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文字数 2,089文字

闘魚が突進をかけてきました。

テスが素早く貯水タンクから飛び降りたときにはもう、工場の塀の内側にいました。魚は頭から貯水タンクに突っ込みました。
盛大に水しぶきがあがります。

頭をタンクに突っ込んだ闘魚は、胴と尾鰭を左右になびかせ、もがいています。

腹鰭には焼けた衣服の切れ端や、皮膚や、髪の毛がこびりついています。

屋上の端まで退避したテスは、両手で銃を構えて銃弾を立て続けに撃ちこみました。

闘魚はそれを気にする様子もなく、身をよじってタンクから頭を引き抜いていきます。

テスは迷わず屋上から飛び下ります。
天球――
戦いの祈りをささげようとしたテスは――
…………!
喉を詰まらせ、それでもふわりとコンクリートの地面に着地します。
………………………………………………。
思い出せません。
祈りの句を思い出せないのです。
何に祈っていたのか。
どう祈っていたのか。
記憶は壊れました。
テスの体を闘魚の影が覆いました。
(…………呆然としてる場合じゃない)

夕空を背追う闘魚が、きらめく牙を上下に開きます。

真下にいるテスへと一気に降下してきます。

テスは助走をつけて前のめりに倒れ込み、舗道の上を滑りました。

転がってバランスを取り、片膝をついた姿勢で身を起こすと、数秒前までテスがいたところに、遅れて闘魚が着地しました。

放電音がし、舗道に押しつけられた腹鰭が青白くスパーク。

テスは地を蹴って浮き上がり、右手側にある工場の外壁を左方向へ蹴り、続けて左手側にある事務棟の外壁を蹴って闘魚の真上へ。
浮いたまま、固い鱗に覆われていない目玉へと銃を連射。
闘魚はその場で激しくのたうちました。

被弾した目玉から液体が振り撒かれます。テスは空中での連射の限界、肩が反動に耐えられなくなる直前まで撃ち続けました。

闘魚の右の目玉が潰れました。

着地したテスは振り回される尾鰭を躱し、事務棟の窓を叩き割り、闘魚の頭があるほうへと廊下を走ります。

(……空)

走りながら目を閉じます。

青空を想います。

その色彩を強く脳裏に思い描きます。

(……行け!)
目を開け、その色を、右腕を大きく薙ぎ払う動作と共に外に放ちます。
試した通り、闘魚の体は空色に変わりました。
回れ!
あの闘魚は、言葉つかいたちが時計回りに回すたびに大きくなりました。
回れ!!
ならば反時計回りに回せば――。

言葉つかいの言葉に(あらが)えず、闘魚は回ります。

巨大化したときと別方向、反時計回りに。

工場と事務棟の間で、体を何度も建屋に打ちつけながら、反時計回りに一周するたびに、闘魚の体は小さくなっていきました。

民家ほどの大きさが、一気にトラム一両分にまで小さくなりました。

続けてジープ一台分に。

続けて大人一人分の大きさに。

大型犬ほどの大きさになり。

バケツほどの大きさになり。

猫ほどの大きさになり。

女性の靴ほどの大きさになり。

小鳥ほどの大きさになり。

鍵ほどの大きさになり。

そして、ようやく普通の闘魚の大きさになりました。

舗道の上で跳ねています。

テスは窓から外に出ると、半月刀を抜き、片膝をついて闘魚の体を両断しました。
………………。
(逃げないと)

立ち上がったテスを慣れた気配が捕らえました。
冷たい気配が後ろにあります。
テスはもう一本の半月刀も抜きながら、振り向きました。
ニサがいた。

ニサでしょうか?
いいえ。
キシャです。
左腕で、胸に押しつけるように、書物『亡国記』を抱いています。
ニサに身を借りたキシャは、一言もなく前を指さします。

その先に塀があります。

(あっちに逃げろっていうことか……?)

テスもまた、一言も放たずに指し示されたほうへ駆けていきました。

塀を飛び越えます。

その先に言葉つかいや党員たちはおらず、攻撃を受けることはありませんでした。

テスは歩きます。

途中、落ちていた黒い帽子を拾い、幅広のつばで顔を隠すようにかぶりました。

後ろ髪がストールの中に隠れていることを触って確認し、今度は男物の鞄を拾います。

着慣れた灰白色のマントを脱ぎ、鞄の中に押し込みます。

二本の半月刀と、腰の後ろの銃が露わになってしまいます。

騒動のさなかに叩き割られたショーウィンドウの奥に、仕立屋のマネキンが着ている真新しい紺の二重マントを見つけました。

はぎとり、それを着ます。

そうしてぱっと見の印象をすっかり変えてしまうと、悠々と列車の駅まで歩いていきました。

次の寝台車、三等客室は()いているだろうか。

待ち合い室で、ガラス一枚で仕切られた駅員室にいる駅員に声をかけました。

駅員は低俗雑誌を読んでいるところでしたが、ポルノ小説の挿し絵から目を上げテスを見ました。

空いてるけども。

さっきの騒動だもんでね。

点検が終わってからじゃないと発車しないよ。

きっとすぐに終わる。
どうしてそんなことがお客さんにわかるんで?
テスは答えず、拾った鞄を探りました。財布がありました。銀貨を三枚出しました。
これで行けるところまで。
駅員は銀貨をすぐには受け取らず、しばらくの間見つめました。
……お客さん、もしよろしければ、一等客室や二等客室も空いておりますがね。
いいや。
贅沢をするよりも、少しでも遠くに逃げなければなりませんでした。
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