8-4

文字数 3,321文字

翌日は、霧が少し出ていました。

起きて外を見ていたテスは、霧を割って現れて、野外礼拝所に吸い込まれていく痩せた人影を見つけ、興味を持って宿を抜け出しました。
気配を消して第一礼拝所に滑り込みます。

野外礼拝所に一人立つのは、リーユーでした。
テスは二つの巨石の間に身を隠し、片膝をついて背を石に預け、そっと覗き見ます。

リーユーは半ば呆然とした様子で祭壇の前に立っていましたが、耐えかねるように両膝をつき、両手を組みました。

素早く息を吸い込みます。

神様、私はニハイを愛せません。

なぜならあいつは不細工(ぶさいく)で、顔にも覇気がなく、一緒に歩いているだけで私の恥になります。

同じ母親から生まれた妹だと思えば思うほど、母を汚された気分になり、憎しみが募ります。

ニハイは勤勉ではなく、知性に劣り、私がどれほど努力してアルネカ様に気に入られようとしても、彼女が台無しにします。

ニハイはどこかおかしいのです。人として必要なものが生まれつき欠けています。彼女は私の面汚(つらよご)しです。

テスは完全に気配と足音を殺し、間近のリーユーに気付かれることなく宿に戻っていきました。

そのうちに、霧が晴れ、街が起き始めました。

時計も時を告げる鐘もないのに、街の人々がどのように時を知るのか不思議です。

ティルカが迎えに来るはずだと思い、テスは待ちました。

やがて誰かが宿を訪ね、階段を上がってきて、テスの部屋の戸を叩きました。

戸を開けます。

ティルカではなく、少女が立っていました。

アルネカ様のもとから参りました、ニハイと申します。

お服を洗い清めましたので、お届けに参りました。

挨拶の言葉を呟くと、上目遣いにテスを見上げ、はにかんだように頬を染め、目を伏せて微笑みました。
ニハイは決してリーユーが言うように不細工ではありません。純粋そうな少女です。
ありがとう。
テスは少女の手から蓋付きの籠を受け取りました。
リーユーの妹だな?
お兄ちゃんが私の話をしたんですか?
いや……噂に聞いたんだ。
リーユーは私のお兄ちゃんです。お兄ちゃんは優秀で、すごい言葉つかいです。
優しいお兄ちゃんか?
はい!
きっとニハイは、リーユーのことを慕っているのでしょう。
ニハイ、一つ教えてほしいんだ。
何でしょうか。
この街で捧げられた祈りは、どこに通じているんだ?
……?
アルネカ様を通じて神のみもとへ届けられます
神様は、返事をくれるのか?
はい。
私の場合ですと、毎日、神は私にもっと恥じろと仰います。
まさかという思いに打たれ、テスは動揺しました。
そんなことを神様が言うのか? アルネカ様がじゃなくて?
…………。
アルネカ様は預言者です。預言者の言葉は神の言葉です。そのことを疑えば、私たちは黒い太陽に晒されます。
ニハイは一歩後ろに身を引きました。
後で、ティルカさんが迎えに来ますので……。

