テスは身を清めることを許されました。
浴室を出れば、脱衣所には乾いたタオルと櫛、服と下着が用意されていました。
衣服はアルネカやリーユーが着ていた服のように、白く、薄く、テスだけが感じる寒さを和らげるには不十分でした。
震えを殺しながら髪をよく梳いて縛ります。
脱衣所の戸を開けると、廊下でティルカが待っていました。
当たり前だろ? 中で倒れたりしたら大変じゃないか。お前が出てくるのが遅いから、どうしようかと思ってたんだよ。
痛むところはないか? ふらふらしないか?
地面に打ちつけた箇所には大きな痣が出来ていましたが、死んでもおかしくない高所から叩き落とされたことを考えると、こうして一人で立っていられるのも奇跡に近いほどです。
テスは目許を緩めました
二人は殺風景な廊下を渡り、裏口から建物を出ました。
白い砂の打たれた、花も木もない裏庭が広がり、連結された茶色い石造りの建物が三方向を囲んでいました。
建物は五階建てで、正面の建物の屋上部分から、女たちの笑い声が風に乗って聞こえてきました。
洗濯物が干してあります。
よく目を凝らしたテスは、洗濯物の一つが自分の茶色いストールであることに気付きました。
衣服を洗い、干してくれているのです。
そういう雰囲気に見えるだろ? でも違う。この街全体が神殿さ。
その中でも城門と大きな礼拝堂を備えたこの敷地は、神殿の、つまり街全体の中枢部なんだ。
アルネカ様が許可した人間しか入れないのさ。
テスが中枢部に運び込まれたのも、アルネカ様がそうしろって言ったからなんだ。アルネカ様は慈悲深いお方だからな!
二人は中枢部を守る城門に近付きつつありました。灰色の石組みに、雲の影が重く垂れ込めています。旗はなく、見張りも立っていません。
俺は聞いたことはないな。名前とかないかも……まあ、あるかも知れないけど、気にしたこともない。
名前がない、なくても困らないということは、街の外と関係を持つ必要がないのでしょう。
なにせ、はじめ、この街はテスの目からすっかり隠されていたくらいですから。
自給自足の術があるようです。
テスが両目をじっと見つめるので、先導するティルカは後ろ向きに歩くことになりました。
アルネカ様は不老のお方なんだ。
まだ街に名前があった頃……四十年前かな……五十年前かも……街に災厄が降りてきた。
言葉つかい同士の抗争があったらしい。でもよくわからない。アルネカ様は多くは語らないんだ。
ただ、その災厄から街を救ったのが言葉つかいのアルネカ様なんだ。
とても恐ろしい災厄で……
……アルネカ様はご自分の目から光を拭い去られた。全てを見えなくして恐怖を克服され、災厄に打ち勝ったんだ。
恐ろしい災厄を見ることが出来なくなり、主観と記憶によって平穏な都市を立て直したというのなら、アルネカの不老にも説明がつきます。
彼女は老いていく自分を観測できないのです。
だから若いままでいるのでしょう。
じゃあ、この街は痴女アルネカ様の記憶のままの姿なのか?
そう。だけどそれだけじゃない。俺たち言葉つかいの主観が補って街の機能と完全性を保ってるんだ。
そうか……。
(だから俺はもてなされるんだな。
アルネカ以外の言葉つかいは老いて死んでいく。
だから、新しい言葉つかいを招じ入れ、街の機能として取り込まなければならない。
そういうことだろう)
(ティルカはいずれそのことを、俺にはっきりと告げるはずだ。
言葉つかいの俺に言葉つかいのティルカがあてがわれたのは、そういうことを教えるためで……もし俺が言葉の力で抵抗したとしても、言葉つかいならそれを封じ込め、取り押さえることができる)
(でも俺が抵抗する可能性を口にすることは誰にも許されていない。
アルネカは神の名を利用してまで俺を安全だと証した)
(あのときのリーユーの目……。
『絶対にお前を信用しない』と訴えてた)
城門に入りました。
出口と入り口に木の落とし扉が設けられており、内部の壁には小さな松明が掲げられています。
その松明の下で、テスはもう一人の言葉つかいと出会いました。
ティルカが親し気に声をかけます。
が、ヤトと呼ばれる男がテスを見る目には、親しみなど欠片も込められていませんでした。
そうさ、テスって言うんだ。
テス、こいつはヤト。俺の従兄弟なんだ。
テスはヤトの反応を待ち、ヤトは冷ややかにテスの観察を続けます。
結果、二人は黙って見つめあう形となりました。
そんなこと言うなよ。テスをもてなすようにアルネカ様は仰られたんだ。
それ自体に異存はない。それで、そいつをどこに連れて行くんだ?
第一礼拝所の前に空き家があっただろ? そこの二階に泊まらせて、一階に管理人の爺さんを寝起きさせる。
ヤトはようやくテスから目を離し、頷きました。
早く出て行けと手で合図します。
テスはヤトが望む通り、ティルカに連れられて門を出ました。
街の様子は、これまで通り抜けてきた他の街と変わりません。
石畳が敷かれ、トラムの線路がまっすぐ伸びていますが、錆び付き、草が生え、トラムが通らなくなって久しいようです。
ティルカが第一礼拝所と呼ぶ場所は、大通りを横切り、一区画歩いた場所にありました。
家一つ分ほどの広さの敷地で、巨石のかけらを組み合わせて作った原始的な祭壇と、燭台が据えられています。
テスの宿となる建物は、その向かいにありました。
宿と、その隣の建物との間の路地の奥に、テスは二つの人影を見つけました。
リーユーが何かを呟きながら、もう一人の人影の足首を蹴りました。
その相手は少女でした。小柄で、リーユーを前にじっと俯いています。
ティルカは二人に気付かずに、宿の戸を押し開けました。
宿は普通の民家でした。三部屋分の窓が通りに面した、奥行きが浅く、横に長い作りです。
ティルカの後ろから覗き込むと、ちょうど正面の階段から、白髪の痩せた老人が下りてきました。
ティルカが何も言わないうちから、老人は告げました。
そして、テスをろくろく見もせずに、一階の廊下の奥へ消え、間もなく戸を開け閉めする音と、鍵をかける音が聞こえました。
明日と言われ、今が何時なのかテスは急に気になりました。
ここに来るまで時計の類は見ていません。
二階の部屋に通されても、やはりそこに時計はありませんでした。
部屋にはベッドとクローゼットの他は何もありません。
テスはベッドに座って頷きました。
だけど忘れてしまった。神のことも、預言者のことも、俺は忘れてしまった。
確かに覚えていたんだ。でも、もう思い出せない……。
ティルカが答えないのでそっと目線を上げると、彼は同情を湛えた表情で、テスを見下ろしていました。テスは居たたまれなくなりました。
想像もできない……。
辛いだろうな。俺には想像もできないよ。早く記憶を取り戻せればいい。俺はお前のことを祈るよ。
アルネカ様に縋ればいい。俺はアルネカ様に祈るよ。あの方は生ける預言者だ。全ての祈りを神のもとに届けてくださる。
テスには、あの盲目の女を聖なるものとして崇める気持ちは起こりません。
人間離れした存在であることは、確かに認められるとしても。
ティルカはたっぷりの同情と慈悲を込めて言い、部屋から出ていきました。