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文字数 3,323文字

二十三時、テスは目を覚まし、不変の夕闇の中で身支度を整えました。

客室をあとにし、黄色と灰色のまだらになった雲の下に出るも、第一甲板にはまだ誰の姿もありません。

指定された時刻はまだ一時間も先です。

テスは観測甲板に上がり、そこから第一甲板を見下ろして、人が現れるのを待ちました。

やがて、船内の全ての時計が一斉に零刻(れいこく)を告げ、ほどなくして昨日の言葉つかいの男と、取り巻きたちが現れました。

無人の観測甲板で身を屈めるテスが見下ろす中、彼らはぶつくさ言いながらテスを待ち続けました。

テスは立てた膝の片方に顎を乗せ、彼らの様子を観察しました。

二、三十分のも間、彼らは海風ふきっさらしの状態で、テスを待ち続けました。

遅い!!!
それでも律儀(りちぎ)にテスを待ち続けるあたり、素直なのか、ある意味従順なのか……。
じっと見守るテスの隣に、人の気配が現れました。
対策は考えてきたか?

気配に顔を向けると、そこにキシャ、書物を抱えた赤毛の痩せぎすの女が立っていました。

テスは第一甲板の男たちに聞かれないように、小声で尋ねました。

今、どうやってここに現れた?

おまえが知らなくてもいい方法さ。

で、対策は?

今考えてる。
今からか。もうとっくに約束の時間だろう。
あいつらは『明日、零刻をすぎたら第一甲板に来い』としか言わなかった。じゃあ別に今日の二十三時五十九分に行ってもいいわけだ。
おまえさぁ。
眼下の男はイライラしながら甲板を歩き回っています。

忘れているかもしれないが、この船は今日、目的地の大陸にたどり着く。

二十三時五十九分まで待つくらいなら、陸に着いたら跳んで船から逃げたらどうだ?

ああ、それもいいな。
それから更に五分も待つと、言葉つかいの男はいよいよ痺れを切らし、取り巻きたちに命じました。

もう待てん! 探しに行け、お前ら。

全部の二等客室と、ベッドの下と、物入れと、いいか、隠れられそうな場所は全部探せ!

便所もだ!

はい!
喜んで!
第一甲板にいるのが言葉使いの男だけになってから、テスはキシャに話しかけました。

あいつらは昨日、認定資格もないのに力を使うなって言った。

これは、たとえ目の前で人が化生に喰われそうになってても、助けるなという意味だろうか。

そうだろうな。
どうして。

一つは、勝手に化生を退治されては儲けが減ること。

そして一つは、言葉つかいがそれほど危険な存在だってことだな。

危険?
そうだ。言葉使いは言葉の力をそのまま使う。そして言葉は人を作る。

例えばだ。

拒絶と否定の言葉を浴びせられて育った人間がいる。

そいつの心の中には恨み憎む言葉が常に渦巻いている。

そしてそいつは無意識のうちに、自分のことを拒絶し否定する人間ばかりと付き合うようになるだろう。

その環境から出ていく力がないからだ。

かたや、愛され思いやられて大切に育てられた人間がいる。

そいつの心の中には温かく優しい言葉が常に渦巻いている。

そして、その環境から出ていく必要がないから、自分を愛し思いやってくれる人間たちと付き合う。

言葉が違うというのは環境が違うということだ。

そしてある日両者が出会い、ちょっとしたトラブルが起きる。

肩がぶつかったとか、足を踏んでしまったとか、何でもいい。

両者は言葉が通じない。

言語が同じでも、言葉が違うんだ。

痛い目を見るのはどっちだと思う?

後者だ。前者はそういう時、暴力を振るうのを恐れないから。
その暴力が、言葉つかいの言葉だよ。

前者は後者にけがを負わせ、殺すかもしれない。

そのとき、愛情や思いやりに満ちた優しい世界に生きている者たちは、憎しみ、怒り、恐怖、不安を知り、巻きこまれる。

感覚、主観、ものの考えかた、価値観、そうした自分の世界を壊されて、他人の悪意の世界に巻きこまれるんだ。

ありがちな不幸だよ。

それを拡大したものが、普通の人間と言葉つかいの出会いだと考えろ。

俺は誰かの感覚や世界を壊しただろうか?

