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文字数 3,665文字

その武器はどこで手に入れた?

テスは小舟を漕いでいました。

二人は沼を渡っているところです。

どの武器だ?
両方。半月刀と物理銃。

沼は死の臭いがします。

ヘドロの臭い。

根腐れした水草がヘドロになりつつある臭い。

死んで腹にガスの貯まった魚が水に溶ける臭い。

水中の微生物が汚泥になる臭い。

テスは櫂を漕ぐ手を休め、腰に差した小ぶりの半月刀に目を落としました。
二本の半月刀の柄頭(つかがしら)には、一人の男の名が彫られていました。
『アラク』

それはテスの心に尊敬の念を呼び起こす名でした。

尊敬だけでなく、懐かしく慕う、温かい気持ちを感じます。

父のような人だったように思います。

武器は、いずれもこの人から継いだように思えます。

記憶がありませんので、あくまで印象なのですが。

テスには『アラク』という男の人柄や容貌などは、何も思い出せないのです。

おい。

物思いに耽ってないで答えろ。それかせめて舟を漕げ。

櫂が水を打つ音が、再び始まりました。
半月刀は、不変の夜の世界から持ちこんだ。銃は不変の昼の世界から。
二つの並行宇宙(せかい)にいたわけか。
同じ俺じゃなかった。別々の個人だった。
だが間違いなく、どちらもおまえ自身だったろうな。
キシャはテスと向かい合って座り、膝に書物『亡国記』を置いていました。
俺は一人しかいないけど……そうだな。同時にどちらの世界にもいた。

記憶がなくてよかったな。二つの人生の片方だけならまだしも、両方の記憶をとどめていたらひどく混乱していたことだろう。

おまえ、自分が何者か、知っているか?

知っているつもりだ。

嘘だね。(なんじ)自身を知れるのは神だけだ。

だが神はできもしないことをやれとは言わないよ、遍在(へんざい)者。

遍在者?

おまえは自覚しているだけでも二つの世界に、一人の人として同時に存在していたのだから、そう呼んで()(つか)えないだろう。

おまえを一つの世界に固定することはできない。

そのことを自分でどう思う?

気持ち悪い。人生が二つあって、そのどちらも本当だというのなら、依拠(いきょ)すべきところがわからない。
自分を知らないから、自分を気持ち悪く思うのだよ。
自分自身を知るなんて、キシャ、人間には時間がなさ過ぎる。
知りたければ、時の神に同調すればいい。時間がないことなんて、時を超えれば関係ない。
……キシャは地球人なのか?
キシャが、まじまじと見つめてきます。
どうしてそう思う?

地球人の信仰の形態には、一神教と多神教というのがあったように覚えてる。

時の神というのは多神教的な考え方だ。

地球人という個人の集団を一つの創造主とみなす、一神教でも多神教でもない信仰形態のアースフィアには馴染みが薄い。

キシャは耳にかかる髪を後ろに払いのけ、涼し気に答えました。
一神教と多神教に違いはない。同じ一つの対象を、異なる側面から見て表現したものにすぎない。
地球人は宗教のために、長い間殺しあいを続けたと学んだ。同じものなら、どうして解釈を巡って殺しあいができるくらい多様で、異なる表現があり得たんだ?
神が無数の天性を持つからだ。神は一つで、かつ無数の側面を持ち、その側面の一つ一つもまた独立した神だ。
……?
神のすべての表情は、私とおまえと同じくらいに違っていて、同じだ。

俺とお前が『違っている』というのはわかる。

『同じ』というのはわからない。

今はまだわからない、と言え、馬鹿者。
今はまだわからない。
だとしたらおまえは、神のすべての表情、世界のあらゆる様相を知る努力をするべきだ。
あらゆる様相?

例えばほら……。

天球儀の話をしたね。

この不変の夕闇の世界のアースフィアには、惑星全体を包み込む建造物・『天球儀』が見えないと。

それは、ここにある。
キシャのほっそりした顎が、小舟の外の水面を指しました。
テスが小舟の外を見た瞬間、沼が消えました。

気付けば、小舟は何もない空中を漂っていました。

小舟を支える水はなく、魚の死骸や、藻や、水面を漂う霧もありません。

舟の遙か下は、およそ見通すことのできない深淵でした。

深遠の闇を背景に、白く輝く編み目状のものが広がっているのが見えます。

どこか鳥籠に似ています。

『天球儀』です。
天球儀。

そうだ。覚えているだろう。言語生命体(おまえたち)を惑星アースフィアに閉じこめる鳥籠だ。

だが、アースフィアは空洞化した。

大地はない。

見ての通りだ

宙に浮かぶ舟に乗り、櫂を握りしめたまま不思議そうに天球儀を見下ろすテスに、キシャはなお語りかけました。

大地の消失……。

これほど質量を失いながら、惑星としてなお重力を保っている。

アースフィアの重力は何だと思う?

