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文字数 4,307文字

大きな音を立てながら、一台のおんぼろトラックが荒野を駆けていきます。

運転席と助手席にミスリルとアエリエ。テスは荷台にいます。

近くの木箱には、貝をつないだ見事な装飾品が収められています。

それはサラが作ったのよ。
昨日、アエリエが教えてくれました。
サラが?

ええ。その貝は北部の東海岸でしかとれないから、南部や西海岸でよく売れるの。

サラはご両親に内緒で私たちに販売を委託してくれるのよ。

そのお金で家を出るんですって。
テスは驚いて、微笑むアエリエの顔をついまじまじと見つめてしまいました。

だからあの子は大丈夫。

みんな、前を向いて歩いているのよ。

そう思い出している間に、休憩のために車が停められました。
テス、出てこいよ!

ミスリルが陽気に呼びかけながら荷台を開け放ちます。

テスは片膝を立てて座り込み、ぼんやりとしていました。

テスは浮かぬ顔で立ち上がります。

助手席から下りたアエリエが、少し離れたところで大きく体を伸ばしているのが見えました。

お前、どうしたんだよ? 暗い顔して。
荷台を下りると、ミスリルがふと真剣な目をして、アエリエに聞こえないように尋ねました。
何が?
とぼけるなよ。悩みがあるなら言いな。

いいや……。

すこし心配してたんだ。この前、あの人たちは悪評を広めてやるって言ってた。

何だ、そんなこと気にしてたのかよ。

忘れな。どうせくだらない捨て台詞さ、あんなのは。

ごめんな。
お茶を()れましょう。
アエリエが、微笑みながら歩み寄ってきました。

茶葉を出してくれる? ミスリル、あなたの好きなのでいいわ。

……どうしたの?

空が(かげ)ります。

アエリエの顔に空の影が落ちます。

二人が優しく、明るいほど、テスは悲しいのでした。

なぜ笑っていられるのだろう、と。

空はまもなく闇に覆われようとしているのに?

今まで見てきたこの世界の人々は、大半、死んだ目をしていました。

だからここは酷い世界なのだと、テスは思っていました。

そうではない、と、赤黒い夕闇を見て理解します。逆だったのだと。彼らは彼らの必然で、そういう目であり、顔であり、態度だったのだと。


どうしての、テス。

アエリエの視線から逃れるように、顔を背けます。
わからない。……ただ…………
悲しいんだ……すごく……。
どうして悲しいの?
この二人なら笑わないでいてくれるだろう。

そう思い、テスは口にします。

世界がもうすぐ終わるから。
沈黙を受け、付け足します。
わかるんだ。
どうしてわかるんだ?
ミスリルのその問いにも、テスは答えられません。
お前、何でも抱え込むなよ。どうしても俺たちに言えないことなら……
と、ミスリルが空を仰ぎます。
空を見てみろよ! 今日もこんなにきれいな青空じゃないか!
青い?
テスにはその意味がわかりませんでした。
ミスリルは冗談を言っているのだろうかと思いました。

ですが、聞き返したテスの真意がわからぬと見えるミスリルの表情から、冗談でも、聞き間違いでもないと理解します。

空は赤いものじゃないか。
お前なに言ってるんだ?
ミスリルこそ。
 何かを推し量るように、ミスリルの目が細くなり、目の光が鋭くなります。
俺には赤く見える……。
(たま)らない思いに駆られ、テスはミスリルに手を伸ばしました。

ミスリルの右手がテスの手を握ります。

二人はしっかりと、互いの手を繋ぎます。

テスは叫び出したい衝動に襲われます。
こんなに近いのに、触れればこんなに温かいのに、住んでいる世界が違う。
ミスリルは絶対的な他者です。
決して交わることはありません。
鼻の奥に、刺すような痛みを感じました。見開いたままの目から涙が溢れ出て、止めることができません。
テスは繋いだ手をほどき、下ろそうとしました。

互いの指が離れた直後、何を察知したのか、ミスリルがテスの手首をがっしりと掴みました。

力強く、このまま放しはしないという意志に満ちていました。

行かなきゃいけないんだ……。

一人で。

どこに。どうして。
わからない……でもわかったんだ。これ以上一緒にいてはいけないって。

ミスリル……。

テスは言葉を探します。
約束は果たされた。
何よりも、自分自身を納得させる言葉を。
記憶を失っても、出会うべき人には出会えるんだ。

俺はずっとお前に会いたかったんだと思う。

たぶん……そう思う。どこか遠い世界で約束したんだ。一緒に生きようって。

空いている左手で目を(ぬぐ)います。
ありがとう……だから、もういいんだ。

もう大丈夫。

よくわからないけど……。

どうして一人で行くんだ? もし行きたい場所があるなら――

いや。一人にならなきゃいけないんだ。
どうして……。
たぶん……。

自分が自分になるために。

涙は止まっていました。

テスは目線をミスリルの目に定めました。

優しい目だ、と思います。生きている者の目だ、と。

本当はみんな優しかったのだ、と。

生きているのだからと……。

だから、今度は俺が約束する。
この世界で出会った全ての人が、本当はもっと優しく生きられたはずなのです。
ここよりずっといい場所で、必ずまた会える。
痛みと悲しみで、ミスリルの目の光が揺らぎます。テスは目を逸らしませんでした。
そのとき、必ず一緒に生きよう。
ミスリルは少し口を開きましたが、何も言いませんでした。

テスが掴まれた手を下ろすと、ミスリルも躊躇(ためら)いながら手を下しました。

愛する友。

彼以上の最良の友が、自分にいるだろうか?

