5-3
文字数 4,852文字
窓を破って逃げ出したテスはまず、何もない空中に足場を作って蹴り、片足を置くのが精一杯の、狭い街灯の上に着地しました。
レストランを顧みれば、割れた窓の向こうは大騒動になっています。
街灯を蹴って再び飛び、今度は公会堂の平屋根に移りました。
白い石造りの屋根の上を走り、端まで来ると、丸めた体をくるりと回転させて、通りを挟んだ反対側の建物の平屋根に飛び移ります。
通行人たちがテスを見上げ、あんぐりと口を開けていました。
屋根から屋根へと移りながら逃げ続けます。
遠ざかりつつある公会堂から、火薬の炸裂音が鳴り響きました。
テスは少しだけ振り向いて様子を見ました。
信号弾です。
テスの進行方向に、高い壁が
何らかの施設を壁の中に隠しているようです。
人影が片手を高く上げました。
赤く焼けた空を背景に、その手に金色の光が宿ります。
壁の上の言葉つかいが、頭の上で光を宿す手を半円に動かしました。
金色の軌跡が描かれ、その光の残像が、虹色に変化します。
赤。
橙。
黄。
緑。
青。
藍。
紫。
その全てが、屋根を走るテスへと直線を描き飛んできます。
大気をまとい、不可視の足場を蹴り、上へ上へ。
橙の光の剣は、通りを挟んだ反対の家の壁を貫きます。
黄の光の剣は、その、壁を破壊された家の屋根を貫きます。
緑の光の剣は、更にその後ろの家の屋根に鍔まで突き刺さります。
青い光の剣は、テスの真下をすぎていき、どこかで轟音をたてて何かを破壊しました。
テスは壊れた屋根へと自由落下。
屋根を破壊した赤い剣は消えていました。
木の骨組みに着地し、足の下の室内に散乱する屋根の煉瓦、配管の破片、絵本やぬいぐるみを
壁の上の言葉つかいが、空に両腕を広げるのが見えました。
解き放たれたように、その腕からテスの頭上へと炎の道が開かれます。
炎は黄昏の空と同化して、透明の揺らぎのように見えます。
頭上の熱に対し、寒さ、常にじわじわと身を苛む冷気を拡張します。
そして、右腕だけを横薙ぎに振り下ろし、その動作で投げ放つように、冷気を解放しました。
昇を望む熱気と沈下を望む冷気とが、それぞれの性質に背いて沈下ないし上昇。
二つの空気は触れあい、せめぎあいます。
互いが反発し、熱交換を拒びます。
熱気と冷気の間に極めて薄い空気の裂け目ができました。
その裂け目に、テスは勝手知ったるもの、半月刀の刃をイメージします。
透き通る巨大な刃を。
風の刃は、熱気と冷気の間をまっすぐ滑っていき、狙い通り、言葉つかいが立つ壁に激突しました。
轟音と共に粉塵が舞い上がり、言葉つかいの姿は見えなくなりました。
眼下の通りでは、言葉つかいを憎む新生アースフィア党の党員たちが銃を手に駆け回っています。
テスは屋根の骨組みから屋内に飛び降りました。
屋根の残骸で汚された部屋は子供部屋ですが、幸い子供はいませんでした。
窓を開け、窓枠を蹴り、通りの向かいに建つレストランの、二階のテラス席へ飛びます。
レストランの客たちは、突然の騒動に困惑し、全員室内席に待避していました。
テスが無人のテラスに着地すると、女が恐怖の悲鳴を上げて連れ合いの男にしがみつきました。
テスは薄暗い室内に駆け込み、緊張で棒立ちになっている人々の間を素早くすり抜け、四角形に曲がった細い階段を駆け下ります。
カウンターの跳ね板を上げ、不安にざわめく客たちと絶句している店員を無視して厨房に飛び込み、皿洗い、鍋洗い、包丁研ぎ、野菜切り担当者、肉切り担当者、魚切り担当者の背後を走り抜け、調味料の調合者と危うくぶつかりそうになり、オーブン、吊り戸棚、ゴミ箱の向こうに裏口を見つけました。
道の真ん中の
ちょうどトラムが駅に滑り込んできました。
テスは道を駆け、トラムの後ろを通り過ぎてホームによじ登り、人混みに紛れてトラムに体を滑らせます。
トラムはあっという間にぎゅうぎゅう詰めになりました。
車掌が叫びます。
いつしか騒動は、新生アースフィアの党員たちと、協会の言葉つかいたちとの戦いに移行していました。
近くの建物に何かが激突し、崩れ落ちます。
その破片を避けようと、たくさんの人々が路面に溢れてきました。
たくさんの悲鳴。
そして、耳を刺すトラムの警笛。
テスは路面上に、想像しうる限りもっとも強く厚い大気の壁を作りました。
急ブレーキをかけたトラムが、その壁に突っ込みます。
トラムを止めるのに、多少は役に立ちました。
ブレーキが効き、押し戻されるような反動の後、誰一人轢くことなくトラムは停止しました。
