6-2

文字数 3,223文字

サロンに入った途端にその言葉が耳に飛び込んできました。
『新生アースフィア』
テスは後ろ手で扉を閉めたまま、その場に立って声の出どころを探しました。
でももう、結局、いいんですよ。意味ないんですよ、もう。

近くの席に座り、明るくも投げ()りな声で男が言い放ちます。

若い父親のようで、幼い女の子がその男にもたれかかって寝ています。

ですがあなた、その若さで党の執行部にまで上り詰めて……。

妻の仇討ちはしました。それでいいんです。

本当はその時点で満足して党から身を引かなければならなかったんだ。

でももう、党も腐ってしまって……。

……でももう関係ないんですよ。党には二度と戻りませんから。

そこまで聞いて、テスはサロンの奥へと移動を始めました。

親子の横を通り抜けるとき、娘が目を覚ましました。

パパ、トイレ。
それで、あなたはこれからどちらに行かれるのです?

化生(けしょう)から人を守るための私設の警邏隊が、北部で(おこ)り始めてると聞きましてね。

悪い言葉つかいを狩る、協会に属さない善い言葉つかいも協力していると聞きました。

傭兵団みたいなものもあると。

私はそっちの道で生きていきますよ。

善い言葉つかいたちが、私が党員だったときにしたことを許してくれるといいのですが……

…………ん?

……ああ、トイレな。一人で行けるか?
うん!

テスは、船のおもちゃを掲げて走り回っている男の子とすれ違いながらサロンの突き当りにたどり着きました。

奥の席には二組の夫婦が向かい合って座っています。

もうねぇ、本当に男の子ってば手がかかって……。

サロンの奥は、オープンデッキに通じる二重扉になっています。

二組の夫婦の会話を聞くともなしに聞きながら、テスは内扉を開けました。

風や機関車の煙がサロンに入らぬよう、内扉をきちんと閉め切ってから外扉を開けます。

体感気温がぐっと下がりました。

裂かれた大気がテスの両脇で唸りをあげています。

赤い大地、黒い線路、なだらかな山々が、遠ざかっていきます。

そして、飛ぶ鳥の影一つない空。

テスは夕闇に顔を染めながら、赤い空をぼんやり見あげました。

そうすれば、空の本当の色が見える気がしたのです。

夕闇の奥に青空が潜んでいるのではないか。

何か潜むものはないか。

それでも。

善きものは何も感じ取れず、空はただテスの凝視を受けて、気怠げな、胡散臭そうな気配を送り返すばかりです。

旅を始めた頃より色味を増している、赤い空です――。
世界の色彩が死ねば死ぬほど、空が赤く濃くなっていく。
かつてキシャは言いました。
見ててごらん……。
果てなく続く線路。
機関車の黒煙。
石ころ。
荒野。
稜線(りょうせん)
そうしたものが急に堪らなく感じられ、テスは寒さに震えます。人恋しさを覚えてサロンに戻ろうとしたとき。
二重扉の間で、内側の扉に手をかけたテスは、女性の険しい声に動きを止めました。
もうそんな話は聞きたくないって言ってるのがわからないんですか!

扉の近くにいたのは、二組の夫婦でした。

内扉には窓がついていないので中の様子は見えませんが、甲高い声で(まく)し立てているのは、あの二組の内のどちらかの主婦だろうと思われます。

何なんですか? 嫌味ですか? 当てこすりですか? 自慢なの?
ごめんなさいね、あなた。そんなつもりじゃあ……。
白々しい。もういい加減にしてください! 私たちに子供ができなかったって言った途端に自分の子供、子供、子供の話ばかり――。
男性が小声でたしなめる声が僅かに聞こえました。その言葉は、身も世もない泣き声にすぐにかき消されました。
テスは内扉から手を放します。
すると、内扉は向こう側から開けられました。
…………。

新生アースフィア党の執行部員だったという男が連れていた少女です。

外扉についた窓から差し込む夕日が、幼い顔を染めあげます。

少女は胸に、革表紙の大判の書物を抱いています。

『亡国記』
キシャ。
何をしている?

