8-7

文字数 4,387文字

アルネカの殺意が波動となって、祭壇の前に立つテスを貫通し、礼拝所に満ちます。
テスは再び銃を抜きました。
と、アルネカの姿が透明になり、消えてしまいました。

アルネカが立っていた辺りに二発撃ちました。

弾は通りの向こうの建物の壁に当たっただけでした。
四方を見渡すも、アルネカは見つけられません。
その間にも、野外礼拝所の空気は変貌していきます。

伸び放題の雑草が、砂の中に消えていきます。

小石が砂の上を転がり、見えざる手で通りに掃き出されていきます。

隅の掃除場では、掃除道具が勝手に動いて立ち、整頓されていきます。

蛇口の錆は消えます。

(時間が戻ってる……荒れ果てる前の状態に……)
…………。
(……そうか! アルネカの主観――)

巨石の後ろ、祭壇の後ろ、そこかしこから瑞々(みずみず)しい緑の茨の蔓が這い出てきました。
蔓は太い束となりました。
そして、毒のような花を咲かせます。

……きっと、アルネカの目が見えていた頃のとおりに。
視界が闇となりました。
一面の闇の中に、最後に目にした花の、赤い印象が浮いています。
(これがアルネカの主観……。光のない世界……望んで手にした闇の世界……)

右も左もわからぬ世界で、テスは足の裏に感じる地面を頼りに方向感覚を保とうとしました。

アルネカの気配を探します。

妨害するように、闇のそこかしこに暗い色が滲みます。

緑。

黄。

青。

すべての色彩が()せています。

今見ている闇がアルネカの主観なら、色彩は、見えていた頃の記憶によるものでしょう。

そして。
……!?
闇の中。
テスには自分の顔がわかりません。
自分の容姿がわかりません……。
俺は、

体が浮き、無防備な背中と後頭部を何かに打ちつけました。

蔓が這い、葉がこすれあって音を立てています。

指先に痛みを感じました。

植物の温かさと石床の冷たさで、茨が覆う巨石に叩きつけられたのだと理解しました。

緑の臭いを放ち、茨の蔓が意志を持ってテスの体にのしかかってきます。

棘を持つ蔓が両足首にきつく食い込み、続けて右手首に巻き付きます。

テスは左腕を喉まで上げてかざし、首を絞められるのを防ぎました。

直後、左手首も強く締め上げられ、動けなくなりました。

棘が深く体に食い込み、血が滲み出てきます。

両手首から流れた血が掌に流れ落ちても、なおきつく食い込んできます。

蔓は左右の脇腹から腹へ、左右の脇から胸へと這い進み、太股と二の腕にも巻き付き、巨石に押しつけるようにテスを縛り上げました。

それでもまだテスの体を裂いてじりじりと動き、棘で傷を深くしていきます。

テスはきつく目を閉じていました。

痛みに息を喘がせながら、活路を求めて指先を動かします。
何か、冷たくすべすべした物に触れました。

それは、ガラスでできた竪琴でございます。
慇懃(いんぎん)な女の声に呼びかけられました。
この竪琴のブローチは、昨日身につけた物かしら。

アルネカの声です。

テスはそれを、自分で言ったかのように感じます。

さようでございます。今日はその二つ右隣……

手を動かす錯覚。

指先が布でできた何かの小物、続けて再びすべすべした物に触れました。

そちらはガラス製の茨になります。お色は青でして……
指でつまみ、胸に当てる感触。
ああ、大変よくお似合いでございます――

テスは足の裏に固い床を感じます。

頬に窓から吹く風を感じます。

ここは安全な場所。

苦痛に満ちた場所ではない――

――違う! 違う!
テスは必死に心の中で叫びながら、逃れようとした苦痛を、今度は自ら求め感じようとしました。

(この記憶に同調したら、アルネカの主観の世界に閉じこめられて……

たぶん、俺は消えてしまう……)

蔓が締め上げる力を強めます。首や背中を仰け反らせて圧力を逃がすこともできず、テスは歯を食いしばって呻きます。

アルネカ――。

ここから出してくれ。それだけなんだ。

蔓が鞭のようにテスの頬を打ち、血を流させました。
――――――
――俺は俺だ。俺はアルネカじゃない。俺は……俺は……
………………。
(何か……アルネカが恐れるものを……)
……太陽。

テスは記憶の目で、黒い太陽を見ます。

赤い空の、黒い太陽を。

でも、景色全体が黒ずんで、よく見えません。

その太陽こそがアルネカが最後に見たものなのです。

そうとわかったのは、女の白い両手、目の持ち主自身の手が両目を覆い、闇となり、再び何も見えなくなったからです。

茨の咲くこの礼拝所で、言葉つかいの力によって、自分で自分の目を潰したのです。
(空を!! 太陽を!!!)
テスは精一杯に両目を見開きます。
……次に頭に思い浮かんだものは、ベッドの中で胸を撫でた、アルネカの手の感触でした。
今度はテスが、闇の中で、胸を撫でる手の主になります。テスがアルネカとなり、客人に触れているのです……。

聴覚と、触覚と、皮膚感覚の世界。

誰かがテスを取り巻いています。

様々な声が近付き、遠ざかり、行き交っています。
その中に、リーユーの声を認めました。

テスは頭にリーユーの姿を思い描きます。その姿を中心に、宿の二階の窓から見たままに、町の景色を復元していきます。

リーユーがいました。

ニハイがいました。

リーユーが、ニハイの足首を蹴っていました――。

外に出たいだって?

ここでさえうまくやっていけないお前が、外に出て何ができると思うんだ?

みんなお前を嫌ってるっていうのに。世の中を甘く見すぎじゃないのか?