テスも流れに乗ってトラムを下り、歩道に張り出したカフェのテントの下に駆け込みました。ここなら高いところにいる言葉つかいの死角になるはずです。
テントに沿って走り、角を曲がると、上に鉄条網がついた工場の壁が正面に見えてきました。
テスは飛んで塀と鉄条網を越え、塀の内部に着地しました。
テスは平屋建ての工場の赤い三角屋根の上を走り、そこから三階建ての事務棟の屋上へ、一気に飛び上がりました。
幸い今日は休日で、工場は稼働していません。
その色彩の中から、斜めに炎の柱が下りてきました。
それは高い塀のてっぺんを
町が悲鳴を上げています。
戦いは一方的な殺戮へと変じています。
殺戮するのは言葉つかいたち。
殺戮されるのは、新生アースフィア党の党員たちです。
入り組んだ住宅地の道に、テスは集会で見かけた少女と父親を見つけました。
父親は民家と民家の隙間にある、捨てられて雨ざらしになっている戸棚の陰に隠れ、娘とともにしゃがみこんでいます。
既に覆面は脱がれていました。
母親は見あたりません。
単にはぐれただけか、そうでなければ……。
その近くの道を、一人の党員が、銃を抱えて逃げ惑っています。
顔に見覚えがありました。
集会所で、テスより先に覆面を脱いだ男です。
四つ辻に飛び出し、たまたま走ってきた三人組の言葉つかいと鉢合わせました。
ど、どけ! ゴキブリども!!
殺すぞ!!! 殺すぞおおおおぉッ!!!!
大声で威嚇するその男は、揃いのローブとマントを着た三人の言葉つかいたちに取り囲まれ、石のように動きません。
言葉つかいたちは男を指さして言葉を交わしています。
一つの単語がいやにはっきりテスの耳に聞こえました。
男は顔を上げます。極限まで目を見開いています。
ぽんっ。体が急激に膨らみます。
飛び出した目玉は何が起きているか理解できぬまま、苦痛を見つめています。
体と服が鮮やかな赤に変じました。
縦方向に半回転し、下向きになった腹から長方形の布のようなものが生えてきました。
体と服は一体化し、真っ赤な鱗に覆われます。
腕はぎゅっと短くなり、
横方向にぐるりと回ってテスに顔を向けたとき、男はもう人間の男ではなく、赤い観賞魚になっていました。
ただ、本来観賞魚にあるべきでない
テスはさっきの言葉の意味を理解しました。
言葉つかいたちは人と同じ大きさの闘魚を指さし続けながら後ずさりました。
闘魚は同じ場所で、横方向に、時計回りに回転し続けます。
一回転ごとに大きくなっていきます。
ついに辻に収まりきらず、家々の屋根より高く浮きあがりました。
もう、闘魚は民家と同じ大きさになっています。
回転が止まったとき、闘魚の顔の端は、二階建ての民家の東の端にありました。
尾鰭は、道を挟んだ反対側の民家の西の端に垂れていました。
闘魚は飢餓と憂鬱の影を道に落としながら、親子が隠れている方向へ、全身の鰭を動かしながらゆっくり空中を泳いでいきます。
テスは闘魚の腹鰭が、見慣れた魚のそれではないことに気がつきました。
幾つもの細い糸状のものが、腹鰭のように空中になびいています。
闘魚を見つけた党員の少女が道を逃げていきます。
後から父親が追いかけます。
闘魚が、ぎょろりと飛び出た巨大な目玉を動かし、二人を見ました。
鋸歯状の牙が上下に開きます。
全身の鰭を動かして、降下しながら二人のもとに迫っていきます。
糸状の腹鰭が父親の上半身に巻き付き、包みました。
闘魚はそのまま高度を上げていきます。
父親の浮いた両足がむなしく空中を蹴り、もがいています。
彼を包み込む腹鰭は、人の上半身の形に膨らんでいました。
異変に気付き、振り向いた娘が立ち尽くします。
父親の言葉は放電音と共に悲鳴へと変じました。
闘魚の糸状の腹鰭の周りを、青白い電流が走ります。
宙に浮く両足は、棒のように硬直しています。
放電音に少女の金切り声が重なります。
彼女は闘魚の真下、父親の足の真下に駆け寄ります。
テスは心の中で叫びます。
喉は凍り付き、声は出てきません。
少女は放電する腹鰭の真下、失禁する父親の尿を顔に浴び、それが口に流れ込むのも意に介さず、我を忘れて父の足に両腕を伸ばしており――。
闘魚は二人の党員を腹鰭に抱えたまま、ゆっくり屋根屋根の上に高く浮き上がりました。
親子はとうに叫ぶのをやめていますが、闘魚の放電は止まりません。
闘魚の目玉が動き、工場の屋上にいるテスを見ました。
赤い
襟巻き状の赤いえら蓋が浮き上がり、テスを威嚇します。
紅闘魚は、尾鰭と胸鰭、そして腹鰭をぴんと張り、振りました。