キシャは外扉と内扉の間の短い通路に入ってきて、内扉を閉めました。

内扉が、差し込む西日によって、外扉の窓の形に四角く色付きます。

その四角形の中に、テスの真っ黒い影が映ります。

今度はどこへ、何に巻き込まれに行くつもりだ?
何も俺を巻き込まずにおいてくれるところまで。

おまえを巻き込みたいものは、どこまでも追ってくるぞ。

おまえは既に歯車に巻き込まれた布みたいなものだ。

ほら。

キシャが右手の指で空中に何度も円を描き、歯車の回る動作を示しました。

カチリ、カチリという空耳が、テスの頭に聞こえました。

引き寄せられて、巻き込まれて、好き勝手ズタボロにされるんだ。ここまで生き延びられたのは幸いだったな。
…………。
新生アースフィアの人たちは、ひどく言葉つかいを憎んでた。

ああ、そう。仕方ないね。

言葉つかいこそが言葉喰い、空と大地を消失させるものだと奴らは信じてるから。

キシャ、なあ……
………………。
早く言え。
この世界で、町でも、村でも、通り過ぎて出会ってきた人たちは、みんな殺伐としていた。余裕がなくて、何かがおかしくて……。
……それは俺のせいだろうか?
何故?

俺が近くにいるときだけそうで、俺がいなければそうじゃないんじゃないかと……。

……このサロンに二組の夫婦がいる。俺がサロンに入るまではふつうに話をしてた。だけど俺が通りかかった後、喧嘩を始めたんだ。

おまえも随分と被害妄想になってきたね。

もっとよく思い出せ。

変わらなかった奴もいるだろう。

オルゴの顔がふと思い出されました。
……ああ。

でも、本当に無関係かな?

何せおまえは言葉つかい。著しく変質させる者だ。

キシャ――
来るぞ。

冷静な口調で遮られ、テスは口をつぐみました。

内扉の向こうから、新生アースフィアを抜けた男の声が聞こえます。

サイア? サイア、どこだ?
あの男が呼ぶ娘、サイアはキシャの()れものとして、テスの前に立っています。
――気をつけろ。

何か黒いものが、無意識に高く上げたテスの感受性のアンテナに引っかかりました。

音がしたわけでも、影が動いたわけでもありません。

それでもテスは、『それ』が来る方向を正しく見ました。

外扉の窓の向こう、

オープンデッキの向こう、

黒い線路、

死して横たわる荒野の向こう、

置き去りにされて遠ざかりつつある峻険な山々の二つの峰の間。

黒く立ち上る影がありました。

影は峰と峰の間の谷間に水のように広がりました。

そのまま(ほとばし)り、木のない山頂、葉のない木々の生い茂る中腹、紅葉した木が染め上げる裾野へと流れ落ちました。

機関車が急激に加速し、非常を告げるベルが扉一枚隔てた先のサロンに鳴りわたりました。
サイア!
行きましょう、ジュンハさん。客室に戻っているかもしれない。

影が山を覆います。

テスは外扉を開け放ちます。

乾いた風と土埃、そして黒煙の臭いが通路に入ってきました。

待て。
デッキの手すりに足をかけ、客車の上に飛び上がろうとするテスの腕をキシャが引っ張りました。
私も運べ。
テスはキシャを両腕に抱えて手すりを蹴り、屋根のないオープンデッキから、緩やかなアーチ型をした客車の黒い屋根へ跳びました。
機関車の先頭では、噴きあがる煙が横風を受けて左へなびいています。キシャをおろし、地平線に見える影と向き合います。

影は黒く平たく大地に広がり、海のように迫ってきます。

線路はもちろん、言葉つかいが建てた結界の柱さえ、その黒さがひとたび触れれば腐ったようにくずおれていきます。

影は急いでいるような気配を発してはいないのに、この機関車よりずっと速く迫り来ます。

地平線の端に見えていたそれは、今もう、地平線とこの機関車との距離のちょうど中間あたりまで来ています。

あれは………………
テスは無意識のうちに大気を操作して、客車の上の無風空間にキシャと一緒に立ちながら、ようやく言葉を発しました。
あれは何だ?
ようやくお目もじかなったわけだ。
キシャはありがたくもなさそうに鼻を鳴らしました。
形喰(かたく)いだよ。
―つづく―
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