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文字数 3,984文字

くたばりな、『テス』!

口から鎖が撃ち出されるのが視界の端に見えました。
鎖は重々しい音を立てましたが、回避するまでもなく、テスがいた場所に届く前に形を失いました。

テスの傷ついた体はずきずき痛みます。

なっ、なんで? 『テス』って本名じゃないの!?

動揺するネサルを残し、テスは大気の足場を固め、踏みました。

空中高く、後ろに飛び、逃走を試みました。

残されたネサルが地上で叫びました。

名前を隠したな、小賢(こざか)しい!

その場から遠ざかりながら、テスの左手が半月刀へ、右手が銃へ伸びますが、

ためらいがその手を止めました。

荒野に突っ立っている痩せっぽちのネサルに、テスは武器を抜かずに叫びました。

武器を収めろ! 戦ってなんになるッ!

地上への降下を始めるテスに向けてネサルが引き(がね)をひくと。

怒りの気がテスの左右をかすめ、その余韻を心に残しました。

その『怒り』は太さが人間の胴体ほどもある鉄の槍になりました。

テスが着地すると、その背後に大地を揺らして槍が降り注ぎ、土煙をあげました。

ネサルはひたすら撃ち続けています。

降り注ぐ槍は円を描き、その中心にテスを閉じこめようとしています。

うるさいんだよ! 何遍(なんべん)同じことを言わせる気だ!

テスはストールを上げて鼻と口を土煙から守り、交差する二本の槍の間から円を抜け出しました。

土埃に身を隠します。

降り注ぐ槍がたてる轟音の中に、駆け寄ってくるネサルの足音が聞き取れます。

そして、記憶の中のキシャの声が聞こえます――。

『記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ』
『戦いになったら、殺さなければならない――』

槍の雨がやんだ隙に、テスは地を抉る槍の木立の後ろに身を隠し、ネサルと自分の間を遮る強い風を起こしました。
ネサルが風の壁を撃ちます。実体のあるものは撃ち出されませんが、風の勢いが薄れました。

あの銃は、かつて言葉つかいの技師が開発した、言葉つかいでない人々が化生から身を守るための武器だと聞きます。

副次的なものなのか、言葉つかいの言葉を打ち破る性質があるようです。

テスは戦うよりも、逃げることを選びました。

後方に飛ぶテスが空中に作った大気の足場を撃ちました。

足場が消える直前、テスはそれを蹴り、地面への自由落下を始めました。地に叩きつけられる直前、翼を広げたように速度を落とします。

ネサルが駆け寄りながら撃ちますが、もともと射撃が下手なようです。かすりもしません。

ぴょこぴょこぴょこぴょこ、気持ち悪い動き方しやがって! やっぱりお前、人間じゃないじゃないか。

なんなんだ、畜生? ノミか?

本性を言ってみな!

大きな、大きな槍が、テスを追ってきます。

機関車の車両ほどもある太さの、黒光りする、長い長い槍です。

テスは荒野に身を投げ出し、伏せて回避しました。

風を起こし、槍が過ぎ去っていきます。

視界の彼方へ消えていくその槍の射程を見て、テスは悟りました。

逃げきれないと。

あの銃は現実的な殺傷力を持っているのだと。
そして、ネサルは銃を撃てるのだと。

テスを逃がしはしないのだと――。

立ち上がります。
テスは叩きつけるような突風を起こし、ネサルを突き飛ばしました。今度はネサルが悲鳴と共に地に伏す番でした。
風の壁の向こう側では、ネサルが転んで擦りむいた頬に左手の甲を当てながら、座りこみ、凍り付いた恐怖の目をテスに注いでいました。
……お前と戦う。
な、何よ……怒ったの……!?
いいや……。

ネサルの銃は、彼女の膝のすぐ前に落ちていました。

彼女は手を伸ばそうとしたが、転んだ拍子に痛めたらしく、右手首から先は力なくぶらぶらしていて動きません。

……死にたくないからだ。

ネサルは左手で自分の銃を掴みました。大きな銃で、片手では扱えそうにありません。

彼女は左腕をまっすぐ上げたました。

腕が震えています。

重さゆえか、恐怖ゆえか、はたまた両方か。

震える声でネサルは言い返しました。

死んでよ……!

できない。

俺は、この世界に、意味と目的があって生きているのだと……信じるから。

それでもネサルは銃を撃ちました。彼女の左腕が大きく跳ね上がります。

風の壁が弱まり、テスは目を閉ざしました。

木を想います。
翼を休め、安らぐ場所を。

ちらつく木漏れ日。そよぐイチョウの若葉。鱗状に割れた樹皮を想います。

樹皮に()み、鳥たちの糧となる虫たちを想います。

樹皮の手触りを想います。

天を目指す大きな枝の確かさを想います。

大空の光が満ち、赤く割れた大地を濡らす死者の嘆きを乾かし始めました。
船上での言葉つかいとの戦いで学んだとおり、可能な限り写実的な光景を想い描き、テスは目を開きました。

青空が二人を覆っていました。

真上は濃い水色、遠ざかるほど薄い水色、視界の果ては更に薄く白っぽい水色。

イチョウの大樹がめいっぱい空に枝を伸ばしています。

テスは地を蹴ります。今や若草が満ちた大地を。

…………………………
いつか、言葉つかいが空を消すと…………。

(ひざまず)いたままのネサルが、光の中でそれきり声を失います。

テスは太い枝に着地し、ネサルを見下ろしました。

俺に空は消せない。
どうしてよ? 化け物じゃないからだなんてたわごと言うつもり!?