おまえ、初めて大気の力を操れると気付いたとき、どう思った?

本来であればあり得ない動作が可能になったときは?

もし、自分が普通の人間で、他人があり得ない高さまで飛び跳ねたりしたら、どう思う?

そいつが助けてくれたとして、素直に感謝する以上に、怖いと思うはずだぞ?

テスは、自分が見捨ててきた通りがかりの村の人たちを思い出しました。


彼らは恐がっていたのです。テスを侮蔑することで、自分より下の、無力で無害な存在だと無理矢理に納得しようとしていたのです。そうせずにはいられなかったのです。


テスはそっとキシャから目をそらしました。

……さて、そういうことを理解して、おまえは今後どうする?

それでも……。

目の前で人が化生に食われそうになっていたら、助けると思う。

助ける力がある限りは。

だったらそうするんだね。結末を知るときが来るさ。

なに、この先の大陸には形喰(かたく)いも出る。おまえが力を使う機会も、その結果を知る機会もあるはずだ。

形喰いって、どういう奴なんだ? 前に、形あるものは何でも食うって言ってたな。

そのまんまさ、どうもこうもない。

でもね、あいつらは大地だけは食べないよ。自分の立つ場所だからね。大地なしには存在できない。

あとはまあ、空も食わん。

じゃあ、言喰(ことく)いは?

全てを喰う存在。天も地も。無さえも食らうと言われている。

だが、言喰いに会った者はもちろんいない。会ったら最後だからね。

被害にあった事例はないし、あくまで論理的にはいるはずのもの、という存在だ。

大地や空まで食う……そんなことをされたら、世界はどうなるのだろう。
食われた大地や空、という状態を認知できる者の前に、言喰いは現れる。おまえが言ったとおりだ。認知なくして観測はあり得ない。

存在と観測が逆転している。

……そうか。

()るものだから観測できる』んじゃないんだな。

『観測できるようになったとき、それは()る』んだ。

そうさ。言喰いにはすでに存在するという仮説が与えられ、『言喰い』という名が与えられた。あとは認知する方法と観測者が必要なだけだ。
全てが食われるのか。それが観測されて、それが『在る』ものとなったら。
テスは自分の言葉の恐ろしさと寒さに身震いしました。

人は言葉を作るし、言葉は人を作る。

人間は言葉を(むしば)み、言葉は人間を蝕む。

互いにそういう関係だ。

おまえ、蝕むことや食うことはね、決して消費して失わせるということじゃないよ。

取りこみ、著しく変質させて、自分自身にするということだ。この点を間違えるな。

さあ、その上で、言喰いとは何か考えてみろ。

テスはキシャの目を見つめ返し、その視線の圧力を受け止めながら、二度ゆっくり瞬きしました。一度首をかしげ、またゆっくり瞬きます。


それから不意に早口になりました。といっても、テスの早口は、人が話す平均的な速度と同じ早さなのですが。

俺は大地を消失させる者を知っている、キシャ。ついこの間、それを見た。見させられた。あの沼で。
…………。
キシャ、お前――
…………………………。

大気が嫌悪で身をよじるのを、テスは感じました。

下で、何かが起きているようです。第一甲板を見下ろしたテスは、大気が嫌う気配の源をすぐに見つけました。

言葉つかいの男が、第一甲板の中央で仁王立ちしています。男はゆっくり右腕を上げ、掌を天に向けました。

雲が空でうごめき、円形に割れました。

太陽が動いて、その円に収まりました。

()ちながら昇りゆく、黒い太陽……。

テスはこれまで二種類の武器を頼りに戦い、言葉の力は補助的にしか使ってきませんでした。

でもそれは、本来の言葉の力の使い方ではないのだと、別の言葉つかいを目撃し、初めて気がついたのです。

……そうか。

黒い太陽が、睫毛(まつげ)に縁取られた目を開けました。白目を持つ、人間の目です。

太陽は男の右の掌の真上にありました。

男の左手の動きにあわせて、眼球を左右に動かしています。

こういう言葉の使い方もあるのか……。

その忌まわしい目が、観測甲板上のテスを見つけました。テスとキシャをじっと見下ろし、動きを止めます。

テスは半月刀を抜きながら、素早く立ち上がりました。
言葉つかいの男も、第一甲板からまっすぐテスを見上げました。

―つづく―
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