてキシャを焼き尽くし、今またサイアを焼き尽くす記憶の火が、彼女たちの魂を煙に変えていきます。
煙が天球儀に上っていきます。
天球儀になっていきます。
〈鳥という善なる民が、私をまとい運ぶでしょう〉

絶叫が終わりました。顔にかかる熱風も、群衆の叫びも終わりました。

キシャの意識は、キシャの記憶は、ここで絶えたのです。

テスは元通り、夕闇の国で一人。

テスが実体化した機関車は消えています。
火刑台も消えましたが、灰が降っています。
サイアの体は消えています。
(ひざまず)くテスに灰が降り、赤土の地面に落ちて、積もることなく消えていきます。

頭上には、キシャの書物が、光を放ちながらまだ浮かんでいました。

テスがぼんやりしながら書物に目を移すと、行くべき方角を示すように、金の光の尾を引いて、右手方向へ消えていきました。

テスは、すぐに立ち上がる気になどなれませんでした。
天球儀のない空、濃い赤に染まる空を見上げているうちに、これとは違う空、もっと自分が愛する空が、かつてあったような気がしてきます。
でも、それがどのような空かはわかりません。

テスはのろのろ立ち上がり、膝頭(ひざがしら)の土埃を払います。
きっと気のせいだ、と結論します。

だって。

空とは赤いものではありませんか。
―つづく―
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