身を翻し、階段を下りていきます。
テスは部屋の戸を閉めて、籠を床に置きました。

服を出してみると、それは石鹸の匂いを放ち、汚れも可能な限り落とされて、破れたところも繕われていました。

着替えようとしたとき、飛び去るものの影が服に落ちました。
テスは呼吸を止めて窓を振り向きました。

不変の夕空、曇天、そこに鳥の姿はありません。

窓を開け放とうとしたテスは、窓の下に(たたず)むリーユーの姿に気がつきました。

窓をそっと開けました。
宿の戸が開いて、ニハイが出てきた。
遅いぞ。何やってたんだ。
ごめんなさい。

テスは二人の様子を見守りました。

リーユーは何やらぶつくさ言った後、ニハイの足首を蹴って街の中枢へと歩きだしました。

彼は早足、かつ大股で歩くので、後ろのニハイはついていくのが精一杯。

一緒に歩くだけで恥になる、とリーユーは言っていました。

ニハイの子供っぽい顔つきを思うと、テスは暗澹(あんたん)たる気持ちになります。

ニハイの成長を阻害しているのは、家族であるリーユーの態度でしょう。

(ニハイには他に家族がいないのだろうか)
だとしたら、彼女を愛する人はいません。

ニハイが家族愛の幻想を失わずにいるためには、子供のままでいるしかありません。

誰かが罪悪感と自己否定感を彼女の中から取り除いてやったとしても、リーユーは新たにそれを植え付けます。

リーユーはそうしておきながら、自分こそがニハイの被害者だと主張します。

でも彼も、そうするしかないのでしょう。

彼もまた、好きで妹を憎んでいるわけではなく、そうするしかないのでしょう。

テスは服を着替え、一階に下りました。
一階では、管理人の白髪の老人がはたきを手に玄関口をうろついていました。

彼はテスを見ようとせぬまま、嫌そうな顔をしました。

テスは足を止め、老人に声をかけました。

少し、散歩に――。
駄目駄目。
少しの間だけだ。
もうじき迎えが来るから。
テスは質問を変えました。
この街に鳥はいるか?
二階で待ってなさい。
するといきなり戸が開いて、ティルカが現れました。
よう、テス!

老人がティルカにせかせか歩み寄ります。

ティルカは戸口で老人に何かを囁きました。テスはティルカの唇を読みました。

『何か変わった様子はあったか?』

老人は背を向けているので唇を読めませんでした。

そのうち、一階の廊下の奥に引っ込んでいきました。

武器は持ってないな。じゃ、行こうぜ。
どこに?
そりゃお前、アルネカ様のところだよ。改めて話をするんだ。

二人は連れだって外に出ました。

中枢への短い距離を歩く間、テスはそっと尋ねました。

ティルカはこの街で鳥を見たことはあるか?
鳥? なんで?
いるはずなんだ。俺は鳥を探してこの街にたどり着いたんだ。
さあ……わからないな……気にしたこともないし……別に鳥好きでもないし……。
(嘘だ)

門の中で、昨日と同じようにヤトに会いました。

ヤトは門の中の詰め所に入るようテスに言い、自分は詰め所の外でティルカと二人で話をしました。

少しして、戸が開いて、ティルカが詰め所に顔を覗かせました。

悪いけど、リーユーにアルネカ様の様子を聞きに行ってくる。ヤトと待ってろよ。
そして、ティルカが出ていって、ヤトが入ってきました。
ヤトは唇をきつく結び、腕組みし、部屋の奥のテスから距離を置いて、入り口近くの椅子に腰掛けました。
ヤト。
……。
聞きたいことがあるんだ。
何だ。
鳥はどこにいるんだ?

不機嫌な重い沈黙を、ヤトが放ちます。

テスはヤトから目をそらしません。

そうして、回答を諦めずにいることをわからせると、ヤトは目を合わせてきました。

ティルカにも同じことを聞いたそうだな。
ああ。
宿の老いぼれにも。
ああ。聞いた。
何故そんなことを知りたいんだ。
知りたいから知りたいんだ。
…………。
……命あるうちから空を目指す者はみな、街から排除された。そのことをよくよく覚えておけ。
どうして……。
よそ者の知ったことじゃない。

鳥の影を見たことは、言わずにおくほうが良さそうです。

ヤトの答えで十分に目的は果たされました。

ここに探しものはない。

そうわかったのですから。

誰かが外を走ってきます。
ティルカがまた顔を覗かせました。

悪いな。アルネカ様はアクセサリーを選ぶのに時間がかかってるんだ。

もうちょっと待っててくれるか?

座ったまま見上げるテスの目に何を感じたのか、ティルカの笑みが薄らぎます。

その目に孤独が宿ります。

テスの視線の力でティルカの瞳に照射された、テスの孤独です。

ティルカはまたすぐ微笑みました。

悪い悪い、ちょっと早く来すぎたな。
アルネカ様に会う前に、トイレに行っておきたい。

ヤトとティルカが視線を交わしました。

ティルカが詰め所のドアを開け、暗い城門内の通路を挟んだ反対の壁を指しました。

そこにも板戸がありました。

行ってこいよ。
ありがとう。
テスが廊下に出ても、詰め所の戸は閉まりませんでした。トイレの様子を見張るつもりです。

トイレは臭く、窓がなく、代わりに、石組みの便器の上に換気用の穴がありました。

テスは大気をまとって飛び上がり、灰色の石壁を蹴ります。

壁の冷気を靴越しに感じながら、左手を高く伸ばします。

埃のこびりつく穴の縁に手をかけ、体を持ち上げます。

上半身を四角い穴に滑り込ませ、膝を穴の縁に乗せ、ついぞ全身を換気孔に引き込みました。

……逃げるのです。

―つづく―
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