テスは自分に問い、自分で答えます。

いないだろう、と。

指先に名残(なごり)を込めて、ミスリルは手を離しました。
二人はもう繋がれていません。
……わかった。
アエリエに見守られながら、ミスリルは頷きました。
テス、お前、生きろよ……。

生きるんだ。

ああ。
本当に、いいのね?
テスはアエリエに目を動かし、微笑んで頷きました。
ああ。そっちこそ、気を付けて。
じゃあな!
振り切るように大声で、ミスリルが言い放ちました。
また会おうぜ!
彼は右手を上げ、笑いかけると、そのまま背を向けて、トラックの運転席に向かっていきます。

アエリエも頷き、テスに微笑みかけました。

また会いましょう。必ずよ。よい旅を。
そして、少し小首をかしげて手を振り、助手席に向かっていきます。
音を立てて扉が閉まり、トラックが走り出しました。

砂煙がトラックとテスの間を隔てます。

テスは手を振りました。

運転席の窓からミスリルの逞しい腕が出てきて、手を振り返しました。

トラックが見えなくなり、テス一人が残されました。
もう微笑んでいられません。
テスはトラックと逆方向に歩き出します。

トラックで来た道を戻るのです。

もう彼らと交わることのないように。

テスは歩きます。

一人、歩きます。

ひどく暗く、空を見れば、そこはもはや赤くはありません。

天空は、赤と黒のまだらでした。

その色彩が混じりあい、黒の割合が増していきます。

世界……
色彩が、死んでいく。
闇に塗り潰されていく。
……世界。
足許(あしもと)の土も草も、息絶えようとしています。
壊れた世界。
だけど、優しい世界。
ミスリルが生きている世界。
アエリエが生きている世界。
サラが、懸命に生き抜こうとしている世界。
善いものたちを留め、生きさせてくれる世界。
……愛している。
ふと、下から吹き上げる風を感じました。
道も、道の両脇の枯れた草も、途切れる場所にたどり着いていました。

テスの爪先で、世界が消えています。

あるのは深淵、深淵と見分けのつかぬ空。

かつて赤い空のただ中に、黒い太陽が輝いていたように、今は闇のただ中に、赤い真円が浮いています。

その真円を横切って、鳥たちの群れが翔いていきます。
何かを啓示するように。

群れは赤い真円を背景にくるりと方向転換し、しばし留まります。テスに姿を見よとばかりに。
その意味が、突如わかりました。
俺はお前になる。
テスは鳥たちに手を伸ばしました。
お前は俺になれ!
地を蹴ります。

深い闇に身を投げます。

鳥たちは空に留まっています。

テスは手を伸ばします。

落ちていきながら、鳥たちから遠ざかりながら、それでも空に手を伸ばします。

一緒に生きよう!!!
恐ろしい風がテスの背中を打ち、やがて重さに従って、頭が下になりました。

頭から落ちていきながらも、テスは目を閉じませんでした。

何も見えなくても、やがて、希望が見えるはずだから。

罪と堕落を知る者に、それが与えられるのなら。

全ての感覚を研ぎ澄ませます。

(きり)のように。

テスは思います。

果たして自分に何ができただろう?

――世界を救う。

――世界を変える。

――命を守り、希望を与える。

――そんな(だい)それたことはできなかった。

――だけれども、自分に希望を与えることはできるはずだ。
――ならば、ならば……。
――世界を救う戦いは、全ての人間一人一人の中で行われるのだろう。
俺は生きる……死んだりなんかしない!


もう、上も下もわかりません。

落ちているのか、上っているのか、平衡感覚はとうに失われています。

眼前が白い光に覆われました。
思わず目を閉じました。

閉じた瞼の内側さえも、白い光に塗られます。
懐かしい気配がそばにありました。気配は女の声で語りかけました。

おまえ、よく頑張ったね。
久しく聞く声。忘れるはずのない声。
キシャ……。
戦いは終わったよ。難しい戦いがね。お前はやり遂げたんだ。
俺は勝ったのか?
そうだよ。

全ての戦いに勝ったんだ。お前は世界を救ったよ。自分で自分を(ゆる)したのだから。

テスは風の中で、声に集中します。

キシャの声はよく聞こえました。

真横にいるようであり、テスの体の中にいるようでさえあります。

全ての人一人ずつが、撒き散らされた神の欠片(かけら)だ。神はお前の中にもいる。だから、おまえは自分に対してそうする資格がある。

目を開けてごらん。

体を包む風が、ふと弱まりました。
恐れるんじゃないよ。私がお前の風になる。
目を開けると、光に満たされました。

朱に染まっていない、透明な光に。

テスは悟ります。
魂には透明な故郷があることを。
透明な光が差す場所が。
静かな世界が。
そこでは怒りも悲しみも、憎悪も、全てが透きとおることを。

空が青に染まりました。

透きとおる水色です。

翼を広げます。
お行き、渡り鳥。自分の本性(ほんせい)を生きるんだ。言葉を大切にね。

風の言葉を聞いて、一羽の鳥が鳴きました。
鳥は小さな村の上を飛びます。

まっすぐ飛んでいきます。

村外れの池の畔で、サラが水瓶に水を汲んでいます。

………………。

何か感じるものがあるのか、サラは青空に目を細め、目の上に手をかざしました。

聖なるものであるかのように、一羽の鳥から目を離しません。

鳥は、遥かな空へ飛んでいきます。
その内に、小さくなり、ついに見えなくなりました。
―おわり―
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