主観。
…………。
おまえは本当に面白いね。どういう思考回路をしているんだ?

でも違うよ。もっと単純だ。

重力の鳥籠だよ。

地に堕ちた天球儀は、今なお鳥籠であることをやめていない。

俺が主観と答えたのは――
小舟の外側を見るのをやめ、テスは首を軽く振りました。
俺の主観は、世界が空洞であるよりも、俺が見てきた通りであるほうを良しとするから。
現に今、櫂を漕ぐと、水の重みを手に感じる。

テスは目を閉じ、視覚情報を遮断します。

そして櫂を握る感触、それを()るたびに受ける水の抵抗、水音に意識を集中しました。

次に目を開けたとき、二人は元の沼で、小舟に座っていました。
水も、岸も、元通りです。
……おまえはこの腐った沼、陰鬱な光景が好きか?
大地が消失した光景よりはマシだ。
あの(ざま)を見ろ。

岸が近づいてきました。

キシャは、今度は岸に生える低木を顎で指しました。

木だってあんな空を目指したくなくて横這いになっている。ここはそんな世界だ。
それでも、生きている木だ。
木があったほうがいいか?
ないよりずっといい。
キシャが息をつき、力を抜きました。続く声はいくぶん柔らかくなっていました。
……おまえは()い言葉つかいだね。ならば、世界はおまえを愛するよ。
テスは返事のしようがありませんでした。

キシャ。

無数の側面をもつものが神ならば、言葉は神なのか?

迷った結果、話を戻すことにしました。
何故?

さっきのキシャの話とあわせて考えるなら、

言葉をすべて集めたら、それは神である一方、

一つ一つの言葉もまた神ということになる。

地球人の聖典にはこう記述される。

『初めにみ言葉があった』。

これをどう思う?

テスは首をかしげました。
腑に落ちない。
はじめにあったのが言葉なら、その『初めのみ言葉』を観測したのは誰だ?
……。

観測には認知が必要だ。

はじめに言葉を観測した者は、言葉が言葉であることを知っていたり……

またはそれがあることを認知し、『言葉』と名付ける必要がある。

それは……どこから来たんだ? その……

言葉を言葉であらしめる言葉を持っていた主観者は?

まだ続きがあるんだ。
『初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった』、と。
……じゃあ、言葉自身が主観者で……つまり、自分で自分を見たのか?
そうだ。汝自身を知っていたんだ。ところでさっきの話だよ。おまえは何者だ?
わからない。
でも、記憶を取り戻せばわかるかもしれない。
沼の上を風が吹き、テスは身震いしました。
記憶はおまえそのものを表すものではない。そうならば、記憶を失った時点で存在できなくなるはずだから。だけどおまえはここにいる。

逆の発想をしてみたらどうだ?

二つの世界の人生で得た偶有(ぐうゆう)の性質と記憶を洗い落とせば、おまえ自身、おまえの本性(ほんせい)が見えてくるんじゃないか?

記憶を洗い落とす?

…………。

……………………。

しばらく、水を漕ぐ音だけが続きました。
何故黙る?
驚いたんだ。直感に反することだから。今までどうしたら記憶を取り戻せるだろうと考えてた。
おまえがおまえ自身を知るためにこの世界に落ちてきたのなら、残りすべての記憶を手放すまでここから出られないだろうね。
もうすぐ岸です。キシャによれば、この先に村があるはずです。
キシャは、よくものを知っているな。何歳なんだ?
十六歳。
……そうか。
賢い十六歳だな。
信じるんだ。
実際、それくらいに見える。
今、私が少女の姿をしているのはたまたまだ。誰がこの〈少女の私〉が思考していると言った?
キシャが書物から手を離しました。
重そうな表紙が勝手に開き、中のページが最初から最後まで、風でめくれました。
最後のページに行き着くと、キシャは書物を閉じました。
……本当は何歳なんだ?
八百歳。
そうか。
賢いわけだ。
やっぱ信じるんだ……。
本来のキシャ・ウィングボウはどこに行ったんだ?
キシャは書物を両手で持ち上げると、胸に押しつけて抱きました。
天球儀になった。もういない。

小さな桟橋につきました。

霧の中、テスは桟橋(さんばし)に飛び移り、キシャが橋にあがるのを手助けします。

化生(けしょう)がいるよ。
……。

化生のせいで村の人間は出歩けずにいるから、もてなしを受けられるとは限らない。

まあ、いずれにしろ戦うのはおまえだ

手伝わないのか?
年寄りはいたわれ。
仕方なく、テスは村のほうへと歩いていきました。
―つづく―
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