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文字数 3,489文字
本を抱くために胸の前で交差していたサイアの両腕が、解き放たれました。
テスは冷たい予感に
本は
いつか沼のほとりで見たように、空中高くで重たげな表紙を開き、光を放ちます。
光に刺され、キシャの爪先で、影の進行が止まりました。
そして、恐怖の目がテスを迎えます。
サイアの両目に宿るのは、沼のほとりで見た十六歳の少女の目。
八百年を経ていない、本来のキシャの目。
それでも、声は幼いサイアです。
体はサイアです。
細く短い子供の指を持つ手が、テスにむかって伸びてきます。
テスは無意識に、
指先がふれあう直前、キシャに憑依されたサイアの体が後ろ向きに遠ざかりました。
何らかの強い力が、後ろから彼女を引いています。
思わず口を開いたテスに、空中の書物から言葉が降ってきました。
サイアの体が鉄の棒にはりつけられました。
その胴に、吊り上げられた両腕に、空中で揃えられた両足に、誰の手にもよらず荒縄が巻かれていきます。
砂が打たれた広場にいました。
広場の中央に、火刑台が設置されています。
サイアは、十六歳のキシャは、火刑台に縛り付けられていました。
足許には薪が組まれ、獣脂の臭いを放っています。
突如として広場が人の気配に満ちたます。
テスの前で槍を交差させるのは、二人の神官兵でした。
神官兵たちが、円形に火刑台を取り囲んでいます。
押し掛けた無数の群衆が、神官兵たちが作る円の外側にいたます。
顔、顔、顔。
もう、人の姿に遮られ、広場の向こうの通りは見えません。
広場の左右の端に、旗の列が掲げられています。
矢の印。矢の家の
テスの正面、そして振り返れば真後ろには、射手の印の旗の列が掲げられています。
射手の家の
火刑台の下、組まれた薪の中央に、不可視の荒々しい手が本を次々と投げ入れます。
本は薪の中央から溢れ、外側にこぼれ、周囲に散乱しました。
テスには表紙の金文字が見えた。
そのタイトルは――
そして、夜に塗られた空を、白く輝く編み目が覆っていました。
天球儀です。
夕闇の国のアースフィアとは異なる世界。並行世界。ここは、夜の国のアースフィア。
夜の王国で、一つの処刑が行われようとしています。
群衆は火刑台の少女に口汚い罵声を浴びせています。
また、何人かは、胸の前で手を組み、少女に涙と祈りを捧げています。
火刑台の真上に浮かび、金色の光を放つ書物は、テス以外の誰にも見えていないようです。
火刑台の少女は顎を上げ、夜空を、または、天球儀を見ていました。
そのため、下にいるテスには、彼女の表情は見えません。
ただ、顎が微かに動いていて、彼女が何かを呟いていることだけがわかります。
不確かな知識と邪念に基く憶測によって『予言』なる書を著し、
しかし貴様は彼の者の居場所を密告し、我らに棄教を誓った。
もし貴様が誓いを放棄し、忌むべき異端教徒なりの大儀と名誉を貫き、人としての責任を
または、この場で再度棄教を誓うなら、恥と不名誉にまみれた余生を過ごすことになろうぞ。
テスは何といえばいいのかわかりませんでした。
ですが。
勝手に言葉が出てきます。
恐らくは、キシャの記憶の通りに。
神官の表情に、軽蔑の色が濃くなります。
彼は
今、火がつけられたのだ、と、群衆の前列から後列へと情報が
火はよく乾いた薪へと、簡単に燃え移りました。
火が薪から本へ、本から薪へ移るにつれ、白い煙が増えていきます。
煙の向こうに霞むキシャは、まだ顎をあげて空を見上げていました。
でも、それはキシャではありません。
八百年前に処刑された、十六歳の少女ではありません。
サイアです。
何の罪もない、ただ、テスの近くにいただけの、幼い少女なのです。
キシャが、サイアが、煙にむせ、
見ていられるはずがありません。
火が、サイアの小さな足に届きました。テスは思わずきつく目をつぶりました。
主よ! 神よ!!
なぜ!!!
力が抜け、テスはその場でがっくりと両膝をつきました。
ストールの下から、紐を通した陶器の破片を引き出します。
それを両手で挟み、胸の前で両手を組みます。
記憶は壊れています。
祈りの句はわかりません。
祈るべき相手もわかりません。
テスは虚しく繰り返します。
絶叫は容赦なく続き、テスは
火刑台の向こう。
人々の頭の向こう。
真っ黒い影が焼かれています。
実体なき記憶によって、
サイアの犠牲によって。
煙が天球儀に上っていきます。
天球儀になっていきます。
絶叫が終わりました。顔にかかる熱風も、群衆の叫びも終わりました。
キシャの意識は、キシャの記憶は、ここで絶えたのです。
テスは元通り、夕闇の国で一人。
テスが実体化した機関車は消えています。
火刑台も消えましたが、灰が降っています。
サイアの体は消えています。
頭上には、キシャの書物が、光を放ちながらまだ浮かんでいました。
テスがぼんやりしながら書物に目を移すと、行くべき方角を示すように、金の光の尾を引いて、右手方向へ消えていきました。
でも、それがどのような空かはわかりません。
テスはのろのろ立ち上がり、
きっと気のせいだ、と結論します。
だって。