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文字数 2,501文字

生者は死者のように徘徊し、生きている死者を襲います。

棒やさすまたでつつかれて、死者たちが今日一日の労働に駆り立てられていきます。

崩壊を免れた建物の窓からその様子を見下ろしているテスに、老人が話しかけました。
その悪い言葉つかいは、自分の国を作りたかった。
老人の名はタシ。

昨日、あの男たちは、自分たちの手を血で汚そうとはしませんでした。

代わりにテスを倉庫に閉じこめて、彼らの執行部員、汚れ仕事を請け負う人間を呼びに行ったのです。
その間に倉庫の錠を破り、オルゴにテスを救出させたのがタシでした。

テスは窓辺の古い机に腰をかけ、肩から毛布をかけていました。胸の前で両手を交差させ、それぞれの手に毛布の(はし)を掴むと、体にしっかり巻き付けて身震いしました。

本当は、彼自らが死者の国に歩み寄らなければならなかった。

だが彼は死者の国を自らに引き寄せることを選んだ。

テスは弱い光を宿す目をタシに向けました。

老人は砂の詰まった歯車のような調子で続けます。

悪い言葉つかいは死者を蘇らせ、働かせ、貧しい生者に看守の職を与えた。

悪い言葉つかいが死んでも、死者は多くの生者に存在を認知されたため、消えずに残った。

それに、生者たちのほとんどは、金づるになる私らが消えるのを望まなんだ……。

善い言葉つかいは……。

どうして死者たちを解放しなかったんだ?

そうする前に殺された。

生者たちが寝込みを襲いよった。

部屋の戸が開き、テスとタシは身構えながら振り向きました。

黒ずんだ壁の殺風景な部屋に入ってきたのは、キユとオルゴでした。

怪我の具合はどうだ?
オルゴはテスに、濡らしたタオルを渡してくれました。

……って、そんなにいきなり治るわけないよな。

寝てる間に腫れはひいたようだが、痣になってるぜ。かわいそうによう。

優しく気遣う言葉をかき消すように、昨日の男たちに投げかけられた言葉が思い出されました。
「誰だってわかってるんだよ。言葉つかいの本性は人間じゃねぇってな。ケダモノめ!」
「誰の許可を得て二足歩行をしてやがる!」
「何で俺たち人間サマがケダモノごときと約束しなきゃならねぇんだよ!」
濡れタオルを頬に当てながら、伏せたテスの目が今にも泣き出しそうに潤むので、オルゴは少し慌てるそぶりを見せました。
おいおい……

多少はましになったものの、痛みは皮膚と同化してテスの全身に貼りついていました。

一番痛むのは顔と頭を庇った両腕で、こちらはへし折られる寸前でした。

痛みは惨めな気分にさせ、惨めな気分は寒さを引き立てます。

お前よう、どうして黙って殴られたんだ? 殴り返すこともできただろうよ。
テスは寒さに体を強ばらせながら答えました。
彼らは俺より弱いから……。
はっ?

反撃したら、戦いになる。

戦いになったら、殺さなければならない。

そういうものだから……。

オルゴは顔を引き攣らせました。

目の前の純粋そうな青年の口から「殺す」という語が飛び出たことに、ショックを受けているようです。

あたしたちは我慢できる。

テスが全部をあたしたちのせいにしてオルゴと逃げても、あたしたちは我慢できた。

そんなことはしない。

してもよかったんだよ。あたしたちは我慢するから……。

あたしたちは死なないし、生きている人間は自殺をするかもしれないけれど、もうそれもできないから。

いつか生者が死に絶えて、あたしたちに対する観測者が消えれば、あたしたちも消える。

それまでは、何があっても我慢する。

テスは何とも返事をしかねて俯きました。

一時の鐘が鳴りました。

死者たちは、キユもタシも、仕事をしなければならないはずです。

それからオルゴを見ました。

オルゴ。

この人と一緒に旅をできたらどんなに楽しいだろうと思います。

一緒に歩き、一緒に乗り物に乗り、共に眠り、共に食事をし、見たことや聞いたことについて互いに話をし、問題があれば一緒に考えてくれる、話しかけることができる、笑いかけることができる。

そういう相手といられたら、どんなに素晴らしいだろう。

テスはつくづく思いました。

俺はもう、町を出る。親切にしてくれてありがとう。

どうせあてのない旅なら、俺と一緒に来たらどうだ。

そうオルゴに持ちかけられたのは、昨日、死者たちの隠れ家で寝る直前のことでした。

オルゴはもう、俺と一緒にいないほうがいい。
でもよ――
危険なんだ。俺は言葉つかいだから。
だからって、
駄目だ。オルゴは家族のところに帰らなくちゃ駄目だ。心配して待ってる。
………………。
オルゴは上着の内ポケットをがさごそし始めました。
そうだ。お前、金持ってねぇんだろ? せめて……
大丈夫。受け取れない。
せめてこれくらいはさせてくれよ。お前は命の恩人だろ?
それならもう、十分に返してもらった。汽車賃を出してくれたし、汽車の中での食事代も……毛布も貸してくれた。
そんなの――
それに、
一緒にいられて嬉しかった……。
真っ黒い孤独の波が押し寄せて、テスを呑みました。
テスは絶望しながら肩の毛布を脱ぎ、畳んで立ち上がりました。
するとキユがシャツの胸ポケットに手を入れ、何かをつまみ出し、テスに差し出しました。
じゃあ、これ持ってって。

指輪です。

テスは大きく目を開きました。

これ、白金だから。売ればお金になる。

…………。

お金はいつかキユが必要になるかもしれない。

そう……。
テスが要らないなら、オルゴにあげる。
まごついたオルゴも、キユの目がオルゴから指輪に、指輪からテスに動いたので意図を察しました。
お、おう……。

もらったはいいけど、俺には必要ないな。

テス、ほらよ、俺からお前にやるぜ。

テスにはもうこれ以上、好意を拒むことはできませんでした。

そっと手を差し出すと、オルゴがテスの掌に指輪を置きました。

そうしながら、テスの伏せがちな目を覗きこんできました。

大丈夫か? もう一人で歩けるか?

テスは誰とも別れたくなかったし、オルゴやキユやタシも、そんなテスの気持ちを感じているみたいです。
この世界の人の心は(すさ)んでいます。

たまに優しい人や一緒にいたいと思える人に出会えても、こうして自分から別れなければなりません。

テスは何度も礼を言いながら、死者のねぐらを後にしました。
―つづく―
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