驚いたことに、ネサルはまだ銃を撃ちました。

その一撃で、二人を隔てる風の壁が完全に消滅しましたが、ネサルの肩もまた壊れてしまいました。

草原に銃が落ち、草に埋もれます。

……殺しなさいよ!

空を落とすなり、その木を歩かせるなりしてあたしを潰しなさいよ!

駄目だ。

立ち上がるネサルを見下ろして、テスは二本の半月刀を抜きました。

その柄頭(つかがしら)の連結器で組み合わせ、ブーメランの状態にします。

振りかぶりました。

せめて……人らしく殺す。

投げ放たれたブーメランはネサルの右の太股を、骨に達する深さまで深く裂きました。
失血死を避けられぬ深手です。
木の上のテスを見上げる両目が極限まで見開かれ、ネサルはがっくりと膝をつきました。

唇は何か言おうと動いていますが、喘ぐような息の音がするばかりです。

テスが木から飛び降りると、木は消え、草は絶え、世界は暗く黒ずみ、荒廃した大地に永遠(とわ)の夕暮れが戻ってきました。

ネサルは這うような姿勢でテスの爪先に手を伸ばしてきます。
何かを呟いていました。

テスは耳を傾けます。

当たり前……。

当たり前……当たり前よ…………

ネサル?
しゃがんでその手を取るのも何か違う気がして、テスはその場に立ち続けました。

わかってたわ、こういう死にかたをするって。

あたしみたいな奴は、殺されて死ぬことになるって。

あたしには、こういう生きかたと死にかたしかなかった。

そうでしょ? ねえ?

ネサルの指が、ついぞテスの靴の爪先に触れました。

結局テスはしゃがみ、縋りついてくるその手を握り返しました。
そうせずにはいられなかったのです。

ネサル……ごめんな。

ネサルは血で土を濡らしながら這い、身を寄せてきました。

テスは地面に両膝をつき、腕の中にネサルの体を抱いて、仰向けにさせてやります。

ねえ、テス、聞いて、聞いて。
ああ。
最後まで聞いて!!
最後まで聞く。

あのね、テス、あたしもね、落ちてきた人間だよ。昔、太陽の王国から。不変の昼の世界から。

でもあたしは言葉つかいじゃなかった。

落ちてきた人間が言葉つかいになるって言うのに、ここでもあたしは何の力もなかった。

そう扱うことで世界はとことんあたしを馬鹿にした、あたしを嘲笑った!

ねえ、憎かったのよ、あんたが。憎らしかった、だから、言葉つかいが。

だから言葉つかいを殺して生きることにしたの。

ねえ、あたし、悪い奴でしょ? すっごくすっごく嫌な奴でしょ?

テスは彼女にちゃんと聞こえるよう、はっきりと答えました。
いいや。

するとネサルは、何故だか絶望するような顔を見せました。

でも、それも少しの間のこと。

だんだんと、二日前に出会って以来初めて見る優しい顔になっていきます。

テス。
なんだ?
本名を教えて。

テスは荒野に転がるネサルの銃を見ました。

それが十分にネサルから遠い場所にあり、ネサルもそれを扱える状態ではないことを確かめてから、その耳に囁きました。

マリステス。
俺はマリステス・オーサー。
マリステス?
ネサルの目が、眠たげに濁っていきます。

マリステス……マリステス……ありがとう……

あんたは……あたしがこの世界で出会った中で……一番優しい人だった………………。

ネサルの目の縁から涙が流れ落ち、青白い頬を伝います。

人が、涙を流して死んでいきます。

…………寒い……。
ネサルの目は、もう何も見えていないようです。

……マリステス……。

空が落ちてきたよ、昔。

ああ。
寝てるあたしの鼻先まで……。

空はガラスだった。向こう側にママがいた。

ねえ、テス、いる?

ここにいる。

ねえ、ママがいたのよ。

鼻と鼻が触れ合いそうな位置にいて……

落ちてきたガラスの空の向こう側に、へばりついて、あたしを見ていた……。

最期の身震いがネサルを襲います。

ものすごく……

見て……

た……

言葉の後、長い息を吐き出して、彼女は意識を失いました。
テスはネサルが寂しくないように、しばらく抱いたままでいました。

流血が彼女の命を押し流し、二度と目覚めぬ体になると、テスはその亡骸を大地に横たえます。

そして、殴られた傷の癒えぬ体を引きずるように歩き、ブーメランを拾いました。

ブーメランを二本の半月刀の状態に戻したとき、いずれの半月刀の柄頭にも人の名らしきものが彫られていることにテスは気がつきます。
『アラク』

テスは首をかしげました。

こんな字が彫られていただろうか? いつから?
その人名らしきものはいかなる感情も刺激せず、テスの心に語りかけることもありません。

アラク。その名が何かを忘れたのだ、とテスは考えました。
そして、忘れてしまったことについて何とも思わず、嫌だと感じもしませんでした。
―つづく―
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