体に食い込む棘の痛みに、その声の冷たさに、テスは歯を食いしばります。
どうせお前は、自分は世間の平均から少しばかりずれてるだけだと思ってるんだろう。
苛立ちと嘲りを込めて、声は意地悪く続きます。

気にすることも人と違う。

興味や関心の対象も人と違う。

だから誰とも話をあわせられない。

お前みたいな普通じゃない奴はな、いるだけで、知らない内に、人の悪い面を刺激するんだよ。

(この声は誰だ? リ―ユーか?)

いいか。お前はどんどん周囲の人を悪くする天才なんだ。

わかったなら、もう自分の世界から、狭い世界から出てくるな

………………。
……ニハイ?
誰に……こんな酷いことを言われたんだ?
違うよ。
闇の中、思いがけず間近でニハイの声がしました。

これはね、お兄さんが、毎日毎日、自分自身に言ってる言葉だよ。心の奥深くでね。

お兄さんの声だったでしょ?

(ニハイ――)
(――じゃない!)
テスは直観で理解しました。
キシャだ、と。
でも、声はそれきり聞こえなくなりました。
空耳だったのでしょうか。待ってももう、誰もテスに話しかけてきません。

凄まじい孤独がきました。

先ほど聞こえた声が、残酷な言葉が、失った血の代わりに、体の中に入ってきます。

記憶を失い、この世界に落ちてから、ずっと見ぬふりをしてきた孤独と孤立が。

(仲間がいると思っていた)
根拠もないのに信じていました。

(少なくとも、いたはずだと……)

仲間がいるのなら、今ここで孤独に陥っているのは何故でしょう。

仲間が助けに来ないのは何故でしょう。

(一人だったんだ……生まれたときから、ずっと……)
私を受け入れなさい。
失意を読み取ったのか、すかさずアルネカが甘い声で頭の中に語りかけてきました。
すぐに苦痛から解き放ってあげます。
………………。

――街を出て、一人で旅をして、何になるのだろう。

――どうすれば終えられるかもわからないのに。

――旅を終えた所に、自分を待つ人などいないのに……。

テス。
キシャが、ニハイの声で呼びかけます。
……キシャ?
空耳ではなかったのです。
マリステス。
キシャがテスを名前で呼ぶなどはじめてのことでした。
マリステス・オーサー!

精神を打って高く響くその声は、もうニハイの声、借り物の声ではありませんでした。

大人びた、威厳ある、気高い声でした。

おまえが私を忘れても、私はおまえを覚えています。
これが、キシャの本当の声……。
私の名を呼びなさい。

キシャの一声ごとに意識が醒めていきます。

孤独も、投げやりな気持ちも、夢のように薄れていきます。

私の名を叫びなさい!
どこにいるとも知れぬアルネカが、動揺の気を放ちます。
そこに誰かいるの!?
キシャ、
草いきれの中で、テスは息を吸い込みました。
キシャ! キシャ!

その名は魔法のようでした。

キシャを呼び叫ぶごとに、体の力は消耗されるのではなく、むしろ満ちていきます。

――キシャ!!

右手の指が動きました。
石とも蔓とも違うものを指先に感じます。

(もろ)く、柔らかく、湿り気を帯びて崩れるもの。土のようなもの。

(土? 何故……)

土が崩れます。

崩れさるもののイメージが、ある閃きをもたらしました。

それは昨日の記憶です。

朱色の光が満ちる部屋で、アルネカが編み物をしています。

赤い毛糸を編みながら、テスに語っています。

テスは闇の中で、目を極限まで見開きました。

浴室。

赤茶色のタイルが貼られた浴室のイメージを、視線の力で闇に投げました。

シャワーを。そして排水口を。

すると、イメージ通りの光景が見えました。

眩しさに耐えて、テスは目を開き続けます。

真っ黒い水が、浴室の排水口に吸い込まれていきます。

真っ黒い人間が、恐怖に泣き叫んでいます。

……アルネカ。
真っ黒い太陽の色を、更にその人間に投げました。
黒はこの色だ。

浴室の人物は、両腿から下が、既に溶け去り存在していません。

(もも)の部分で立ってます。

細い体型と胸のふくらみで女性だとわかります。

排水口が詰まっています。

黒い水に、腿まで溶けた足を浸しています。

その足が更に溶けていきます。

テスは土を指でほぐします。

つまみ、ほぐして、落とします。

……これが、人間の輪郭が死ぬ感触だ。
やめなさい!

恐怖の波動が、アルネカの叫びと共にテスの精神を打ちました。

テスはやめません。

土をつまみます。ほぐし、落とします。

浴室の女は両手を頭上に掲げ、蛇口を捻ろうとします。

蛇口に当たったその指が、蛇口の固さに負けて崩れます。

土の感触そのままに。

足が完全に溶け、尻が水に浸かります。

手は手首から先を失い、杭のように尖り、その先端は更に水に打たれて溶けていきます。

指先の感触だけで、テスはイメージを強化し、アルネカへと投げ続けました。
やめて――

アルネカが呻きます。

その呻きにあわせて、浴室の女が口を動かします。

顔中に水を浴び、耳と鼻はもうありません。

ああ、主よ――神様――慈悲を――
一際大きな土の塊を掴みました。
それを握り潰します。
浴室の女の頭が砕け、浴室の床いっぱいに広がった黒い水に落ちました。
……そして、全身の拘束が緩み、闇がほどけました。

テスは目を細めました。
光が茨の上から射していました。

本物の光です。
雲に覆われた赤い空です。

アルネカの気配を探ります。

どこにもいません。

茨は枯れて乾き、もうテスを締め上げてはいません。
テスは長く息をつきました。

目を閉じ、痛みと疲労に身を委ねます。

もう、人の声もしなければ、気配もありませんでした。
―つづく―
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